記憶の香


桃に惹かれて近付いてみれば、ぱさりと巨大なカゴに閉じ込められた。
「わかっていても手が出てしまうものだな……」
伏羲は手に入れた桃をかじりながら、ふむと唸る。さて、どんな力を持って脱出してやろうか。どうせなら、この罠を仕掛けた輩がめちゃくちゃ悔しがるような手が良いだろう。
「あーたって人は、頭がいいんだか悪いんだか……」
出来る限り性格の悪い手段を求めて唸っている伏羲の元に、僅かな光が差し込んだ。
「逃がしてやろっか」
天真爛漫な彼の表情からは予想だにしない悪徳な申し出に、伏羲は呟く。
「……前にも、こんなことがあったのう」



「おぬし、わしを買収するつもりか?」
「そんな大層なもんじゃないさ」
木の枝に寝そべる天化をぐうと見やって、太公望は右手の桃をかぷりと食んだ。
殷郊との戦いで左手がなくなってしまった太公望が、何故このような高いところに木のぼりができてるかと言えば、先程天化が引っ張り上げてやったからである。
「ところで、隠れなきゃならないような何をしたんさ」
「わしは何もしとらんよ」
「なんだ、ただのサボりかい」
「似たようなもんだのう」
遠くで、四不象が何かを叫んでいる声が聞こえた。叫んでいるというより、それは最早怒声に近い。
天化は、隣にいる太公望をじとりと見やった。
「何も……?」
「スープーのいびきがうるさかったもんだから、鼻に雑草突っ込んだような記憶はあるのう」
「わー最低」
わはははと笑いながら、手元の桃をかじっている。なんてことはない子供のいたずらだが、問題は、そんな所業を犯したのが子供などではなく、齢が百に近しい道士であるということだ。
「……いつでも少年のようなその心に感服するさ」
「イヤミか……」
それでも太公望についていく四不象の献身的な性格に対して、涙が出そうなものである。
「して、わしをここに匿った引き換えに、おぬしは何を望むのだ?」
「だから、そんな大したもんじゃないって。身構えなくてもいいっしょ。桃、一口ちょーだい」
煙草を指で挟んで枝にこすりつけて消すと、天化はついと太公望に手を伸ばした。しかし、太公望は首を横に振って身体を引く。
「嫌だ」
「一口くらいいーじゃん」
「ダーメ」
「ちぇ……」
天化は再び枝に身体を落ち付け、それから寂しくなった口許を撫でながら呟く。
「桃、食べるの上手さ」
「んあー?」
手袋をしたままで、よくむしゃむしゃと食べられるものである。ただでさえ汁がべとつく果実だというのに。
「好物だからのう。そうだ、手袋に染みた汁くらいなら、吸わせてやらんこともないぞ」
「バカじゃないの……」
けっと呆れたようにそっぽを向いた天化に、太公望はふふんと笑う。そして、最後の一口を口に含み、はたと気付いた。
「で、用件はなんだったかのう」
「桃くれって言ったじゃん」
「本当にそんなことで良かったのか?」
「言った手前、なんか引き換えにもらわないと済まない気分になってきたさぁ……」
「そうだのう、こちらもなんとなく居たたまれぬ……」
顎に手を当て、何かを考えているようだった太公望が、突然天化の腹にのしっと乗り上がった。
「ぐえ……ちょっとスース、枝が折れるさ……」
「おい天化、何か申してみよ。これでは降りられぬではないか」
「こんな面倒くさい時に、変な律儀さ発揮しなくていいよ……とりあえず、重いから腹から降りてくんね……?」
「なっさけないのう。立派な腹筋が泣くぞ」
「天祥ならまだしも、あーたみたいなのが乗ったら、流石に重いさ……」
片腕一本分、勘定に入らなくとも。
そんな言葉が、天化の頭を過る。
「……不便はない?」
「何がだ?」
「その、腕。あーた、左が利き手なんだろ?」
左を制す者は世界を制すなんて言葉があったろうか。この人なら、本当に世界を制してしまいそうなずる賢さを持っている。
しかし、その左手は今はなく、太公望の肘は包帯でぐるぐるに巻かれていた。
「大したことはないよ」
「痛かったろ」
「前の戦いで、全身を斬り刻まれたおぬしよりはマシに違いないさ」
「スース」
天化の真剣な表情に、太公望はふっと息を吐いた。それと共に、肩の高さがわずかに下がった。
「痛い。しかし、それ以上に殷郊の方が痛んだろうよ。自らの手で、最も近しい肉親を手に掛けたのだから。そして……そうさせてしまったことの方が、わしは痛い」
 滅多に本当の弱音を吐き出さない太公望のその言葉が、本心からくるものだったと信じたい。そんなことを思いながら、天化はそっと太公望の包帯を撫でた。
「元には戻らないんかね?」
「時間を掛ければ再生するやもしれぬが……どうしたものかのう。今は元に戻す気は起きぬよ。皆に迷惑を掛けぬ内にどうにかせねばならないのはわかっているのだがな。こんなのでも、戦力の内だからのう」
「こんなじゃねぇさ」
咄嗟に、天化は口を開いた。
太公望が驚いたのか、頭巾の耳がぴょこりと揺れた。
「本当に強いのかなんて、疑って悪かった。あの時、まだあんたのことわかってなかった」
親父の言う通りだったと小さな声で言う天化に、太公望はふっと口角を上げ、それから首を横に振った。
「実際、わしの腕っ節などあてにはならぬ。それはわかっておるのだ。指摘されれば、ぐうの音も出ぬよ」
「あーたは弱くない」
「やめぬか。おぬしに言われると、照れくさいではないか」
「もっと照れればいいよ」
困ったようにはにかんだ少年の顔に、天化はそっと身体を起こす。そして、まつ毛の長さが確認できるほど顔を近付け、ぽそりと吐き出した。
「……スース」
「うん?」
「キスしたくなった」
驚きもしない。瞬きもしない。その一瞬、人形のようになった太公望の唇に、そっと自分のそれを重ねた。
ほんの一時触れただけだった。桃の風味と僅かな湿り気に、天化は指先で口を拭う。それが終わりの合図になったのかもしれない。太公望が、はたと瞬きを再開させた。
「おぬしは……そっちの趣味があったのか?」
「違うよ。多分、スースだからしたかったんさ」
これが、情欲というものだろうか。こんなに悲しいものが?
