雨月に添う


序章

「化膿すっと悪いから」
腹にいくらも包帯を巻いている男が言う。滲む血の出どころは塞がることが無い。
対する太公望の脚の傷は、既に血が止まり、隅の方はかさぶたを作り始めていた。普賢の元へ駆けつけるために、自らが施した傷だった。今は、その傷に、天化が薬を塗布している。太公望は、それをぼうっと見下ろしていた。
手強い者をようやく封神した。気が抜けている。
達成感や自らを肯定する気持ちは微塵もなかった。太公望がその存在を肯定したいと思った者は、根こそぎここにはいなかった。
それを思うと、頭の奥が揺れる。滲み出てくるものがある。太公望には、それの正体がわかっている。だから、気を紛らわすために、己よりも小さき者のことを思い出そうとした。
そう言えば、天祥は泣きやんだのだろうか。天化は、身内である彼の傍にいてやらなくてもよいのだろうか。そんなことを思いながら彼の顔を見れば、本来なら彼とて泣きたいだろうに、凛とした瞳が太公望を見上げた。
「どした、スース」
「天祥の傍にいてやらなくて、よいのか」
「んー」
薬を塗り終え、手慣れた手つきでくるくると包帯を巻き付けていく。天化は曖昧な返事を最後に、何も言わなくなった。
数多の犠牲の中、黄飛虎が死んだのだ。師までも失った。天祥は泣き腫らしているだろう。天化だって泣きたいだろう。彼にとって、何より偉大な父が死んだのだ。
太公望とて、確実に友と呼べる者を失った。そこに飛虎は含まれる。含ませて欲しいと純粋に思えるような、そんな男だった。
「おぬしは、泣かぬのか」
「あんただって泣いてないだろ」
「わしは泣かぬよ」
いくつだと思っているのかと、もっともらしい言葉を口にしようとした時、天化に煙草の煙を吹き掛けられた。
「ぶわっ……けほっ、げ……な、何をするか!」
「普賢様とは、長かったんだ?」
「……普賢?」
「他の十二仙より、仲良さそうだった」
包帯を巻き終えて、その場に座った天化が、煙の方角を変えるためか、そっと顔の向きを変えた。
「仲が良いも何も、わしらは同期だったからのう」
「……友達?」
「そうだな。そう呼ぶのだろうな」
「なんで泣かないんさ」
「……何故だろう」
理由など知っている。これは、つよがり、だ。天化がここにいなければ、自分はきっと滲みでてくる涙を堪えることなどできないだろう。ここに天化がいるから泣かない。これは最早、意地だった。
「俺っちも、なんで涙が出てこないのか、わからねーや」
ふーっと煙を吐き出した横顔は、小ざっぱりとしていて淀みがなかった。悲しみを覚えている様子もない。
太公望は、咄嗟に思った。――この男は、大丈夫だろうか……?
折れたって仕方のないことが立て続けに起こっているのに、こんなに涼しい、何事もなかったような顔をして。
(壊れて、いないだろうか)
自分の内に過った言葉に悪寒がした。心という器官を、壊してはいないだろうか。
「天……化?」
怯えて伸ばした手を振り払われる。
咄嗟のことに驚いた太公望の元に降ってきたのは、一変して緩やかな頬への感触だった。親指でついと目尻を撫でられる。硬直した目蓋は、上手く閉じることができない。その眼に映ったのは、わずかに目元を細めた天化の表情だった。
「……大切な人だったなら、泣ける時に泣いた方がいいさ」
ただ、悲しんでくれればいい。そう言った普賢の言葉が、身を裂くような痛みに変わった。
(一番、酷なことを)
奴め、一番酷なことを願いにしてくれた。
太公望は頭を振る。
「うるさい。おぬしがいては泣けぬであろうが。空気読め、空気」
「つまんねー意地張らなきゃいいのに」
「つまらんかどうかは、わしが決める」
「そう、だな」
やんわりと頷いた天化が、立ち上がって離れていく。その背中は、やはりしゃんとしたもので、太公望は安堵を強いられることとなった。ただ、恐れがあるのみだ。
「……スープー」
「なんスか?」
「……すまぬ、少し、飛んでくれ」
自分の半分も年端のいかない男に、栓を抜かれてしまった。その男は責任も取らずに、自分の世界に戻っていく。
だから、太公望はせめて人知れず零せる場所を目指した。激戦の熱がわずかに残るその場所ならば、瓦礫が全てを隠してくれるだろう。
「……いい加減にしてくれ、普賢」
頭の中で語り掛けてくる、もう生身で会う事は叶わないだろう友の名を呼ぶ。やがて声は音にならず、ただ、頭の中に頭痛のようにしんしんと積もっていった。
(悲しまないことができるはずもないのに、悲しんでくれればいいだなんて)
 頬に涙が伝った。



