柔き祈り


「天化くん」
自分の視界からは逆さに見える楊戩を朧に捉え、天化は目を擦った。
「……ありゃ、楊戩さんが逆さに見えら……」
「そりゃあ、君が逆さに吊られてるからね……」
楊戩は、呆れたような声色でそう言った。
天化はぐっと腹に力を入れて腰を折り、自身を逆さ吊りにしている紐を見る。
「道理で、頭がくらくらすると思ったさ」
「どうしてそんなことに……」
「なんでだったかなぁ……」
頭まで昇っていた血が、すっと下がっていく。鳥肌でも立っているかのようなざわざわとした感覚を感じながら、天化はぼやっとした口調で言った。
「そうだ、ちょっと頭を冷やそうと思ってトレーニング始めたんだった。そのまま寝てたんだな、俺っち」
そんな天化の間の抜けた言葉に、楊戩は眉間を指で押さえ、それから肩を落とす。
「それじゃあ、逆に頭が温まりそうなものだけど……」
すたすたと歩いていく楊戩を後目に、天化は自分の足首に結ばれた紐を莫邪の宝剣で切った。宙で身体を翻し、地面に着地すると、ふわぁと欠伸をひとつ。
「……最近、夜寝れないからなぁ」
朝歌への進行を進める周軍一行に合流したまでは良いが、天化の身体の節々の傷はまだ完治していなかった。
日が落ちて、灯りを消した暗い部屋の中、寝台に転がっていても眠気のかけらも訪れない。この不眠症状は、もしかしたらこの傷から来ているのかもしれなかった。
「……傷の一つや二つでこうなってたら、わけないさ……」
しかし、そんな一方で、安穏とした昼中には眠気がひどくて仕方ない瞬間があるのだ。
天化は二度目になる欠伸をして、それから首を手でさすった。
楊戩の言う通りだ。頭に血が昇っている。気分がすぐれない。
「やっぱり、逆さ吊りはやめよっと」
少なくとも、うっかり眠ってしまうような時はやめよう。
頭に昇った血を下ろすために、ふらふらと駐屯地を散歩していると、自分と同じよう……ではないが、自分よりもずっと楽な姿勢で昼寝に勤しんでいる姿を見つけた。
木の椅子を並べて堂々と横になり、かーと寝息を立てている太公望の姿を背もたれ越しに覗き込み、天化は「たはは」と笑った。呆れから、口角が上がってしまった。
涎を垂らしてむにゃむにゃと眠るその顔に、つい悪戯心が生まれ、子供のような小さな鼻を指で摘む。しばらくしてから、ぐがっと面白おかしい声が聞こえた。
「がぐっ、が……っ」
かふっという言葉を最後に太公望の呼吸が止まってから、天化はそろそろと手を離した。うっすら白目を向いて、死んだかのような顔を晒している太公望の頬をぺちぺちと叩き、天化は「おーい」と声を上げる。
「スース、起きるさー……」
だんまりを決め込んでいる太公望の腹の上には、何か帳面が乗っていた。天化はそれを指で弾いて退け、そっと太公望の脇腹を押す。
「ぶふっ」
「おー、良かった。生きてた生きてた」
気絶したふりを決め込んでいたのか、本当に意識を飛ばしていたのかは知らないが、とにかく天化の存在を気にも止めていなかった太公望が、ゆるゆると視線を上げて天化を睨み付けた。
「いきなり何をするか!」
太公望が無造作に起き上がると、それまで腹に乗っていた紙の束たちがぱらぱらと落ちていく。天化は、足下に降りてきたそれを拾い、そして首を傾げた。
「おい、おぬし……わしの話を聞いとるのか……」
「ごめんごめん。ほい」
謝罪の言葉を口にしながら、天化は紙の束を拾い集め、椅子に腰掛けたままの太公望に渡した。
「これ、戦術書?」
「の、草案だったのだが、丸ごとボツだな。紙飛行機にでもしてしまえば良い」
「紙ヒコーキ……」
「そ」
そう言って、太公望は天化の手から草案だったものを一枚抜き取った。
「紙飛行機に願いを書いて遠くに飛ばしたら、叶うような気がするのう」
「……書いてあるのは、スースの戦術指南さ」
「できることなら、使いたくないものだがな」
するすると手の中で紙飛行機を折り、そして、立ち上がった太公望は、仕上げたばかりの紙飛行機をひょいと飛ばした。
