四畳半に台所の1K。
風呂もトイレもあるにはあるけど、湯沸かし器が頻繁にご機嫌斜めになる。駅近ではないけど、走ればトレーニングにもってこいの距離。家賃がやけにお手頃だから、他に何かきな臭い理由があるんじゃないのかなんて勘繰ってしまう。
そんなアパートの一室に住み始めて半年したら、
「おお、久しぶり」
白い帽子を被った天使が現れた。
「太乙の言葉を借りれば、二百年ぶりくらいだのう」
天使というのは、現れたら何か良いことが起こるものではないだろうかと、ここ二時間ほど考えている。
そんな傍ら、窓の外で轟々と吹く風を眺めながら呟いた。
「久しぶりも何も、俺っちあんたに会った事なんてねーけれども……」
そういえば、台風が近付いてるんだっけななんて、現場のラジオで聞いたニュースを思い出す。
「その台詞、もう十回近く聞いておるぞ。2時間が120分、10分に一度は同じ台詞を掛けてくるとは、律儀な男だのう」
呆れたことに、お引き取り下さいと突っぱねたにも関わらず、この天使は部屋に居座り二時間。茶くらい出さぬかと怒られたので、茶くらいは出したが、こっちは決して歓迎しているわけではない。
ついでに、天使とは呼んでいるが、決して羽が生えているわけでも、頭にわっかが付いてるわけでもないのだ。ただ、
「お名前は……」
一歩間違えば警察に迷子届け……いや、補導をお願いしてしまいたくなるような童顔の少年だというだけで、俺はこの人を天使と見間違ったみたい。
ふよん、と頭の帽子が揺れた。
「言いたくない」
「……じゃあ、おうちはどこさ」
「わしは迷子ではない」
「兄ちゃんが交番まで案内してやろうか……」
「だから、迷子ではないと言っておろうが!」
深夜と呼ぶに相応しい時間に差し掛かった頃に現れた天使は、先程から頑なに自分のことを話すのを拒否している。そして、座ったっきり動こうともしないから、無理矢理突き出すこともできず、俺はこの天使に居座られてしまっているわけなのだが。
「わかった、家出さ!」
「家出でもないわ!」
「じゃあなんだってんだよー……」
「会いに来ただけだ」
「誰に」
「友人に」
じゃあ、その友人とやらの元に行けばいいものを、この少年は、何故俺のアパートになど居座っているのか。それももう二時間も……。
「明日も仕事だから、もう寝たいんだけど……」
時間は、もう日を跨いでいる。深夜の十二時過ぎまで他人を置いておくなんて、俺も酔興なことだと腰を上げると、天使がほやっとこちらを向いた。
「叩き出すか?」
「……あーたが、普通に大人だったらね」
そう、大人だったなら、問答無用で叩き出していたところ。
けれど、目の前にいるのは少年だった。夜の夜中に、風の強い道を行かせるほど、心無い人間ではない。
得体が知れないものだから、ある程度の金品は隠させてもらったけど、妙な素振りも見せないから、窃盗が目的でないのもわかる。危険物を持っていそうにも見えない。むしろ、手持無沙汰にさえ思えた。
「……明日、朝一で交番行きさ。妙なことしたらその場で通報する」
「わかった」
何がわかったのかは知らない。
とにかく、俺は狭い一室にあるベッドに乗り上がる。一人暮らしだから、寝具はそれだけだ。
「枕と毛布だけ貸してやるから、その辺で横になるさ」
「狭くても構わぬぞ」
ベッドを指差して言う天使に、俺は間を置いて考える。
「いや、入れねーし」
ぶんぶんと首を振って見せると、天使は残念そうに口を尖らせた。
冗談じゃないさ……。
「残念だのう」
すごすごと薄い絨毯の上に枕を置いて、天使は伏せった。
そのうなじをちろりと見ながら、思わずうーんと声を上げる。いや、どんなに言われたって、ベッドに入れるつもりはない。
「もう遅いから、早く寝るさ。あんたのせいで仕事が増えたんだから」
少年を交番に突き出すという仕事が、だ。
「はいはい」
「はいはいじゃない……」
ぼやきながら電気を消す。財布も携帯も鍵も、一通りの貴重品は身に付けたまま眠るから、恐らく大丈夫だろう。
「おぬし」
「んあ……?」
「おぬしは、何の仕事をしておるのだ?」
「親父の建築業を手伝ってるさ……」
「そうか、親父の……」
天使が、もぞもぞと動いて、それから笑った。
「親父のことは、好きか?」
「当たり前さ。尊敬してる。そういうもんだろ」
「そういうものかもしれんのう」
もそもそ、また動いてる。暫くして動きが止まった。
ようやく眠ってくれるだろうか?