一章

腑抜けている場合ではなかった。だから太上老君に会いに行った。戦況上も、精神の上でも、得たものは大きかっただろう。
太公望は武王の軍勢と共に、進まねばならなかった。
「師叔、天祥くんもなんとかついて来ていますね。一時は、置いて行かなければならないかとも思ったんですが……」
囁く楊戩に、太公望は頷く。
「あの男の息子だぞ。心配であることに違いはないが、本人がついてくるというのだ。仕方あるまい。何、哪吒もいるしのう」
「……それはそうですが」
「それより、天化の様子はどうだ?」
「天化くん、ですか……?」
訝しそうな顔をする楊戩に、太公望はつい咳払いをする。何か変なことを聞いただろうか。
「天化くんは、まぁ、師叔のいない間、少し考え込むようなところは見られましたけど、至っていつも通りですよ。いつも通りすぎるくらいです」
やはり、楊戩も太公望を同じことを感じていた。
いつも通り過ぎる。縋るように戦場について来たがっていた姿とはまた違う。元の、出会った時のような穏やかな天化に、この男もまた違和感を覚えている。
「特別親しいわけではないですから、僕からは何とも」
「武成王ならば、きっとわかるのだろうな」
「そりゃあ……天化くんの父君ですからね。僕らにはわからないことだって、わかるに決まっていますよ。恐らく、ですけど……」
しかし、その男はもういないのだ。
虚空を見上げた太公望が、うむと頷いた。
「わしもおぬしも、人の親ではないものなぁ」
「そーですね……」
腕を組んで、「親にでもなっておけば良かったかのう」と呟けば、楊戩は肩を落として笑った。
「もう少し大人になってからでも良いのでは?」
「また、難儀なことを言うな、おぬしは。冗談だ」
「わかってますよ。僕もその冗談に乗って冗談を言ってみただけです。と、言ってもね、僕にはまだ彼がわかりかねているんです。余程、貴方の方が彼をわかっていますから。僕に聞くことは参考にもならないと思いますよ、師叔」
「そう言うな。わしだって手一杯なのだぞ。おぬしの意見くらい貸してくれてもバチ当たらんだろ」
太公望が言えば、楊戩はようやくくすりと笑った。この言葉に、何か彼の緊張がほぐれるものがあったのだろうかと、太公望は口角を上げる。
「……悪い気はしませんけどね」
「何が?」
「こういう時に頼られるのは、悪くないです」
「ふーん」
楊戩が更にひとつ砕けたような態度を見せることを、素直に喜ばしいと思った。世が世なら、立場を重んじることなく、友人になれたかもしれない。きっと、心根を知り合える存在になれたかもしれないと思う。
「一応、聞いてもいいですか?」
「良いぞ」
「師叔は、天化くんの何を心配しているのですか」
「それが、まだわからんのだ」
言いようのない不安。それだけがぼんやりと浮いている。確信も何も、可能性の一端さえない。
泣かなかった、泣けなかった、そんな天化の姿が、ただ太公望を不安にさせている。
「師叔、また随分と難しいことを振ってくれましたね……」
「わからんから聞いたのだ。仕方なかろう……」
やれやれとでも言いたげな楊戩から、太公望はさっさと離れた。
「これから黄河を渡る。用心せいよ」
「僕も貴方も空中要員でしょう。気を付けるのは武王その他……」
「そーだったな」
カラカラと笑いながら、太公望は心の中で溜め息を吐いた。
「……不安を吐き出しても、楽にはならんか」
楊戩は賢明な男だ。おぼろな可能性を示唆するより、見極めてより納得するまで迂闊なことは口にはしない。
わかっていたはずだろうに、つい打ち明けてしまったのは、やはり彼を信頼しているからだと思う。
「師叔!」
そんな楊戩に呼び付けられた。
「直接聞いたらどうですか!」
「そーだなー!」
けれど、一応は優しくもあるのだ。だから、太公望の背中になけなしのアドバイスを掛けてくれた。恐らく、彼の不本意なところを掘り下げ、甘んじてのアドバイスであろうことは容易く窺えた。
「気が向いたらなー!」
大きな声を上げると、少しだけ気が紛れたような気がした。
(父親、か)
いっそ、父親に、師に、あるいは兄でもいい。そのどれかになってやれれば良かったのかもしれない。そうすれば、天化の一本気な性格だ。おとなしく太公望の言う事を……
「いんや、ないな。それはない。絶対にない」
そもそも、天化が太公望を師として仰ぐわけがなかったし、まして、自他共に認める子供っぽさで、あんなクソガキの親代わりになれるとも思えなかった。
逆に、あの坊主は自分が保護者くらいの気持ちでいるに違いない。
泣きべそを示唆されたことを思い出す。少し恥ずかしいくらいだった。
「……ええい、わしはもう泣かぬぞ。そのための太極図ではないか……」
こんなに悩むなら、張奎を聞仲に会わせている合間に、飛虎に接触を取れば良かった。そんな思考が頭を過る。
否、そんなことはできない。まだ何も終わっていないのだ。彼の男に合わせる顔がない。それは普賢に対しても、十二仙に対しても同じこと。
太公望には決意がある。何も終わらずして、散っていった者たちに会う事はできない。
「泣かぬ」
もう泣かない。絶対に。