ふわりと舞い上がったそれは、やがてゆるゆると天幕の上に落ちてしまった。
「ダメだったようだのう……」
苦く笑った太公望の思いはおそらく叶わず、彼の戦術はどこかで活かされることとなるだろう。それは、人が血を流す戦が始まるということを意味する。
「あの……」
「おぬしは何を書く? やはり、強くなりたい、か?」
天化が言い掛けた時、太公望がぱっと顔を上げた。その表情はもう苦笑いではなかった。好奇心のきらりと光る表情に、天化はたじろぎ、それから少し間をあけてから呟く。
「家内安全、無病息災、かなぁ……」
「じいさんか、おぬしは……」
「わぁ、スースに言われたくないさぁ……」
しかし、我ながらおもしろくないことを言ったものだと思う。
やはり、太公望の言う通り、強くなりたいという純粋な願いを答えておくべきだったのかもしれなかった。
「願いに書くより、鍛錬に勤しんだ方が現実味があるか」
「ま、その通りっちゃ、その通り」
ついと唇に乗っていた煙草を上げる。
紙の束を下ろし、その内一枚を取り上げ、先の太公望と同じように紙飛行機を折る。
天化の手元をぼうと眺めていた太公望が、自身が飛ばして落としてしまった飛行機に目をやった時、天化が「でーきた」と声を上げた。
「いっくぜー」
天化の手を放れてふわっと舞い上がった紙飛行機は、気流に乗ってあっと言う間に遠く遠く、景色の中に消えてしまった。
「おー、飛んださぁ!」
「うまいものだな、天化。どうやって折ったのだ?」
「そんなもん、スースとおんなじように折ったさ」
「それにしたって、よく飛んだではないか」
「お願いが聞き届けられたんじゃない?」
「ほう」
身体を折って、太公望と視線の高さを合わせる。
「スースのお願いが叶いますようにってね」
「……おぬし」
 太公望は、口許を押さえて、ふふっと笑った。
「いい男だのう」
だって、あんな切ない顔をされちゃあ、かなわない。たかが紙飛行機が飛ばなかったくらいで、あんな顔をされては。
天化は、困ったように笑って返した。
「しかしな、天化。使いどころを間違っておるぞ。さて、わしはボツになってしまった紙飛行機の分、また机に向かわねばなるまい」
天化の肩を叩いて、ぽてぽてと歩いて行く細い背中を視線で追いながら、天化はすっと息を吐いた。そのついで、肩からも力が抜けてしまった。
「そりゃあ、いい男の使いどころかい。それとも、お願いの方?」
「りょーほうだ!」
けたけたと笑う太公望に、天化はふーんと口を尖らせた。
「間違って、ないと思うんだけどな……」
足下に残された紙の束を持ち上げる。これを持って天祥の元へ行こう。そして、自分の願いなどどうでもよくなるくらいに紙飛行機を飛ばせば、この翳りもどうにかなるのではないかと、そんなことを思った。



さて、太公望が周公旦に叱られている天化と天祥を目の当たりにしたのは、その数時間後のことだった。
「あ、たいこーぼーだ」
「どうした、周公旦。天化はともかく、天祥まで叱られているなどと。何か物でも壊したのか?」
「天化はともかくって、どういう意味さ……」
「どうしたではありませんよ。見てください、太公望。天化さんと天祥は事もあろうにこんな書物を折って遊んでいたのですよ。これは叱らねばなりますまい」
太公望が旦の手元を覗くと、そこには先ほど天化にくれてやった戦術書のボツ草案があった。
「良いのだ、旦。これはわしが天化にくれてやったものだぞ」
「それにしたって、こんなものをどこへとなく飛ばすなど、緊張感がないにもほどがあるではありませんか。太公望、あなたもあなたです。使わぬものなら、燃やして処分してください」
「すまぬ。しかし、旦よ、これほど仰々しく叱ることもあるまい……」
「いいえ、そうは参りません」
いつの間にか、周公旦と太公望の言い合いをただただ聞かされる身になっている天化と天祥が顔を見合わせる。それまで立ったまま寝そうな顔をしていた天祥が、どこか心配そうな表情になったものだから、天化はすっと二人の間に割って入った。