「変な奴さ」
ならば、俺も就寝しようと目を閉じた。
◆ ◆ ◆
衣擦れの音に目を開ける。
「そうかそうか、相変わらず親父が好きか」
声のする方を見れば、肘をついて横になっているスースがいた。
「変わらぬな」
「びっくりするくらい変わらねーよ」
「……目が覚めたか?」
「うん」
白昼の中では蓋をされている記憶が戻った。だから、目の前の天使の名前も、今ならわかる。それが、この人の本来の名前でないことも知っている。
「天化、入れてくれ。寒い」
「あいよ」
掛け布団の端を持ち上げベッドに誘えば、ころころと転がってくる。そんなスースを受け止めて、俺は欠伸をした。
「おぬしが綺麗に忘れておるから、少し焦った」
「嘘だ。全然焦ってなんかいないくせに」
「おぬしにまで誰かと言われれば、それはそれでこたえるものがあるよ」
まぁ、おぬしだけではないのだがなと、腕の中でスースが呟いた。
「普賢だけだな。忘れないのは」
「ふーん、そうかい」
「けれど、あやつもいつかは忘れてしまうのだろう……」
神の記憶を、始祖の名を、いや、古い友の名を。
忘れていくのだろうなと呟いたその声色は、とても寂しそうだった。
珍しく弱気なその吐息を掬い上げて瞳を覗けば、なんとも不思議そうな顔をする。
「……何を、ン」
言い掛けた言葉を唇で遮った。意味を持たない音だけが漏れる。
「ずっと傍にいてくれたら、あんたのこと忘れないのに」
「何を言うか。明るくなれば、またおぬしはわしのことなど忘れてしまうよ」
「だから、ずっと」
「傍にいるではないか」
始祖の「傍」と人の「傍」には恐らく大きな差があって、俺はこの人の「傍」を傍とは認識できないままでいる。きっとこの人は、姿を見せないあの女狐さえ「傍」にいるものと認識しているだろう。
そうじゃない。
「そうじゃなくて、隣で生きて欲しいんさ。今の部屋は狭いけど、あーた一人くらい居座れる部屋に引っ越すだけの給料はあるから。だから、隣で生きてて欲しいんさ」
そう言えば、スースは真顔で首を傾げて言った。
「プロポーズ?」
間違ってないけど、正面からそう聞かれると少し照れる。
「生まれ変わっても、俺っちはあんたに好かれる自信ある」
「傲慢だな」
目を伏せて鼻で笑ったスースが、ちらりと目を逸らした。
「百歩譲ってそうであったとして、ならば、何度生まれ変わっても、おぬしはわしを置いてゆくだろう」
何百と何千年と経っても、この人はそれを根に持つのだ。
俺がいくらそうでないと言ったところで、実際に置いていかれている彼は言うのだろう。こうして、俺を遠退けるように。
「何度も失うのは、嫌なものだぞ。次第に、慣れていってしまうからな。その証拠に、わしは何度となくおぬしの死を聞いておるのに、一番に想うのは最初の一度、そればかりだ。本当に嫌なものだよ。愛した者の死に慣れることは」
だから、遠巻きに死を知るだけがよいのだと、その方がまだ胸を痛めていられるからと、彼は言った。
「……それでまた思い出したように、転生した奴らの所に顔を出すんだ」
「そう、それがいい」
頷いたスースの表情はやけに穏やかで、満足そうだった。
「そういえばな、先回、発かと思い声を掛けたら、姫昌だったことがあった。あれには驚いたな。やはり似ておる。わしでも気付かぬことがあるのかと思ったよ」
「……そりゃあ、長生きしてたら」
昔話をするようなゆったりした口調に、目蓋が下がる。
「姫昌さんは、覚えてた……?」
「うん、とても懐かしい声で呼ばれた。今日は釣れますかな、太公望……と」
「うん」
嬉しそうに言うスースを緩く抱きながら、俺は何とも言えない気持ちになる。
「たまには、いいことがあるものだ」
「……うん。たまには、か……」
覚えていてくれることに喜びながらも絶望をして、それを繰り返し繰り返し、ただ、人とは違う時間を生きている。
そんな彼に寄り添って生きることが自分に出来たらと思いながら、その一方では、彼が寄り添ってくれたならばと、勝手で傲慢な夢を見る。
「スース、ごめん……俺っち、もう」
「ああ、眠るといい。明日も仕事なのだろう?」
「ん……」
スースの言う通りだ。俺はもう一度目を覚ましたら、彼の名前も、存在の意義さえも忘れているというのに。
「ああ」
でも、そうだ、笑い話があるんだ。
どうかそれだけ聞いて欲しい。
「なぁ、今の俺があーたを見た時、なんて思ったと思う……?」