二章

「天化兄ちゃんは泣かないんだねー」
「……天祥」
スースみたいなこと言うんだななどと、唇の端から漏れそうになった。
天祥がこんなことを言い出すのはきっと、わんわんとさんざ泣いたことを少しくらい後悔する気持ちがあるのだろう。
天化は、ニッと笑った。
「オヤジにもコーチにも笑われちまう、そうだろ?」
「……そうだね」
それでも、まだ泣きたいに決まっている。天祥はまだ幼い。
自分は、そう幼くないから、だろうか。涙は出ない。ただ、じくじくと沁みる腹の血と同様、心に影が差しこむばかりだ。
「あ、兄ちゃん。また包帯……オレのこと背負ったりするから」
「違うさ」
そのせいだけじゃないんだと天祥に説明するには、症状が重過ぎた。これ以上、天祥に不安を与えたくない。少なくとも、自分を喪うようなことを暗示したくはない。
(……喪う?)
天化の頭に、言葉が過った。
(そうか、俺っち、死ぬのか)
恐ろしく真っ直ぐにすとんと落ちてきた言葉を、覆す術は今の天化になかった。
太公望の手配で、太乙と雲中子がこの傷のことを熱心に調べてくれている。しかし、造血剤を投与して失血した分の補充を試みることしかできていない。輸血などは、人間の方が優先だ。
天化は今、明確に自分の死を想像してしまった。
呆然としている天化の腕を、天祥が揺する。
「兄ちゃん?」
「あ、天祥……ちょっと、煙草、補充してくる。宝貝人間と遊んでな」
「うん」
駆けて行く天祥の背中を見つめながら、天化は心の蔵の鳴る音を誤魔化すことができなかった。
明確で明瞭な死、それが、更に心を蝕んでいく。泣いて叫んで、吐き出せたらどんなに楽だろう。
ふらりと頭を過ったのは、自身を心配する太公望の瞳だった。
「……ね、聞いてくんねーかな」
これまでにも散々、言われたこと叱られたことを蹴ってきてるから、うまく聞いてなんてもらえねーんだろうな。
天化は、口に銜えた煙草をついついと揺らした。
煙草を買いに町に出る。拳の中の煙草を見た。残り二本……吐き出した煙がぐにゃりと揺れた。
「……雨、降るかな」
湿気で煙の軌道が歪んでいる。今出れば、間違いなく降られる。
少し迷った結果、結局買いに出るしかない喫煙者たる自分を呪った。
煙草がないと死んでしまうなどとは言わないが、あった方が助かる。気を紛らわすのに、天化は嗜好するものがあまりに少なかったから。煙草には依存物質が含まれていて、そのせいで吸えば吸う程手放せなくなるのだそうだ。今は、その依存性に有難みさえ覚えている。
そういえば、何故そんなものを吸っているのかと窘められたことがあった。「手放せないくらい吸っちゃったから」と返したら、ひどく苦い顔をされた記憶がある。そう、手放せないくらい吸ってしまったんだ。あんたの桃とおんなじだ。
煙草屋の軒に潜り込むと同時、ざーっと降り出した雨を肩口に振り返り、天化はちっと舌を打った。思ったよりも早く降ってきた。
「おばちゃん、これ、この銘柄……」
ポケットの中の小銭を探る。カートンで買うには手持ちが少ない。
「この銘柄、二つ……」
代金と引き換えに渡された煙草を掴んで、天化は軒の外を覗き込む。走って帰ればすぐにはすぐだが、買ったばかりの煙草を湿気させるのは気引けた。
「どーしたもんか……」
手元の煙草の箱を睨みつけていると、すぐ横で声がした。
「そうだな」
ばっと振り返れば、そこには予想だにしない人の姿があった。
「ふお、スース……」
「これは、随分と盛大に降っておるな」
「あーた、出掛けてたはずじゃあ」
「そうだったか?」
「そ、そうさ!」
そうだ、確か楊戩に留守を預けて、不四象と出掛けているはずだ。そんな彼が、今天化の目の前にいる。視線の中を遮る煙草の煙、雨粒で世界が白んでいく。
「不穏なくらい降ってくれるのう」
「……今は、雨なんか浴びたくない気持ちになってくんね」
「……そうだな」
いくらか前に見た酸の雨。自分の父の命を奪った雨。それを思い出し、天化はわずかに肩を震わせた。
隣の太公望に気取られまいと、そっと肩口を撫でる。
「……夕立、か。少し雨宿りをして凌ぐとするか」
「そーだな」
雨の生まれいずる雲を睨み、立ち尽くす太公望をちろりと見て、天化は新しい煙草に火を点けた。
「雨には、良い思い出がないな」
「ん?」
「飛虎に、わしが殷に飛び込んだ時の話は聞いたか?」
「いんや。俺っちが来る前、だろ? 聞いてないさ」
「そうか」
安心したような、それでいて寂しそうな、そんな横顔に、天化はことんと固唾を飲む。
「今より弱く脆く、愚かだった。それを飛虎に叱責された。そして殷を離れたあの時も、確か雨が降っていた」
「スースが親父に怒られたって?」
「ああ、本当にできた男であったよ。武成王は」
「……へぇ」
それは見てみたかったさと冗談を零す事もできたが、今の天化はそうはしなかった。親指と人差し指で煙草を抓み、そっと煙を吐く。昇っていくことのできない煙が、するすると地べたに落ちていく。
「良い記憶はないが、わしが切り替えをするのは、いつも雨の時なのかもしれぬ。雨に何かを拭われるのかもしれないな」
洗い流されるのではなく、拭い落される。そんな言い回しが、天化の耳に残った。
「雨が、あんたを溶かすのかね」
「何?」
「雨が、あんたの表面を段々溶かして……そしたらあーた、何になるんだろうな」
太公望の内側にあるものを、天化は何も知らない。推しはかることもできない。雨が皮を溶かし、内にあるものを露わにするのだとするならば、彼はこの雨でまた、天化の知らない何かになってしまうのだろうか。
「……この雨が上がって、あーたが戻ってきたら、また別の何かになってるのか、なんてな」
「……おぬしは、たまに面白いことを言うのう」
ふふっと笑った太公望が、そっと足を踏み出した。
「あ、スース」
静かに降り続ける雨が、太公望の姿を濡らしていく。雨の中笑う男の姿に、天化はつい自分も足を踏み出していた。
「何笑ってんだよ。気持ち悪い」
「同じことを、申公豹にも言われた」
「よりによって、悪趣味な奴と一緒にすんなって……」
「そうだな」
天化は歩き出す。踏み出した以上、ここに長居すれば体温を失うばかり。死の感覚を覚えてしまった天化には、それが怖かった。
「行こうぜ、スース。風邪ひいちまうさ」
「ひかぬよ」
「ひくよ」
しっとりと、じっとりと、雨が太公望を崩していく。
「……俺っちも、雨に打たれたら変われっかな?」
「……おぬしは、変わらぬ方が良いのではないかな」
不思議そうな顔をした太公望に、天化は首を振る。
「変わりたいよ。拭い落としちまいたいよ……こんな」
こんな、恐怖は。
「何を求めているかは知らんがな、天化」
先程から、どうしてこの人はこんなにも寂しそうに笑うのだろう。どうして、いつものように強気で笑ってくれないのだろう。
「変わるというのは、寂しいことなのかもしれぬ」
「え……?」
太公望の言葉を反芻する。――寂しい、どういうことさ、それ。
「天化、雨が上がりそうにない。話は城に戻ってからでもよかろう?」
「そうだな! あんた、風邪ひきそうだし!」
「だから、わしはひかぬよ」
「だから、ひくって!」
ばっと走り出す。後に太公望がついてくると信じて。
けれど、幾先か軒を過ぎた後、水を弾く足音が聞こえないことに気付き、振り返れば、そこには太公望の姿などなかった。
「……あれ?」
立ち止まって、空から降り注ぐ雨を手の平に受け止める。
指で掬って舐めてみた。酸の味はしない。溶けてしまったわけではないようだった。
「スース?」
けれど、天化は咄嗟に思ってしまった。雨が、あの男を攫って、否、溶かして、消してしまったのではないか、と。
「バカげてんな……」
睨んだ先に漂っていた白い霧が、ふわふわと逃れて消えていく。けれど、やはりそこに探し人の姿はなかった。