「たんまたんま、俺っちたちのお説教はもう終わりなわけ? その、スースの言うことは本当だけど、俺っちも迂闊だったわけだし……スースも周公旦も、まだ仕事が残ってるだろ……?」
割って入ってはみたものの、口の達者な二人に敵う言葉を思いつくでもなく、言葉尻が段々としぼんでいく天化を見て、周公旦と太公望は顔を見合わせる。肩をすくめて口角を上げた太公望に、周公旦はやれやれとため息を吐いた。
「……とにかく、以後このようなことがないように」
「わしも気を付けよう」
「お願いしますよ、太公望」
そう言い残し背を向けた周公旦の背中に向かって、太公望はべーっと舌を出した。
「何か?」
途端に振り返った周公旦に、太公望はぴーひょろろと口笛を吹いて見せた。
結局、悪意のある素振りを追求しきれなかった周公旦は、訝しげな顔をしながら、すたすたとその場を立ち去ったのだった。
「すまんのう、天化。どうやら、わしの迂闊さで迷惑を掛けてしまったようだ」
「勝手におもちゃにしたのは、俺っちだしな。別に、スースが謝ることじゃねぇさ。な、天祥」
「ねぇ、兄さま。今度は、これを燃やして哪吒兄ちゃんと遊べばいいの?」
「……いや、それもそれで怒られそうだからやめ……」
うん? と首を傾げた天祥の向こうで、顎に手を当てた太公望が、ふむと声を上げた。
「保護者がいれば問題あるまい。みんなで芋でも焼くか」
「なんですと?」
「おいもー?」
にやと笑った太公望が天化を見上げ、続けて言った。
「落ちた葉を少しばかりと、主役の芋だな。集めてくるのだ、天化。わしも、ついでに燃やして構わぬ紙を探してこよう」
「本気かよ」
「本気も本気。そうと決まれば、早速行動開始だ。天祥はほうきと棒きれを用意して待っておれ」
「あいよー!」
きゃっきゃと楽しそうに走って行った天祥を見送り、太公望も天化に向かってしっしと手を払う。
「ほら、天化も行った行った」
「スースも懲りない人さ……」
「何、処分の方法など問題ではあるまいよ」
ふふんと笑った楽しそうな太公望に、天化もつい口角を上げた。周公旦が去った時にくわえた煙草がかくりと傾いたのを、思わず手で支える。
「それより、俺っちの負担が一番大きいような……」
「気のせいだ。おぬしのことだから、ひとっ走りで済むであろう?」
「期待にお応えできるように、がんばります……」
こうして肉体労働を強いられる立場なのだ。やはり夜に眠れていないのは、負荷が大きい。とにかく、この不眠をなんとかせねばと、天化はそんなことを頭の奥で思った。
「どうした、天化」
「いんや?」
すぐに動かない天化を不思議に思ったのだろう。太公望は天化の顔をじいと覗き込み、それからとんとんと肩を叩く。
「武吉にも声を掛けておくか。あやつなら喜ぶだろうし、言葉の通りひとっ走りだろうからな」
「いや」
俺っちだってひとっ走りで済ませてやると、口を突いて出そうになった。
「大丈夫さ。すぐ済むよ」
「そうか? ならば頼むが、こんなところで無理をせんでも」
「無理じゃないから言ってんの」
ひらと手を振り、足を進める。
ああ、でも武吉に焼き芋を分けてやったら喜ぶかもしんない。一緒に行っても良かったなぁと、離れてから思う。何を躍起に手伝いを拒む必要があっただろうか。
途中で、既に任務を果たした天祥が、ほうきを片手に哪吒と待っていた。
「……ぶきっちゃんの分だけじゃ、済まなそうさね……」
天化が戻る頃には、もう少しギャラリーが増えているかもしれない。
天化が芋の入った袋を持ち帰ると、棒きれを打振鞭のように持った太公望が「遅かったではないか」と声を上げた。
天化の思っていた通り、いつのまにかギャラリーは増え、道士は勿論、手の空いている兵の類まで召集されている。
「スース……流石に、この人数分の芋はないさ……」
天化がそう泣き言を漏らした途端、遠くからだだだだと音が聞こえてきた。
「お師匠様ー! ひとっ走りして、芋と燃料を追加で持ってきましたー!」