「天化、降りる」
「うん」
手を貸そうと伸ばせば、太公望は首を振り、必要ないと言った。
「これが引き換えで良かったのだろうな?」
「は……? あ、そういえば」
「では、もう二度とこんなことは起こらないだろう」
「え……」
地面にすたっと降り立った太公望は、天化を振り返りもしなかった。照れなどない。照れている時の顔は、今し方見たばかりだ。今の表情は違う。
軽蔑を、されたかもしれない。徳のある人だから安直な態度は取らないだろうが、それでも、どこかで彼の気持ちを裏切ったのかもしれない。
「……じゃあ、避けてくれたら良かったのに」
天化は膝を立てて、見えなくなるまでずっと太公望の背中を見つめていた。



「おぬし、あの時のように、わしを買収するつもりか?」
「そんなつもりはないって。どうする? すぐにぶきっちゃんとカバっちが来るぜ?」
天化の煽りに、伏羲はカゴからそろそろと逃げ出し、そして、自分を今逃がしている張本人の天化を見上げる。
「適当に理由付けて、時間稼ぐさ」
「……良いのか? わしはこのまま逃げるぞ」
「また気配も眩ませようってんだろ? いいよ。あ、でも一個だけ」
「……なんだ?」
訝しげな顔をした伏羲に、天化は伏羲の頭をわしわしと撫でる。そして、ぴっと額を叩いた。
「後から追い掛けるから、ちっとだけ待ってて」
伏羲は天化に肩を押されるまま、すたすたとその場を遠ざかる。
天化がどんな誤魔化し方をしてくれたのか、それだけはわずかに興味があった。元来なかなか嘘を吐けない天化であるから、四不象も武吉も簡単に信じるに違いない。
「そもそも、あやつに嘘などで誤魔化すスキルがあったのか……?」
魂魄体となってからの天化とまともに接した機会はないが、恐らくあの様子だと変わりのないことだろう。卑怯なくらい真っ直ぐな奴なのだ。
このまま逃げてしまうか、あるいは、待ってやるか。
伏羲はほんの少し悩み、それから溜め息を吐いた。
「……待って済むなら、応えてやろうか」
じきに追い掛けてきた天化に、伏羲は木の陰から顔を覗かせる。
「お、スース! ちゃんと待ってたんだ!」
「奴らは撒けたか?」
「うん、まぁ」
思っていたよりは苦戦をしたようだ。顔に書いてある。
「相変わらず、おぬしは正直者だのう」
笑いながら言ってやれば、天化はそれほどでも……と頬を掻いた。
「して、言う事を一つ聞いてやったのだ。もう行ってもよいか」
「わーケチくさい!」
「待っていたではないか。もう気は済んだであろう。わしは暇ではないのだ」
「嘘つけー! 少なくとも、神界で使いっ走りにされてる俺っちよりは暇なクセしてー!」
それを言われてしまうと……と戸惑ったところで、がしりと左腕を掴まれた。伏羲が振り返ると、天化が実に必死な顔をしていたものだから、つい呆気に取られた。
「暇じゃないんさ」
「それは知っておる……だから、わしに構っておる暇などなかろう。放さんかい……」
「暇じゃないから、探せない」
伏羲が首を傾げる。
「どうして探さなくちゃならないようなことすんだよ。探せないのに」
切羽詰まった声色に、伏羲は思わず声を上げて笑う。
「わしがいつ、そんなことをした? 隠れておるのだから、放置すればよかろう」
「かくれんぼは……」
天化の手に力がこもる。少し痛い。
「見つけてもらうためにやるもんさ」
本当に放っておいてほしいのなら、転々となどせずに、ただ一点に隠居すれば良いだけのことと、彼は言いたいのだろうか。
「……かくれんぼ、か」
四不象と武吉と、それから楊戩と姫発と皆と、知る限りの人々と、そうして遊んでいるのは間違いない。やがて、知る人もいなくなるであろう地から離れないのはそのためだ。
「そうかもしれんが、わしを見つける責務は、おぬしにはないはずだ」
「確かに、俺っちにその責任はないけど」
「ないけど?」
「折角見つけたのに、すぐにさよならなんて、ないさ」
ゆっくりと解放された左手を引き寄せ、伏羲は手袋を外した。
「……戻ったんだな。利き手」
「そうだ。本来なら、うんと時間の掛かる再生のはずだった。なのに、何故この左手が存在してると思う?」
伏羲は、色の無い笑顔で笑った。