「……寝てた」
「気付かなかったの?」
「いや……そうでなく……」
太公望は頭を振る。目の前でうっすらを目を開いている太上老君の姿を確認して、頭を振った。
どうやら、夢の中で眠っていたらしい。
「天化、が……」
「……彼は、生憎だな」
「……知っているか」
「当然」
やはり、ただ眠っているだけではない。戦況も既にほとんど把握しているらしい目の前の仙人に、太公望はきゅっと唇を噛む。
「妖怪仙人の呪いの傷……どうにかならぬか」
「その答えを聞いても、あなたは受け入れないと思うな」
恐らく、この男が言うのは揺らがぬ結果。それを否と否定するだけの力は、今の太公望にも、仙人たちにもないと思える。
「……そうか、やはりあれは、命を危ぶまねばならない傷であったか……」
太公望の言葉に、老子はそっと視線を逸らした。
「知っていたくせに」
「……認めたくないこともある」
「そして、あなたはまた、この未来も認めようとはしないだろう」
「その通りだ」
すくりと立ち上がる。夢見の悪い後だ。頭がくわんと揺れた。
「わしの命ならまだしも、仲間の命のこととあれば、認めたくなどない」
ズボンの砂埃を払う太公望の背中を見て、太上老君は浅く頷いた。
「そうだろうね」
「何か言ったか?」
「いいや」
ふっと外界にいる少女のことを思い出す。――そうだろう。彼女の命は、私とて案じるもの。
老子の視線の先、太公望は、抱えるものが多過ぎる。
「わからないな、私には」
「ん? おぬしのような者にもわからぬことが?」
「……うん」
全てを読んでいるからこそ言えぬ事は山ほどあって、その事に頓着などはしないが、見てみたい気もする。老子の頭の中では、常人にはままならないほどの情報がリンクし、漂っている。だからこそ思う。
(……ほんの少しだけ、あなたの作りたい世界に興味がある)
彼女の生きる世界、だもの。
「で、いつまでぼーっとしてるつもり? 続き、やらないのかな」
「わーっとるわーっとる。少し感慨に浸らせてくれてもよかろう!」
「感慨……?」
「水も滴る、なんとやら……だな」
ふふっと笑った太公望の心情など老子は知る由もない。興味の範疇にもない。それでも聞いてみたくなるのは、眠りに落ちてしまう前は死にそうな顔をしていた太公望の表情に、少なからず血の気が差しているからだろうか。
「ニヤニヤしてると気持ち悪い」
「ニヤニヤなどしとらんわ! たく、どいつもこいつも気持ち悪い気持ち悪いと……失礼な……」
「何考えたんだい、助平だなぁ」
「ぶっ飛ばすぞ……」
無表情のままで例のニヤニヤ顔を眺めていると、ぽつりと太公望が零した。
「濡れた黒髪の艶を思えば、雨も悪くないと思ってな」
「……なんだ」
聞いて損した。正確に言えば、損にも得にもなりはしなかった。



三章

雨に打たれた太公望は、やはり別のものになって戻ってきたのかもしれない。
彼の手にある太極図を見て、天化はそう思った。仕組みはよくわからないが、頭のキレる太公望に合った宝貝であることに違いないことは、天化の頭でも理解できた。
(……やっぱ、あの雨の日にいたのは、本物のスースだったんか)
けれど、太公望は確かに四不象に乗って戻ってきた。
あの時の太公望は、そうではなかった。
(どっちでもいいか)
戻ってきてから、まともに話もしていない。
楊戩や姫発と軍行の話し合いをしているのは見掛けるが、天化がそこに参加する意義は、今のところ見出せなかった。
確か、これから目の前の黄河を渡るはずだ。その相談をしているのを見掛けて、結局声は掛けないまま、この天幕で包帯を変えている。
「俺っちは、雨に打たれても変わんなかったな」
酸の雨に打たれ、あるいは、この腹の血を雨に例え、怯える気持ちは一向に変わらない。
時間が無い。わかるのはそれだけで、その事実だけが天化を追い詰めていく。笑ってしまう。敵に追い詰められるならいざ知らず、まさか、自分に追い詰められるだなんて。
「天化?」
「ありゃ」
その手に包帯を握っていた天化の元に、ちらりと太公望が顔を覗かせた。
「ちと待って。もう終わっから」
「いや、巻きながらで構わんぞ」
「それは俺っちが嫌」
「あ・そうかい」
ぷいと顔を逸らした太公望に苦笑いをして、天化はさっさと包帯を固定すると、上着に袖を通さず肩に乗せたままで太公望を呼んだ。
「どしたの」
「ん」
天化の声を聞き付け振り返った太公望が、天幕の中に落ちている血まみれの包帯を見やった。少しだけ険しい顔をしたような気がした。
「戻ってから話しておらんかっただろう。様子はどうかと思ってな」
「傷のこと?」
「おぬし全部のこと、だ」
そっか、と笑って見せると、険しい表情が少し和らいだ気がした。
「とりあえずは、大丈夫さ」
「そうか」
「あーたこそ、風邪ひかなかった?」
「風邪?」
「うん」
あの雨の日の幻をほのめかすようなことをあえて口にすれば、太公望はぱむっと頬に手を当てて、それから笑った。
「何を言い出すかと思えば。風邪などひかぬよ」
「それなら良かった」
そうだよな、やっぱりあれは幻だったんだと納得する。きっと血が足りなくて、雨足が強くて、自分は景色の中に幻覚を見たのだと頷く。
煙草を銜えて火を点けた。
よくよく考えてみれば、それ以外の何ものでもないのだ。何ヶ月も周から離れていたのに、天化に一目会うために、そのためだけに太公望が戻ってきていたなんて、そんな妄想は馬鹿げている。
「おぬしは、たまに面白いことを言うな」
「え?」
「いや、こっちの話。よいか天化。おぬしの身体のことだ。おぬしが一番わかっているとは思うが、とにかく無理はするな。流れた血は今のところ戻らぬ……」
「へいへい」
肩に掛けていた上着に袖を通し、そして頭の後ろで腕を組む。聞いているようで聞いていない。そんな態度で十分な返事だった。
「それと、何か」
「ん?」
しかし、太公望の何か言い難そうな表情に、天化はついと首を傾げる。俯いてもごもごとする姿が、やけに子供染みていた。
「何、スース」
元来は素直な自分の性格から、つい顔を覗き込めば、太公望はむっと口を尖らせて言った。
「何か、わしに言いたい事はないか。いや、わしでなくても良いのだ……とにかく、言いたいことは言っておくべきだと思ってな……」
「え?」
この人は、いつかの天化の心でも読んだのだろうか。今なら、蹴りつけることなく、天化の希望を聞いてくれるのだろうか。
「おぬし、わしには泣きたい時に泣いておいた方がいいとか言っておったではないか。おぬしの方こそ、言いたいことは言いたい者に言っておくべきではないのか」
「……スース」
天化は固唾を飲んだ。もしかしたら、この人は天化の内にあるわずかな猜疑感を知っているのかもしれない。それを指して言っているのかもしれない。不満があるならぶつけろと、そう思っているのかもしれない。
けれど、今の天化には迷うところがあった。促されている内容を彼にぶつけるのは不適切であるし、猜疑があるのと同様、信じたい気持ちもある。
今ここで太公望に不満をぶつけるのは簡単だが、それは自身の信じるべきという気持ちを蔑ろにすることにも繋がっていた。――それよりも……
あんたに聞いて欲しいことがあるんだ。オヤジが信じて託したあんただからこそ、俺は宣言しなくちゃならないことがある。
「スース、その……あーたの言う通り、聞いて欲しいことはあんだけど、もうちょっと考えさせて欲しいんだ。ちゃんと言葉にすっから」
「何を言われても構わんのだぞ?」
言い淀む天化を不思議そうに見上げる太公望に、天化はつい口角を上げた。
「いや、俺っち、結構動揺してるみたい。後で言うさ」
少なくとも、あんたを直接糾弾する気はないのだと。その表情だけで伝わればいいのにと思う。口は下手な方だから、態度でしか示せない。
そんな天化の様子をひとしきり見て、太公望は「そうか」と小さく零した。
「わかった。ではまた、時間を置いて、な」
「うん」
聞いて欲しいことがある。他でもない、この軍を率いてる太公望に。
とぼとぼと歩いて行く背中を見送りながら、天化はふっと煙を吐いた。煙はゆるゆると空に昇って行く。尚且つ、空色は良好である。
「大丈夫、雨は降らねぇよ、スース」