「おお、よくやった、武吉」
「よいしょっと」
どかっとそれを下ろした武吉に、天化はつい自分の手元の袋を持ち上げて見た。
天化の心中を察してか、太公望はさっさと天化の手からそれをひったくり、「天化もご苦労だったな」と労いの言葉を掛ける。しかし、掛けられた方からすれば、それはお情け以外の何物でもない。
「いんや、俺っちは全然……」
「よーし、皆の衆、焼くぞー!」
ただの焼き芋が、ちょっとしたイベント事になってしまっている。
周知の早さと取り巻きの多さに辟易しながら、天化はギャラリーの輪から外れ、そっと煙草をくわえ直す。そして、火を点けようとマッチを取り出したところで、それを太公望にひったくられた。
「あ」
「そうだ。これが必要であった。着火着火!」
「こら、おい、スース!」
まんまと持っていかれてしまったマッチを追い掛けながら、結局輪の中に戻ってしまった天化は「あーあ……」と声を上げる。終いには、火を育てるのを手伝わされてしまった。
焼き芋騒動は、ギャラリーの多さ故にすぐに周公旦に見つかってしまったが、紙飛行機事件より怒られることはなかった。
太公望の言う通り、書類を処分したには違いなかったからだ。ただ、駐屯地内での火遊びはまずかったらしい。周公旦は、なんとなく苦い顔をしていた。
後々聞けば、太公望が芋の調達ついで武吉に周囲の観察を行わせたらしい。安全圏内と判断してのイベントだったようである。
用意周到なこって……と、天化は手元に残ったマッチの箱をカラカラと鳴らしながら、焼きたての芋を頬張っていた。
「……まぁ、マッチ代の味はするけどな……」
武吉は石焼き芋のアルバイト経験があったとのことだ。納得の味わいである。
「俺っち、ひとっ走りする必要なかったんじゃね?」
そんな風にこぼしていると、口の端に芋を付けた太公望が言った。
「焼き芋にありつけたのだから、深く考えることではあるまい」
「損した気分さ……」
「天化の持ってきた分にも感謝しておるよ」
「ギャラリーに入ってれば、タダで食えたような気もするし」
「それはどうかな?」
「え……」
驚いたような顔をして口を歪めた天化に、太公望はふふっと笑う。すぐに天化の額をぺちぺちと叩き、そしていたずらの成功した子供のような顔で「冗談だよ」と言った。
すくりと立ち上がった太公望は、消火班の様子を見に行ってしまった。残された天化はそっと額を押さえ、その手で口元を拭う。
「ヒキョーさ……」
そうやって人のこと持ち上げて落としといて、いいようにしてくれちゃって。そんなことを口の中で唱えた。
暖かい芋を食べながら、ぼんやりと喧噪の中にいると、段々と眠気が襲ってくる。手の中のマッチ箱が滑り落ちて、カランと音を立てた。天化は、ハッと目を開けた。
辺りを見回せば、いつの間にか後片付けが始まっているようだった。日は傾き、景色も暗くなり始めている。
「……手伝い」
折角訪れた眠気も、目を拭ったことによってふっと消え去ってしまった。それが好都合とばかりに、天化は重い腰を上げたのだった。



においが鼻について離れない。昼間の焼き芋イベントを思い出して、天化はぐすりと鼻をすすった。
「ついでに寝れないっちゅーね……」
騒ぎの中の方が余程眠かったというのは、どういうことだろう。そんなことを思いながら、天幕の入り口を開けて通路に出た時だった。
「天化」
驚いたような、ぽつんとした声が天化の名前を呼ぶ。驚いたのは天化の方だった。
「スース、なんでこんな離れまで」
太公望の天幕は、駐屯地の中央部に位置している。一方で、天化は一般兵に近い幕を借りていた。
「散歩だ」
だから、目の前にいる太公望の姿を幻かとさえ思った。
「散歩ぉ?」
「眠れなくてな。昼間に寝過ぎたのかもしれん。草案の続きをやろうかとも思ったのだが、なんとなく落ち着かなくてのう」
口の中で、俺っちも、と言い掛けてやめた。不自然に口を塞いだ天化に、太公望は不思議そうな顔をする。
「あんなやって椅子で寝てるからさ」
