学生と教授と、きまぐれな人


研究室にいられなくなった。
雲中子があんなことをするから、そう言って愚痴る相手もいない。愚痴ることもできないネタだ。学生相手に熱を上げるなんて、学内では……まぁ、ないこともないカナー? くらいの話だが、それでも大っぴらに言葉にできるものではない。そのくらい、太公望だって弁えている。
(雲中子め……何故あんなことを……)
興味がなさそうだった。だからバレても気にしなかったのに。
(あやつが何を企んでるかわからぬ以上、研究室は危険だ……)
あのトンチンカンの変態が、自分のことをそういう目で見ているとは思えなかった。ただの興味本位だろう。
けれど、相手がトンチンカンの変態なばかりに「だから安全だ」とは言えないのである。
ぐらんぐらんと揺れる頭をそっと押さえて、太公望は溜め息を吐いた。
(……しかしな)
マンションには、天化がいない。一人きりになってしまう。
むしろあんなことの後だから、会いたくもない。会いたくはない。けれど。
(気にするなって方が無理だろ)
電話口で天化に言われた言葉を反芻する。
そうだろう。好きでいてくれるなら好きでいてくれる分、気になることだろうよ。
自分だってそうだ。こんな、何もない自分より、柔らかそうな女の子の方がどれだけ天化に似合いか、気にする。気にして、誤魔化す。
(……駄目だ)
やはり、マンションには戻りたくない。
雲中子にからかわれた日は無理に帰って無理に眠ろうとしたが、結局浅い睡眠のまま目を覚ました。
「ホテルでも取るか……」
そんな溜め息を漏らした。Uターンしよう。そう決めた。だから、戻ろうとしていた。
マンションの通路で、座り込んで丸まっていた天化を見るまでは。
太公望の靴音に、天化が頭を上げた。
「……おぬし、まだ戻らぬ予定ではなかったか……」
「……繰り上げた」
そう言った天化が、口を尖らせている。
「……どうして、また」
「どうしても気になって」
鼻の頭が赤いのは寒さのせいだろうか。こんな冬の季節に、風の抜ける通路で待っている奴があるか。鍵だって持っているのだから、中で待てばいいのに。
太公望は、思わず口を尖らせる。
「……だから、気にするなと言ったではないか」
「無理だろ、そんなもん」
がしがしと頭を掻き乱した天化が、太公望を見上げる。
その不機嫌な様子に、太公望はびくりとした。普段なら気にもしないというのに。
「あー……その、違う。あーたを疑うとか、じゃ、なくて……」
顔を逸らした天化が唇に煙草を銜えた。火をつけて煙を吐く。
「そもそも、さ。俺といてくれるのが、その……不自然なこと、つーか……」
「不自然……?」
「……俺っちと、いてくれてたことのほーが、奇跡……つーか……」
顔をぐしゃぐしゃと拭った天化が、座り込んだままで言う。
その言葉の訳が分からなくて、呆然とする。そこで、太公望は自分の手が震えてることに気付いた。
「違うんだよ……あーたは別に、誰と何してたって良くて……その、俺がとやかく言うことじゃない。ごめんって、そう言いたかっただけだから、その……」
立ち上がった天化が、俯いたまま太公望に向かって歩いてくる。
すれ違って、エレベーターのボタンを押して、
「ごめん」
そう言った。
エレベーターに乗ろうとした天化のその手を、太公望が捕まえる。手はまだ震えている。
天化が、とても苦い顔をしていた。けれど、苦いのは太公望だって同じで、それでいて苦しいのだって同じだ。
「とや……かく、言え……」
口の中がもやもやする。何か、他にもっとうまい言葉があるに違いないのにと思った。こういう時に限って、何も出てこない。
「言えねぇよ」
「なんで」
「だから、あんたが俺っちなんかと……」
「なんかとか言うな」
「子供で、バカで、こんな……なんでこんなこと言うためだけに戻ってきてんだよ俺……」
ぎゅうと抱き付く。だって、体が震えてる。止まらない。
天化の口から、ぽろりと煙草が落ちた。
「なんかなんて、言わないでくれ……おぬしを好きなわしが、可哀想ではないか……」
「あんたさぁ……」
たはぁと、長々と溜息を吐く天化。体の強張りはどこかへいって、そして今は太公望を受け入れてくれている。抱き締め返されなくても、それは感じる。
「……悔しいけど、今のキた……すげームカつくけど」
「もっと言え。罵詈雑言、今ならなんでも聞いてやるぞ」
「誤魔化されてるよーな気がするさ……」
「もっと」
「……なんだよ、あの電話。ふざけんなよ。ガッコ泊まってただろ。浮気だ。俺っちのことなんだと思ってんだ」
「ん、すまぬ」
抱き付いたまま顔を上げる。口を尖らせた天化が「やっぱり誤魔化されてるみたいだ」と呟いた。
「嘘つきじゃんか。キョージュなんか」
ぐっと言葉を止めた天化が、自分に抱き付いている太公望の頰をぐっと拭う。摘んで引っ張って、それからぱちりと叩いた。
「俺っちに、飽きたのかよ」
太公望は、天化のダウンジャケットの袷にぽすんと頭を置いた。顔を逸らす天化の胸板が、太公望の額を押す。
「……帰っても、おぬしがおらんから」
「帰ってるって嘘ついた」
「咄嗟につい」
「……ガッコの研究室の方がそんなに好きかよ。それなら、ずっといればいいだろ」
「やだ」
頭を尚の事擦り付ける。甘え下手な自分にしては珍しい仕草に、これでは本当に誤魔化しているようだと嫌悪する。
けれど、天化の匂いがする。大好きだなんて青い事は言わない。頭を擦り付ける仕草はまるで、その匂いを自分に付けているようだと思った。
「なんだよ、それ……」
「匂い付け」
そう言えば、天化は「はぁ?」と声を上げる。
「あんたの匂いなんて付けられたら、たまったもんじゃねぇさ……」
違うよ、とは言わなかった。柄にもなく少し傷付いたのかもしれない。
しかし、だ。天化に自分の匂いなど付けなくていい。自分にさえ刻み付けられれば、それでいい。
そう思っていた太公望の頭に、天化が口を擦り付けた。
「……あーたなんて、煙草臭くしてやる」
ちかちかと視界に星が散った。多幸感で胸が苦しい。
なんなら、それを肺まで注ぎ込んでくれたっていい。噎せ返るくらいに匂いを付けて縛り付けてくれたらいいのに。
「ん」
冗談のつもりで言っただろう言葉ににこりと笑って見せてやると、不貞腐れていた天化がするりと頬を擦り付けてきた。乾燥した冷たい頬に、随分と待たせて悩ませてしまったかもしれないと思った。少しだけ反省する。
「わしは、おぬしの匂い好きだぞ」
だから、満たして溢れるくらい、この男に包まれたい。
(でも、満たされた後は? わしが一杯になってしまったら?)
その時、飽きるのは多分、太公望ではないのだ。
(だから、こわいよ)
体を繋げたら、その後は?
「なのに匂い付けなんて、わけわかんねー……」
ようやく、天化が腕を上げて太公望を抱き締めた。我慢していたのか、あまりにも力任せに抱き締められて、太公望は「ぐぅー」と濁音を上げる。
とんでもない。
すりりとダウンに頬を擦り付ける。
(だからこその、匂い付けだよ)