「どうした、突然……」
「天使、って」
あんたの下品な笑い方とか、卑怯な手とか、子供っぽい性格とか、本当は何百年も何千年も生きてるジジイだとか、そんなことを知っていたなら、思い付きもしないことだよな。
笑ってくれよ、俺があんたを天使だなんて思っちまったんだから。笑ってくれよ。見開くと零れそうな大きな瞳を、爛と輝かせて笑ってくれよ。
俺は今、ただその顔が見たい。
「天使に、見えたんだって」
なによりも、何度生まれ変わったって、俺はあんたに惹かれるんだろうな。
「……ばかもの」
天使は、一瞬驚いたように目を見開いて、それから眉を寄せて笑った。
ごめん、少し、いや、たくさん困らせて。
◆ ◆ ◆
日の明るさに目が開く。腕の中にあるものに驚いて、俺は「わ」と声を上げた。
「い、いつの間に……」
そこには、いつの間にかベッドの中に入り込んでいた天使の姿があって、あろうことか、俺はその天使を腕に抱いて寝ていたのだ。
このくらいの年頃の男子らしい、少し骨張って固い筋肉の感触に、俺は目をぱちくりさせる。
「おはよう」
「あ、おは……」
目を擦りながら起き上がった天使の隣で、俺はぼうっと揺れる頭を支える。やはり少し寝不足のようだった。
勝手知ったるかのように台所で顔を洗った天使が、玄関の戸を見ながら言った。
「交番に突き出される予定だったが、それは御免被るとして、わしは元いた場所へ帰る。達者で暮らせ」
「も、元いた場所って……家さ?」
「まぁ、そんなもんだ」
ふふっと笑った天使の横顔に、「うそつけ」と悪態が湧き上がった。
しかし、それを突き付けるには、俺には根拠がない。俺は結局、この天使の正体を微塵も知らないのだから。
「その」
呼ぶ名前を知らないまま、俺は彼を呼び止める。
不思議そうに振り返った天使に、俺は言葉を失って、指先で頬を掻いた。
「……また家出したら、来ればいいさ」
「だから、家出でも迷子でもないと言うのに」
「いいから。なんでもいいから」
また、と言えば、天使はゆるりと笑った。
「そうだな、またいつか」
それが、もしかしたら本当に百年や二百年後なのかもしれない。何せ、相手は天使で、俺は相手の名前も知らない。すれ違っても気付かないかもしれない。出会ったってわからないかも。
「いつか?」
「わかったから、そんなに寂しそうな顔をするな、天化」
天使は薄い靴を履いて、さよならよろしく手を振った。
俺は、なんて返していいかわからず、ただその背中を見送った。来た時と同じように、白い帽子がふわふわと揺れていた。
「……あれ、なんで名前……」
慌てて部屋を出る。追い掛けようにも、柵の向こうにも階段の下にも、既に天使の姿はない。柵から身を乗り出し、遠くを睨みつけてみても、その姿はもうどこにも見付けられなかった。
俺はがっかりなどしていないのに、胸の奥には重いしこりが残っている。これは誰の気持ちなんだろう。
そんなことを思いながら鳩尾を撫でていると、ぽんと背中を叩かれた。
「そんな所から身を乗り出しては危ないぞ。今は普通の人間なのであろう?」
慌てて振り返る。そこには、羽など生えていないが、元の通り天使がいて、俺は思わず、ほっと息を吐いた。
「折角のおぬしのプロポーズ、受けてやろうかと思ってな」
黒い前髪の向こうで爛と輝いた瞳を綺麗だなぁって見つめていたら、予測もしない言葉が返ってきて、俺はあんぐりと口を開けた。
「ごめん、ちょっと訳がわからないんだけど」
「胸に手を当て、よーく考えてみれば、いつか訳はわかるであろう。とりあえず仕事に行かんくて良いのか? 大好きな親父に世話を掛けることになるのでは?」
「あ……!」
それもそうだと手を打って、ばたばたと部屋に入る。
今はまだ訳がわからないけど、訳知り顔の偉そうな少年は、本当に全てを知っていて、それでもってここにいるのだろう。
何もわからないけど、ただそんな気はしてきた。
「なぁ」
振り返る。柵に手を置いてぼうっとアパートの外を眺めている天使が、ほやっとした顔で俺を見た。
「あーたの名前」
「怠慢は許さぬ。自分で思い出せ。知っておるはずだから」
「……思い出せない間は」
「そんなん知らんわ」
「じゃあ」
じゃあ、天使。
そう言えば、ぼわっと頬真っ赤にして「それだけはやめてくれ」って怒られた。
なんだ、あーたそんな顔もできたのか。