「あそこは日当たりが良くてな。今度、おぬしもあそこを使えば良い。楊戩から聞いたぞ。逆さ吊りのままで昼寝にいそしんでいたとかなんとか……」
「ったく、楊戩さんめ……なんでもかんでもスースに喋っちゃうんだから……」
ふふっと笑った太公望が、天化を見上げて言った。
「睡眠妨害してすまなんだのう。おぬしも、早く休んだ方が良い」
そうして立ち去ろうとした太公望の腕を、天化はわしと掴んだ。
「んあ?」
「スース……」
特に、明確な意図を持って伸ばした手ではなかった。しかし、何故だろう。このまま解放してはいけないと思った。
天化はついとその手を引き寄せ、それから自室の幕を開ける。
「おいで。俺っちがおまじない掛けてあげるさ」
「おまじない……?」
「そ、よく寝れるやつ」
鼻についていた焼き芋のにおいは、いつの間にか意識から遠退き、今は香の香りが届いている。
「香でも焚いた?」
「まぁな。焼き芋のにおいが抜けなくてのう。においばかりが残っては、腹が減るだろう」
そうかもな、と天化は笑った。
天化は太公望を自室に放置し、そのまま自らの足で給湯所に向かった。そして、おまじないをこさえて天幕に戻ると、寝台に座ってぱたぱたと足を揺らしている太公望と目が合った。
自分の天幕に寝間着姿の太公望がいるというのにどこか違和感を覚え、天化はきゅっと口を結ぶ。
「なんの匂いだ? まさか薬ではあるまいな……」
「薬なんて言ったら、スース飲まないさ……」
「飲まんぞ」
「薬じゃねーよ」
渡された湯飲みの中を覗き込み、太公望は不思議そうに顔を上げる。
「白湯か?」
「ヒミツ」
ほとんど無色透明の湯を口に運び、太公望はやはり不思議そうな顔をしている。
「本当に効くのかのう」
「さぁ、どうでしょう」
「なんだそれは」
ははと笑う。実際のところ、身体は暖まっても、今の天化には効かない。その程度のおまじないである。ただ、試してみる価値はある。
「変なもんじゃなかろうな……」
「飲んでればわかるさ」
「わからんから聞いておるのに……」
とりあえず、変なもんではない。それは本当のことだ。単純に、白湯にわずかな蜂蜜を溶かしただけのものなのだから。
「うーむ、大方の予想は付いたが……同じものを作るなら、もう少し甘い方が好きだぞ、わしは」
「そのくらいが丁度いいんさ」
「そういうもんかのう……」
ぶつくさと言いながらも、湯飲みの中身をゆっくりと飲み干した太公望が、ごしごしと目を擦った。
「……おぬしの言う通りかもしれん」
その言葉が眠気を悟ってのことと知った天化は、緩慢に口角を上げ、太公望の頭を押さえると、寝台にそっと倒した。
「お、おい」
「おやすみ」
そのまま自分は地面に腰をつき、寝台を背もたれに目を伏せた。
「おい天化、わしは戻るぞ」
少し慌てたような太公望の声に、珍しいこともあるものだと薄く目を開ける。見えたのは天井の幕ばかりで、ここに声の主がいることさえわからなかったが、わざわざ首を巡らせようとは思わなかった。
「いいよ」
何が良かったのかは、考えてなかった。すっと視界から光が抜けていく。それは、自然と目蓋が下がっていたせいなのだろうが、今の天化にはそんなことさえどうでもよかった。
緩やかな落下速を肌で感じる。そうだ、これが眠気だ。
「天……」
その後も背後で何か言われていたような気がするが、天化の感覚に触れることはなかった。
(いいよ、もうそこにいればいいじゃん)
目を開けて振り返ろうとした時、何か取っ掛かりを感じて、天化は思わず声を上げた。
「んが」
「おお、起きたか」
襟足の辺りを引っ張られた感覚に、思わず首元を撫ぜる。取っ掛かりを捕まえることはできこそしなかったが、振り返ればそこにはそんなささやかな感覚とは比べものにならない獲物が、掛け布を掛けた膝を抱いて座っていた。
「……寝れた?」
「おかげさまでな」
ふああと欠伸をした太公望が、ぽりぽりと首を掻いた。
「ぐうたらのあーたにしては、随分早いお目覚めさ」