「わしは、太公望ではないのだ。この身体も、王天君のものであり、太公望のものではない」
「でも、あーたは王天君でもない」
「そうだ」
当たり前のことを話すような説教の口ぶりに、天化が苛立っているのは見て取れた。むしろ伏羲は、天化を苛立たせてやろうとさえ思っていた。
「わしは伏羲だよ。黄天化」
苛立って、とっととお帰り願いたい。
面と向かって話しているのは、こわい。
こわいという感情がどこから来ているのか、伏羲にはわかりかねた。しかし、この胸の圧迫感は恐らく、おそれ、そのものだろう。
「でも……あんたの利き手は左手のままさ」
「サウスポーなど、どこにでもおるだろうが」
「いいのいいの。俺っち、太公望師叔の欠片でも見つかれば満足さ」
欠片も欠片、そんなものを満足という。男の神経が知れない。伏羲は左手をまじまじと見つめ、それからそっと手袋をはめた。
「おぬしは、面倒くさい男だのう……」
「相変わらずとか言っちゃう?」
「それはもう」
「良かった!」
何がだと、げっそりした表情で見れば、天化が言った。
「相変わらずってことは、スースは俺っちのこと覚えてるってことだ」
それさえも天化にとっての太公望の欠片だとするならば、伏羲は、どれだけ彼を満足させてしまっているものかと思う。
太公望とは非なる存在。彼と共に戦った者ではないのだという喪失感に、伏羲は眉をしかめ、ぐしゃりと前髪を掻き上げた。苛ついているのは、果たしてどちらだろうか。
「天化、いい加減にしてほしい。わしはもう、人間界にも仙人界にも、神界にだって関わるのは勘弁被りたいのだ」
「そんなの矛盾してる」
しゃがみ込んだ天化が、そっと伏羲の手を取った。
「関わりたくないなら、もっと遠くに逃げればいいのに。あの時だって、避ければ良かったのに」
「あれ、は」
避ける間がなかったと言い訳をした頭を、背後から小突かれたような気がした。
避けなかったのだ。避けなくてもよいと、思っていたのだ。その太公望の気持ちが、今もおそらくここにある。
「……避ける余裕がなかったなんて言い訳しないでほしい。今のあんたなら、簡単に逃げられるだろ」
しゃがんでいた天化が中腰になった。そのまま伏羲の唇に触れた感触に、はらりと目を閉じる。
どんな気持ちだったろう。その時、太公望は。
思いを馳せている内に終わってしまった口付けに、伏羲は目を開けた。
目の前で、天化が苦しそうな顔をしている。思わず、溜め息が漏れた。
「……おぬしの方から仕掛けておいて、なんだその顔は。失礼だのう……」
「だって、また桃の味がする」
そういえば、あの時も桃を食んだ直後であった。そんなことを思い出した。そう、思い出したのだ。
「太公望の気持ちを、思い出したよ。天化」
「へえ?」
伏羲は、そっと天化の肩を押す。距離を取って、そして呟いた。
「キスしたくなった」
だから逃げなかった。今だって。
きょとんとした天化の顔が、みるみる内に赤らんでいく。それを見ながら、伏羲はふっと笑い、そして背中を翻した。
「おぬしは、やはり面倒以上に面白い男だよ」
これでいいのかわからない。本当なら、関わらない方が良いのかもしれない。けれど、求められれば応えずにはいられない。それが太公望の形なら、それに倣ってみるのも、時には悪くないのかもしれない。
ふわりと足を浮かせた伏羲の腕を、天化が再び掴んだ。ぐっと引かれ、伏羲は驚き、振り返る。
「スース」
「あ……?」
「あーたは、そっちの趣味があったんさ……?」
天化の質問に、不覚にもどきっとした。しかし、訳がわかってつい目を細める。
求められれば、応えずにはいられない。
「違う。多分、天化だからしたかったのだ」
「じゃあさ」
なかば浮き上がっていた身体を引き寄せられ、そのまま天化の腕に落ちた。
「もう一回」
持ち上げれられたまま、頬に触れた口の輪郭の感触に、伏羲はやれと肩をすくめる。
(もう二度とないはずだったのにのう)
困ったことになった。このままでは飛び立てないではないかと、そう言えば尚更に力を込められて、ぎしつく身体に悲鳴を上げれば、なんてことはない、細っこいまんまのスースの身体だと笑われた。