四章

天化の傷の経過がよくないこと、太上老君の言葉、そして何よりも天化自身の言葉が、太公望の嫌な予感を運んでくる。
早く休むとは言い残したが、鋭い楊戩のことだ。恐らく、太公望がここにいることは、気付いているだろう。
「御主人、夜は冷えるっスねぇ」
「放射冷却だよ、スープー」
「ホウシャ?」
「昼間暖かい……あるいは、暑い分、夜に冷える。そういう現象がある」
「へぇ」
のそのそと首を振る四不象を見て、太公望はわずかに頬をほころばせる。
「……おぬしがいてくれて良かった」
「何言ってんスか。僕はいつでも一緒っス」
「そうだな」
四不象がいてくれて良かった。一人では不安で、心細かった。
太公望は膝を抱く。
もしもここに本当にあの男が現れたら、どうしよう。きっとお互いにただでは済まない。話し合いでどうにかなるとも思っていない。
「御主人」
不安そうな声を上げる四不象を振り返る。
「ん? どうした、スープー」
「天化さんが本当に来ちゃったら、どうするんスか?」
「それを、今わしも考えていたところだ」
「そんな呑気な……」
「呑気なのではないよ。恥ずかしながら、思い付かんのだ。ここまで出向いて、何をしたら解決するのか、今だにわからぬ」
きっと、なるようにしかならない。天化はいつも太公望の想像の上をいくことをしてくれる。それが良いことでも、悪いことでも、範疇を超えてしまう。だから、きっとこれから目の前に現れる黄天化も、そうに違いない。
グローブに頬を当てて、ごしごしと擦る。
「……このままわしが眠ってしまって、天化が紂王を殺しに向かってしまったら、誰が悪いことになるのだろうな」
「それは、それは……誰も悪くないっス……」
「しかし、わしの意思に反した天化は、我々の元には置いておけなくなるわけだ。集団というのはな、そういう、どうにもならぬものがあるのだ。スープーよ」
「……ご主人が、望まなくともっスか? 望んでなくても、罰を与えないとならないっスか?」
変わらず不安そうな表情をしている四不象の頭を撫でて、太公望は深く頷いた。
「わしの感情でどうにかなるのは、精々ここまでだ。ここから先、天化が勝手をしようものなら、個人の気持ちではもうどうしようもなくなってしまう。だからわしらはここにいる。できることなら、感情で天化を止めたいものだからな……」
「止まって、くれるっスかね……天化さん」
「さぁ、どうであろう。あやつは、いつもわしの予想を軽く超えていくからのう」
太公望は、四不象を背もたれにしてのけぞった。見上げれば、幾千の星が輝いている。それらが、瞳に刺さりそうだと思った。
「……わしはな、今晩、ただ、あやつと星が見たいだけなのだ。伝えたいことがある」
「僕も、できるならそうしたいっス」
「全てが終わった時に、天化がいてくれたらな。わしらは良き友に……」
言葉が途切れる。
天化は太公望を許してくれるだろうか。父親のこと、師のこと、それから、ここで彼を止めること。その全てを。
「天化さんと御主人じゃ、友達って感じじゃないっスよ。精々じいちゃんと孫っス」
「おいコラ……」
ふふふと笑った四不象の表情に、ほんの僅かに明るみが差す。
太公望は、ほっと息を吐いた。やはり、四不象がいてくれて良かった。そうして安堵したのを表情には出さず、ただこほんと咳払いをする。
「この際、孫でも良いわ。生きてさえいれば、繋げる絆はいくらでもあるのだからな……それを、天化が望まなくとも」
 そう言えば、四不象は首をぐるぐると動かして、それから太公望を宥めるように言った。
「大丈夫っスよ、御主人」
「んあ?」
「御主人が天化さんを大事に思ってるのは、ちゃんと伝わるっスよ」
かぁっと耳が熱くなる。太公望は首を振って、それから口を尖らせる。
「天化さんに対しては、どうしてそう後ろ向きなことばっかり言うんスかね……すぐ機嫌悪くなるし……」
「わしが後ろ向きなのではない! あやつが、天化がそうさせるのだから、仕方なかろう……」
ぷいと顔を逸らす太公望に、四不象はやれやれと言わんばかりに溜め息を吐いた。
「素直じゃないっスねぇ」
「素直だぞ、わしは。素直だから、こうしてここに来ておるのではないか」
太公望は、彼が来るのを待っている。本当は来て欲しくなどないのに、それなのに待っている。
(大事に、思っておるよ)
大切なのだと思う。飛虎の遺したせがれ、だから? 周軍の重要な戦力だから? 仙界に必要な逸材だから? ――違う。黄天化だからだ。清爽で、朗らかで、その一方で精悍とした天化だから大切なのだろう。
(なぁ、星を見ないか、天化)
もしも、穏やかに話し合えたら。そんな想像をする。穏やかに話し合えたら、きっと言おう。嘘じゃない。詭弁じゃない。理屈でもない。
(おぬしのことだから、走る道ばかり見て気付いていないのだろう? 降ってきそうだ。刺さりそうだ。幾許かの光に、身体を貫かれそうだ)
そんな痛みが、神経の隙間を走る。
(でもきっと、おぬしの腹の傷の方が痛むだろうな)
死に急ぎたくなるくらいに。
けれど、そうではいけない。そうなってはならない。
これは、あくまで太公望の理想である。けれど、それ以上に、失ってはならない気持ちがある。
(その傷を抱えながらだなんて、我ながら酷なことを言う。けれど、いてはくれぬだろうか)
心の中、親友が振り返る。
もう、泣きたくない。泣くわけにはいかない。
生きていて欲しい。死んではならない。建前、理屈、それを語るのは簡単な一方で、太公望の本懐を口にするのは難しい。
(いて欲しいだけなのに)
どちらがより天化を引き止められるかを、自分はよくわかっているのに、その術がない。
(おぬしのお陰で、こんなにも痛むよ。まだ星の雨が刺さってもいないというのに。なぁ、天化……)
いつか軒下に隠れて話した時のように、少し雨宿りに付き合ってくれればいいものを。
(ああ、でも、あの時も、おぬしは一目散に走って行ってしまったな)
そういう男だ。よく知っている。
太公望は、かすかに痛む左腕の付け根を撫でて、それから首を振った。――そうだ。あの男は太公望の傘になど、なってくれる男ではなかったのだ。
「御主人、身体、痛むっスか?」
「いいや、大丈夫だスープー」
長い夜が始まる。
何も起こらなければ、ただ明星を見に来ただけのこと。四不象に我儘を言って夜を明かす。それはただの太公望の我儘で終わる。
それで終わり。それで。



