天化に会いたい。
ぽつんと、誰にも聞こえないような声で呟いたのを、偶然にも聞いてしまった。
だから、雲中子は手に持っていたグラスの中のビールをちびりと飲んだ。
「何、別れたの?」
「ちがわい」
多分、暫く家に帰っていないんだろう。
気付けば、太公望は研究室にいた。大晦日と正月は流石に追い出されたが、年明けもすぐに戻ってきたのだ。それは太公望も同じだった。
それは、教授陣の新年会の中だった。
周りはドンチャンと愉快に騒いでいる。
「冬休みなんて、あっという間じゃん」
「うん」
「うむ」じゃなくて、「うん」だって。意外とかわいいところもあるんだねぇ、などと思う。
「それでも会いたいんだ?」
「会いたい」
頷きもせず、グラスを持ったままぼんやりと言う太公望。
「会いに行けばいいのに」
「実家など、どこにあるかも知らん」
「そっか」
聞かなそうだもんねぇ、意地張って、なんて思う。
頬を赤くして、年に見えない童顔のその瞳を潤ませて、そんな顔して「会いたい」なんて、目の前で聞いた方は堪らないだろうに、残念ながらその相手はいない。
「研究室いないで、家帰れば?」
雲中子がそう言えば、太公望は一口だけビールを飲んで、それから「一人だから」と呟いた。
「骨抜きじゃない」
「そーかも、しれぬ」
この光景を録画して彼氏に送ったら、それはそれで面白そうだなんて思いながら、本人が正気に戻ったときに困ってしまうかもしない。
面白いものを見つけてしまったなぁと、持ち前の好奇心がおかしな方向に走り出す。それもいつものことだ。
「セックスしたの?」
「してないよ」
「一緒に住んでるのにぃ」
「しないよ」
多分、これからも。小さな声でそう言った太公望が、おぬしは野暮だとか、下品だとか怒らない。
この調子じゃ、相手はどうも正気ではないな……と雲中子は肩をすくめた。
多分、彼も自分も正気ではない。何故こんなに気になるのか。そんなことを考える時点で正気ではないのだ。
太公望が膝を立てて、そこにうつ伏せた。
「したくなんないの?」
「んー…したいよーな、したくないよーな」
「なに言ってんの、今更」
うつ伏せたまま横を向く太公望が、小さな声で言った。
「なんか、壊れそうでな」
今更壊れるものがあるだろうか。あえて言うなら、本人のカラダかな。
雲中子は、ビールを口に含んで「あ、そ」と返事をした。
うつらうつらとする太公望は、結局雲中子に任せられた。何せ、帰る場所が同じだから。
「そもそも、研究室に二人で帰るのがおかしーんだけど」
雲中子は、太公望の研究室をピッキングすると、奥のソファに太公望の体を放った。
パーカーのポケットに刺さっている携帯を見つめて、しばらく考える。
「どれどれ」
連絡先一覧を拝見して、それらしい名前を選ぶと、すんなり掛けた。戸惑いも躊躇もなく掛けてやった。
留守電。もう一度掛ける。
……留守電。
雲中子の視線の先では、太公望がむにゃむにゃと口を動かしていた。半ば眠っている顔を見てると、どうしてかこの留守電に困ってしまう。
「逃すとまずいタイミングって、あるもんだよね」
つつんと太公望の鼻先を摘まんだ。
これが最後のチャンスだろう。
同じ相手に三度目のコールを鳴らしたその時、ようやく繋がった。
「キョージュ! あけましておめでと…!」
「はい、あけましておめでとー」
そう返せば、電話の向こうの声が「え」と呟いた。
「残念ながら太公望は寝てるんだけどね、私の横で」
「何言ってんの……? あんた誰……」
「ああ、わかんないかな。さて、私は誰でしょう~」
「おい、きょ……望さんに変わるさ……!」
「だから言ってるじゃない。寝てるんだ……」
雲中子の手から携帯が取り上げられる。つい、口角が上がってしまっていけない。
「……何しとるんだ、雲中子……」
「ちょっと実験」
雲中子の言葉を聞き終える前に、太公望は携帯に向かって話し始める。先ほどの正気ではない態度はどこへやら。
会いたいなんて気持ちもどこか遠くに見える声色で、彼と話している。
「雲中子教授が悪ふざけしたようだから。気にするでない。家? 帰っておるよ。心配するな」
「嘘ばっかり」
あえて聞こえるように言う。
「会いたいってのは嘘だったわけ?」
怒ったように振り返った太公望に、雲中子は両手を上げる。この言葉の弊害がわからないほど子供でもないし、むしろ立派な大人だった。
「……天化、あやつの言葉は気にするな」
「気にするなって方が無理でしょ」
恐らく、雲中子と同じ言葉を相手が返したのだろう。太公望の表情が曇る。
「だから、あやつが悪ふざけを……って」
どうやら電話を切られたらしい。
困ったような怒ったような顔をしている太公望が、ぐしゃぐしゃと顔を拭った。
「帰った方がいいんじゃない?」
のんきにそんなことを言う雲中子に、太公望が何か言いたげに口を開いた。けれど、結局その輪郭は何も吐き出さないまま、ソファから立ち上がり研究室を出て行く。
「太公望さぁ」
バタンと乱暴に扉が閉められた。
「私なんかに、あんな態度見せるもんじゃないよ」
目の前で全て、そう、拗ねてこじれて吐き出して、甘えて甘えられなくて隠して怒って、そのすべてを見せられたら、面白くて仕方がない。
「さ、別れるかな?」
どちらにしたって、雲中子には関係のないことだ。