「人の寝所を占領しておいて、寝顔を晒すのもなんではないか」
「そこまでの図太さはなかったかい」
「おぬしは、わしをなんだと思っておるのだ……」
天化の隣に降りた太公望が掛け布を畳み、不服そうに口を尖らせた。
「それより、おぬしはどうだ。眠れたのか? いくらなんでも、地べたで寝ることはあるまい……」
「いや、狭いかなって」
くあっと伸びをして、天化はぺとぺとと天幕を出た。明けたばかりの日が眩しい。太公望がその後に続く。
「わしは自分の天幕に戻る」
「どーぞ。俺っちは顔洗って……筋トレかな」
「精が出るのう」
「日課なもんで」
顔を拭いながら言う天化の腰を、太公望がぺしんと叩いた。
「……ありがとう、天化」
「ん?」
天化が「何が?」と聞き返す前に、パタパタと歩いていってしまった。ありがとうというなんでもない言葉を反芻して、天化は「へへへー」と笑った。



久しぶりに随分とぐっすり眠った気がする。理由を考えると気が抜けてしまってトレーニングにはならなかったが、どこか身体の軽さを感じていたのは確かだった。
「よっ」
宝貝ではなく、木刀を構え、素振りをしながら、天化は首の違和感にかっくりと天を見上げた。
「襟足……伸びたなぁ」
引っ張られている感覚が抜けない。どこかくすぐったい。多分、あの人にあんな風に触られたことがないからだ。
自分の手とは違う。普段のグローブもしていない小さな少年の手が、髪の先に触れていたその感覚に思いを馳せる。
「……おかしいさ」
その手が、暖かかったのか、冷たかったのか、そんなことが知りたいだなんて。
残念ながら、髪に温度を計る程の触角はないのである。だから、記憶を遡ろうとも、それを天化が知る術はない。
振り下ろされた位置で止まったままの木刀の剣先を眺めたまま、天化は、ほうとため息を吐いた。
「煙草……」
朝から太公望が一緒だったから、ついくわえることさえ忘れてしまった。だから、今日はある意味で調子が出ないのかもしれない。矛盾している。身体は軽いのに、調子は出ないなどと。
天化は唇に煙草をくわえ、そして火を点ける。ふっと煙を吐き出した時だった。天化を呼ぶ声が聞こえた。
「どうした、こんな所で一人稽古か?」
「親父」
声を聞けばわかる。相手は飛虎だった。
「いんや、稽古って程のもんじゃないさ。気分が散漫してっから、素振りしてただけ」
「お前の年頃で散漫しないってのも、悟り過ぎやしないかね」
「そんなもんかな」
冗談のように言った飛虎に、天化はたははと笑って見せた。
こうして地に足を着けていると、気が散ることくらいあるのかもしれない。あっても良いのかもしれない。父親に言われると、そんな風に感じてしまう。
「昨日、焼き芋焼いたんだって? 俺もご馳走になりたかったもんだなぁ」
「スースの思いつきさ。残念だったな親父。甘い芋だったさ」
木刀を肩に乗せ、汗を拭う。飛虎は、そんな天化の頭をわしわしと撫でた。
「太公望どのも、なかなか甘党だもんな」
「そうそ、おふくろのおまじない作ってやったら、もっと甘いのがいいってさ。寝る前にそんなに甘いもの飲み食いするもんじゃねぇよな」
飛虎が少し不思議そうな顔をした。天化ははっとして、口を一文字に結ぶ。
「おまじないって、あれか。寝れない時の蜂蜜湯」
「あ、ああ」
「太公望どのが、眠れなかったのか?」
「そ、そう言ってたかな」
別に、どもることのほどでもないのに、天化はじりつく背筋を落ち着かせようと、咳払いとひとつ吐き出した。
「そうか……」
訝しげな顔をした飛虎が、ぽんと天化の肩を叩いた。
「ま、あの人はなかなか自分のことを話さないからな。力になってやれよ、天化」
「あいよ」
そう、妙なことではないのだ。眠れないと言うから、一晩幕を共有した。それだけのこと。
飛虎の訝しそうな顔に、何故か心の中で言い訳をしつつ、天化は手にした木刀の柄で頭をこつんと叩いた。
「……だから、気が散るんさ……」
困ったもんである。あいよ、などと軽く返事するものではない。助けてほしいのはこちらの方だ。