五章

「なぁ、星を見ないか、天化」
聞仲との戦いで消耗した太公望の伏せる床に、見張り番として付けられていたのは、出会って間もない黄天化だった。
黄飛虎の息子。そして、道徳の弟子。目の当たりにした武道の実力は、それなりのもの。天化について太公望が知っているのは、そのくらいのものだった。
目覚めて暫く経つ。姫昌に回復の挨拶も済ませることができた。
それなのに、今だに見張られている状況に嫌気と退屈を覚え、太公望は声を上げたのだった。
「ホシ?」
「うむ、おぬし暇そうだしのう」
「暇は暇だけど」
太公望が目覚める前から、ちょくちょく様子を見せられていた。先程そうぼやいたのは、天化本人だった。
負傷者の手前、口許のタバコにも火は点いていない。嗜好物も楽しめない状況とあっては、看られている太公望の方が心苦しい部分がある。
「星なんて、仙人界でもごまんと見たさ。暇潰しにもなんねーや……」
「風情のない男だ……」
「風情だとか俺っちの暇加減だとかを考えるより、あんたは自分の消耗のことを考えた方がいーんじゃねーの?」
太公望は、きょとんとする。言われた内容よりも、なんとなく刺々しい天化の態度が気に掛かった。
「オヤジから聞いたさ。あーた、この国の軍師になるんだろ? いいのかよ。軍師サマがいつまでも見張り付けられるような具合で」
「……それも、そうなのだが」
まったくもって、天化の言う通りだった。
戦士たちの命を握ることになる自分の手の平を開いて眺める。重い責務であることは、誰より太公望自身が自覚していた。
「古くから、星を読み、命運を占う風習がある」
自分の手の平を眺めている太公望が、ぼそりと言った言葉に、天化はぽかんと口を開ける。
「……んあ?」
ぽろりと落ちたタバコが床に落ちきる前にぱしりと抓んで口に戻すその様を見て、太公望はそっと笑った。
「星を読む事は、采配を読むことに似ていると思わんか」
ざわつく胸を押さえ付けるにも、濃紺の星の海を見るのが良い。遥かに続く宇宙に思いを馳せるのも、また良いものである。と、そんな綺麗な言葉など、今はどうでも良かった。
「ようは、息抜きに付き合ってくれんかと言っておるのだが……なるほど、おぬしにはここまで言わんと伝わらんようだな」
薄く笑って言った太公望を見て、天化は銜えていただけのタバコをついと上げる。
「こんな夜中に、カバっちでも呼ぶんかい?」
「カバ……別に、あやつに乗るほどのことでもなかろう」
「……でもなぁ」
椅子から立ち上がった天化が腕を組んで、暫くふらふらと考え事をした後、太公望の寝台に歩み寄り、背中を向けた。少し膝を折って屈んだそんな姿を見て、太公望はぽかんとする。
「なんだ?」
「遅くなると困っからさ。タイムキーパーすんの」
「タイムキーパー……?」
「あーたが適度に満足して、そしたら俺っちが送り届ける。満足しなくても、俺っちが十分と思ったら、送り届ける。そういうこと」
どういうことか、太公望にはわからなかった。
「おぬしに、乗ればいいのか?」
「まぁ、そういうことさ」
天化の肩に腕を乗せて、身体を寄せる。おぶられる形になったところで、天化がひょいと膝を伸ばした。重力に逆らう軽い酩酊感と、相手に掛かる重量を案じる気持ちが、太公望の姿勢を不安定にさせる。
「ど、わっ!」
「ちょ、あーた、ちゃんとおぶられるさ!」
揺れた反動で天化の首にしっかりとしがみつけば、ようやく重心が安定した。
「カバっちには上手い具合に乗るくせにー」
「安定感が違うわ、安定感が!」
「そうかい」
溜め息混じりに言った天化におぶられ、部屋を出る。西岐城の一角の庭に出ると、思ったほどの星空より少しだけ空が遠い気がした。
「もっと丘に回らねばならんか」
「そんなに遠くまでは行けねぇさ……」
「わかっておる」
今は、太公望の意思で動いているのではない。天化の意思で運ばれるのだ。
「どう? これからの命運は読めそうかい?」
「ふーむ、どうかのう」
「やれやれ」
はっと肩を落とした天化に、太公望は見上げていた視線を落とす。すると、今度は反対に天化がわずかに顔を上げた。
「ほら、北の空に、でっかくて四角い星の並びがあるだろ?」
「うん?」
天化が顎で指し示す。
線で結ぶと大きな四角に、ひょろ長い尾がついているような星の並び。それを言っているのだろうかと、太公望は頷いた。
「うむ」
「あの周りの星まとめて、でっかい熊なんだって」
「クマ……?」
「ほんで」
ついーっと足をずらした天化にならって、体重移動をする。
「で、北極星の方には、小熊がいるさ」
「……おぬし、星座のことを言っておるのか?」
「うん」
ほう、と天化に倣って、北極星の方を見る。星座のことを指しているのだとすれば、太公望にもようやく天化の見ている景色が見えた。
「北極星を尾として、紫微垣(しびえん)を小さな熊に例えた、と。そういうことだな」
「しびえん?」
「なんだ、それは知らんのか」
太公望の言葉を聞き慣れないと聞き返してきた天化に問う。
「おふくろの受け売りだから、俺っちが詳しく知ってるわけじゃねーさ」
ロマンチストなところもあるのだなと思えば、なるほど、そんなことだったかと、太公望はそっと口角を上げた。
「良いか。天は時期によって見える星が変わるであろう? しかし、北極星の周辺……丁度、おぬしが小熊と認識しているところだな。あの辺りは、ほとんど位置が変わらぬのだ。だから、いつ何時も揺らがぬ天帝の位とされ……紫微垣と呼ぶのだそうだ」