しかし、飛虎には相談できない。先程の気まずさが由来してか、父親である飛虎にこの話をするのは不向きと思えた。
トレーニングに打ち込めば、その分だけ眠りの質が上がるに違いないと、その日は駐屯地の至る所で走り回る天化の姿が確認された。
「……さっぱりさ」
しかし、天化の期待とは裏腹に、暗くなればなるほど眠気は遠退いていき、結局今日も眠れない夜を過ごすはめになりそうなものであった。
寝間着代わりのタンクトップの裾をはたはたと扇いで、天化はふぅとため息を吐く。
太公望に効いたらしい蜂蜜湯も、とうの昔に試したのだ。しかし、今の天化には残念ながら効果がない。あれは中身を知らない方が効くものであったし、開けてみれば限りなく白湯に近い液体であるから、効果がなくても仕方のないことなのだが。
天化がそんな風に天幕でもんどりを打っていると、外から足音が聞こえてきた。
「天化」
客人は、何てことはない。太公望であった。
「どったの、スース」
「いや、昨日のな。アレの正体を聞こうと思って来た。効果がわずかでもあるのならば、今日も飲んで寝ようかと思ったのだ」
「ああ、アレ、ね」
天化は、ふむと顎に手を当てた。太公望の欲するところのアレは、正体を知らない方が効果がある。「眠れる薬」という思い込みが効果に帰依している部分もあるからだ。
「アレ、人に作ってもらった方が効果があるんさ」
「よいよい、教えてくれ」
「んー、でもなぁ」
そこで、昼間飛虎に言われたことを思い出す。
言われるまでもない。太公望の力になりたいのは山々である。
「いんや、教えない」
「むう……」
「ちっと待ってな。今作ってきてやるよ」
「あ、おい、天化」
「いいからいいから」
太公望の制止の声も聞かず、天化は幕を飛び出した。
どうせ眠れないのだ。何もしないよりは、小間使いにされた方がいい。
昨日と同じように白湯に蜂蜜を溶かしていた時、ふと、匙もう一杯分増やしてやろうと思った。虫歯をこさえても知らないぞという気持ちに、つい頬が緩んだ。
「スー……」
湯呑みを片手に天幕に戻れば、ぼんやりとした光の中には、やはり太公望がいて、天化はほっと胸を撫で下ろした。
「……どうした?」
「いなかったら、ちょっと凹むなと思って」
「そんな不躾な人間に見えるか?」
「そんなことはないけど」
ふらふらとふわふわと、この手をすり抜ける存在であることに間違いはなかったから。そんな言葉が頭をかすめた。
言葉にするのは憚られた。何故だろうと思っていると、太公望がそっと天化の湯呑みに手を伸ばす。
「あっちぃから気を付けなよ」
「子供ではないのだから、その辺りは気にせんでもよいぞ……」
「そいつは失礼」
湯呑みの中の蜂蜜湯に、ふうふうと息を吹きかけて冷ます様子を見下ろして、天化はそっと太公望の隣に座った。
寝台が、ぎしりと音を立てる。
「それ、おふくろがよく作ってくれたんさ」
「……ほう」
ずずっと音を立てて蜂蜜湯を飲んでいた太公望が、くすりと笑う。
「おぬしが子供の時にも、眠れぬ夜があったか?」
「そりゃあ」
「わしもだ。わしも、故郷のことを思うと眠れぬ夜が、いくつもあった」
いくつも、と小さく繰り返した太公望が、それ以降黙ってしまった。天化には「そっか」としか答えることができない。他に、言葉があるのだろうか。うまく眠らせてあげられるような、そんな利口な言葉が。
「おぬしの母上にも感謝せねばならんな。お陰で、わしは今日も眠れそうだよ」
「そいつは良かった」
「おぬしは」
「ん?」
「目が赤いぞ。それに」
ことんと置かれた湯呑みに気を取られた隙に、太公望のグローブをしていない剥き出しの指が天化の頬を撫でた。今朝方、知りたいと、そう思った体温が、じりと頬を撫でる。
「うっすらと隈がある。眠れてないのではないか?」
「そんなことは……」
「斬り込み隊長がそれでは、困ったものだ」
ふっと笑った太公望が、天化の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「わわわっ!」
「昨日のお返しよ」
そのまま体重を掛けて天化の頭を寝台に倒すと、けらけらと笑い声を上げながら「案外収まるではないか」と声を上げる。
「ちょ、スース!」
身体を起こそうにも、小柄とは言え全体重を掛けてくる宇宙人に、思うように事は運ばない。天化は、つい声を荒げる。
「しっ! 騒ぐでない。眠るまでわしがついててやろうと言うのだから、有難く頂戴せよ。そして寝ろ」
「とっとと寝るのはスースの方さ!」
「わぁったわぁった。わしも寝るから、おぬしも早く寝るのだ。まったく頑固な……」
「それは、あんただって……」
見下ろせば、細い黒髪がふらふらと揺れている。その隙間から覗く紺碧の瞳が、何かを訴えるように閃いていた。
「……ちょっと」
ばくりと心臓が鳴る。
その眼は、やめてくれないかと思った。普段のへらへらした眼ならまだしも、その意味の深い眼は。
「……流石に、逆らえねーな……」
「わっはっは! わかったら、さっさと言う通りにするのだ!」
わっはっはではない。ぎゅうと押し付けられた身体に、天化は動揺が止まらないというのに。
「……スースは、寝れそ?」
「すかー……」
「オイ……」
相手のことだから、寝たふりかもしれない。それでも、本当に天化が寝入るまでここにいるつもりらしいことはわかった。ならば、今の天化には、のってやるしか選択肢がないのだ。
「お気に召すまま、好きにしてくれよ……」
やれやれという気持ちで吐いた言葉だったが、込みあげてきたのは笑みばかりであった。
せめて掛け布をと思い身体を起こす。本来ならば体重の軽い太公望の身体が、寝台に転がり落ちた。狭い背中にそっと布を掛けてやると、幼い寝顔がふにゃんと緩んだ気がした。
「灯りも消さねーと……」
松明の灯りを消して寝台に戻ると、薄暗がりの天幕の中で、太公望の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる。さらさらの髪に子供のような輪郭と、髪と同じ色をした長いまつげ。黙っていれば精悍な顔つきに見えるのに、何分笑い方が下品でよろしくない。
腕を枕にしてそんな顔を眺めていると、つい薄く開いた口許に目が引かれる。やはり、眠気など吹っ飛んでしまいそうだ。
「いつの間にか、立場逆転してるし……」
天化が眠るまでここにいるのではなかったか。先に眠ってしまってどうするのだ。彼が眠るためにここにいるようなものではないか。
「……俺っちは、あんたの助けになれてんのかな?」
そう問い掛けながら、人差し指で太公望の頬の頂点を撫でてやる。すると、掛け布から出てきた小さな手が、天化の手をさらりと掴んだ。
突然のことに呼吸が止まる。それを知ってか知らずか、太公望がぱちりと目を開けた。そして、ゆうるりと微笑む。
「え……」
それは、普段の下品な笑みからは程遠い、穏やかなものだった。
再び閉じられてしまった瞼を見つめながら、今見たものが幻だったのではないかとさえ思う。しかし、手は掴まれたままであったから、天化は忘れていた呼吸をゆっくりと再開させ、そしてきつく目を閉じた。
心音が、鼓膜を震わせる。どきどきしている。繋がれた手を通じて、目の前の太公望にこの音が伝わらなければいいと、ただひたすらにそう思った。



「紙飛行機、折るか」
「兄さま、この間、怒られたばっかじゃん」
「飛ばしていい紙なら大丈夫さぁ」
お願い事を込めて、紙飛行機に書いて飛ばしたら、叶うかもしれないとあの人が言っていた。その言葉を、ほんの少しだけ信じて。
指ですらすらと文字を書き、そして丁寧に折りたたんで空を狙う。
「なんて書いたの? 兄さま」
「天祥は?」
「かないあんぜん、むびょーそくさい!」
「はは! それも大事さ。俺っちは……」
天化の手を逃れ、ふよりと飛び立った飛行機が、空を抜けていく。
「強くなりたい。今よりもっと」
強くてやわらかい誰かさんを、助けられるように。