「ふーん」
興味はなさそうだった。
「でも、地上の帝の立場は揺らぐもんさ」
「そうだな」
それを、丁度揺らがそうとしている者としては、呑気な話だと思った。天化も、そんな気持ちなのだろう。
「おぬしの母上は、何故そんな話をしたのだ?」
天化が星の繋がりを読む理由に、少し興味が湧いた。だから、そんな話を切り出す。
「ああ、でっかい熊がオヤジで、ちっちゃい熊は俺っちたち。オヤジの子供なのよって、おふくろが言ってたんさ」
「流石、飛虎の奥方。言い得ておるのう」
「だろ?」
空に座す大きな熊。なるほど、確かに黄飛虎にぴったりである。そして、そんな飛虎に続く子息たちも熊。天位に差し掛かるところは尊大とも思えたが、子供に教える物語とすれば、十分だろう。
「わしは決して屈強ではないが、味方にあんな大きな熊がいれば心強いな」
「そ」
自分の父親を、尊敬しているのだろう。天化は、深く頷いた。
「あーたは、でっかくもないし、武術も強そうではねーさ」
「実際、あまり自信はないな」
「それ言うか」
へらりと笑った天化が、続けて言った。
「じゃあ、風と雨と操る龍になればいいよ」
「龍、か?」
 己の愛用する宝貝、打神鞭を思う。あれは風を操る宝貝、確かに、天空を司る龍の使いに似ている。やはりそれは尊大な例えであったが、今ここには天化と太公望しかいない。誰が聞いているわけでもないのだから、それも構わないと思えた。
先程指示された小熊の上を、更に見上げる。
「そこに、りゅう座があることを知っていたか」
「え、そうなの?」
「小熊座のすぐ近くだ。知っていて言ったのかと思ったが……」
えー……と間延びした声を上げながら、天化も空を見上げようとする。すると、彼におぶられている太公望が、必然的に落ちそうになってしまった。
二人で慌ててバランスを取り直すと、残念ながら天化はりゅう座を追う事ができなくなってしまった。
「こういうな、形をしておるのだが」
太公望が、指で形を指して見せるのだが、天化はもう空を見上げようとはしなかった。
「もういいよ、今度見ることにする……」
「う、うむ」
自分だけがその龍を見上げる。上手い具合に小熊を囲んでいるその姿に、太公望は目を細めた。
「あの龍の一部には、過去、北極星とされた星があってな」
「え? 北極星は熊のしっぽじゃねぇの?」
「だから、過去と言ったであろうが……」
りゅう座には、古に北極星と設定された星がある。けれど、それも過去の話、今人々が北極星と仰ぐ星は、天化の言う通り、小熊座の尾にある。
そんなささやかな栄光を失った龍が、奇しくも自分に相応しいと思えた。
「……確かに、龍の使いは風も操るしのう。ははは、おぬし、なかなか言うではないか」
「だろー?」
「うん」
あの龍のように、おぬしらを守れたら良いのになと、それは口にしなかった。
「風情がないなどと言って悪かった。情緒も風情も、十分過ぎるくらいに備えておったのう」
太公望は空を見上げていた頭を戻し、そして天化の首に回していた手に力を込める。触れた髪が、さりさりと音を立てた。
「だから、俺っちが詳しいわけじゃないんだって……」
「でも、あれだろ。おぬしみたいな色男に星空云々語られたら、女ならばコロっと落ちるところであろう」
「へっ」
ギクシャクと動きを止めた天化が、わずかに振り返ろうとしたその動きを制す意味で、首根っこに回した手で天化の肩をポンポンと叩いた。
「女ならば、な? 己惚れるなよ、色男」
「なんだ、びっくりしたさ……」
ひひひと品無く笑いながら、心の中で「ウソウソ」と呟く。
(今のは、結構ぐっときたぞ)
いい男ではないか。仙道にするには勿体ない。
きっと飛虎と同じく、人間界にいれば、出来た奥方を迎え、立派な子を幾人ももうけるだろうに。
仙道になったが故、実年齢よりも幼い顔立ちの天化を横目に見て、太公望は胸にとげが刺さったような感覚を覚えた。
「おぬしの子にも、それを語ってやれば良かったろうに」
あったかもしれない将来を耳元で伝えれば、当の天化は軽く首を振った。
「スースが聞いてくれたから、いいや」
へへへと笑って言う天化の頭をぽすんと叩く。
「わしが聞いたからと言って何になる」
「おふくろの話を覚えててくれる人は増えるだろ? それに、俺っちには兄弟がいるし……きっと、みんなが子供たちに繋げてくれるっしょ」
「……そうだな」
人としての生き方に見切りを付け、幼いながらそれなりの覚悟をして仙道の道を選んだのだろうと思う。自分とはまったく違う覚悟であったとしても、太公望には天化を放っておけない気持ちがあった。
この男はまるで、兄のようで、弟のようだった。
「天化、そろそろ戻ろうか」
「ん? どうした? 疲れちゃったさ?」
「いや……」
満点の星空の中、こんな毒もない男に優しくされると、毒だらけの自分が、焼けて消えてしまうような気がした。
するりと天化のジージャンを一撫でする。
この男に甘えるのは、これまでだ。
「……星の雨が、刺さりそうだからな」
太公望の例えの話に、天化は曖昧に「ふーん」と頷いて、それから来た時と同じように、太公望を柔らかく元の寝台まで運んだのだった。
夜が明ける前に、部屋に戻って、恐らく天化が見張る中、さっさと眠ってしまえば、きっと毒が戻るに違いない。



六章

一睡もしていないのに、眠気は起こらない。ただ、焦燥に駆られる。
祈りは何一つとして届かず、結局太公望は天化と対峙し、そして、想像を超える状況を招いてしまっている。
太公望は四不象の上から禁城を見下ろして唇を噛んだ。
何故このタイミングで、奴、王天君が現れたのか。何故、奴は天化を誘ったのか。当人の言った通り、そうすることで太公望の理想が崩れ去る可能性があるから。奴は、太公望の計画を壊そうとしている。
(何が丸く収まるものか……!)
先程、四不象に説明したばかりではないか。天化が紂王を討てば、天化に罰を下さねばならなくなる。しかし、逆に言えば、それは太公望の、否、周軍にとっての不都合であって、天化にとっては? ――天化は、念願を叶え、あとは、呪いの傷がもたらす死を待つのみ。
(……わしがあやつに過ごして欲しい残りの時間は、そんなものではない……!)
しかし、考えずにはいられなかった。
太公望の押し付ける生と、天化の行動が招いた生と、あの男ならば、どちらを選ぶだろうか、と。それを、考えずにはいられなかった。
 天化の吹っ切れたような穏やかな表情が、太公望の頭に浮かぶ。
頭を横に振って誤魔化した。――違う、そうじゃない。そうじゃないんだ天化。そんな風に過ごさせたくないんだ。それでは、わしが許せないのだ。
わかっていた。これは、自分が勝手に抱えたエゴだ。
「何度この気持ちを噛み締めれば良いのだろうな……」
呟いた言葉は、朝を迎えようとする冷たい空気の中に飛散する。
太公望の頭にうっすらと見えている「導」、それが指し示す結果の通り、白んでいく景色の中、多分彼は、もう虫の息で待っているに違いないのだ。
あの傷で、あの出血で、これ以上の戦いをすれば、生命もすり減るに違いない。
太公望と四不象は、禁城の一角にようやく天化を見付けた。
太公望は思わず四不象から飛び降りる。身体を打つことなど気にしなかった。時間がない。それだけはわかる。
歩み寄って、そして、気付く。
多分、それはもう逃れようのないことで、自分も、恐らく天化自身も、当に見切りをつけていたことだろう。
「天……化……?」
 佇む背中に、太公望は言葉を失う。
何を言えばいいか、最期に、なんと――最期……?
「天化……天化!」
失血の量など、もう問題でなくなっていて、相手は息をしているかもわからない。
けれど、まだ生きている。生きているはずと、そこにある肉体に手を伸ばす。
日の出で白く輝く世界の中で、相手のその胸に刺さる槍も構わず、したたる血も構わずに、天化の肩を抱き寄せた。
焦り、動揺、後悔、それが、一斉に太公望の心を覆っていく。
抱き寄せた身体は、まだあたたかい。
最期ではない、最期にしてはならない。喪っては――もう泣かないと決めたではないか。
「天化……」
けれど、それは訪れる。
もう、認めざるをえないことを、気持ちよりも感覚が先に悟っていた。口を突いて出たのは、何より謝罪の言葉だった。
「すまぬ……すまぬ……」
 守ってやれなかった。きっと、つらい思いばかりさせた。
腕の中の確固たる肉体が、ぼうと光を帯びた。まだあたたかいのに。まだ、傷からは血が流れているのに。その光が現実を叩き付けてくる。
嫌だ。駄目だ。いってはいけない。
大切な人だったなら、泣ける時に泣いた方がいいさと、そう言った男が消えてしまう。守ることが叶わない。消えてしまう。そんなのは嫌だと拒否した所で、その時はくる。もうじきに。
(嫌だ、天化)
視界が滲む。
腕の中の重みが一瞬で消えて、まばゆい光になった。それは日の出の比にもならず、太公望は目を開けていることさえかなわなかった。



終章

あの人の身に転期が訪れる時は、雨が降るのだと言っていた。
ああ、確かに最期に一しずくを感じた気がする。意識は朦朧として、 自分の身体がどこにあるかもわからなかったけれど、確かに頬を雫が伝った。
自分の死が、あの人の転期になるなんて思わないけれど、天化の魂魄がこの地を去れば、じきに新たな王が生まれるだろう。
きっと、そのための雨だろう。
自分の身体がどこにあるかもわからないが、相手の身体がどこにあるかはわかっていて、まさか、あの人にあんなに腕力があるなんて思いもしなくて、だから、ほんの少し、振り返るのは気が引けた。
それでも、天化は禁城を振り返った。
「……変なの。雨なんて降ってねーさ」
雨は降ってないから、あの人の外殻が溶かされることはない。あの人は変わらないでいられるはずだ。きっと、別の何かにもならなくて済むはずだ。
じゃあ、あの一しずく、なんだったんだろう。
おぬしがいては泣くに泣けぬというつよがりを、ぼんやりと思い出す。
ああ、その顔見てやればよかった。見上げて「ああ、あーた、ちゃんと泣けるんさ」って笑ってやればよかった。
途方もない。それができたらば、それができる自分であったならば良かったのに。
(あんたを、一人で泣かせなんてしなかっただろうね)
 つよがりも、不安そうな顔も、何もかも、打ち壊せる自分であったら良かったろうに。
「しっかし、なぁ、なんで、あーたが謝るんさ」
今度出会ったら、水の雨に打たれる時も、星の雨に打たれる時であっても、一人になんてしない。それが、自分のわがままを押しつけたことに対して唯一出来うる謝罪だろう。
「じゃあな、スース」
もし万が一にもまた出会うことができたなら、強く優しく、それなのに雨に打たれて溶けてしまう、そんなあなたの、せめてもの傘になろう。