珍しい姿をしているから、どうしたのかと聞いた。すると、彼は「家出だ」と答えた。
「出る家なんて、あったんかい……」
ぽろっと零れたその言葉が無神経だったと気付いたのは、発してから数秒後のことだった。思わず、天化は口元の煙草を指に挟む。それが発言を誤魔化すための動作だったことは、既に相手にバレていることだろう。
「そうでなくて、王天君がな。家出中なのだ」
「なんだ、そういうことか」
「わしに出る家などないわ」
相手が律儀に答えてくれることに後ろ暗さを感じながら、天化は「そーかい」と頷く。傷付けていなければいいと思いながら、相手がその程度で傷付く神経を持っているとも思えなかった。
「おぬしは暇か」
「暇ではねーけど」
「そうか」
すっくと立ち上がったその姿は大層飄々としていて、重々しさのないものだった。
はためいた彼の服の裾を眩しく感じながら、天化は煙草を銜え直す。
「用事がないのなら、人里に行かぬか?」
「えー」
「そうあからさまに面倒そうにするでない。祭りがあるのだが、わし一人ではつまらなくてのう」
「カバっちは?」
「家出だ」
「カバっちまで……」
どれだけ愛想尽かされるようなことをしたんだよ、と思う。この人と連れ添うその全ての相手が家出状態だなんて。
「家がしっかりしないでどーすんの……」
「耐火耐震性能はばっちりなんだがのう……」
「うーん、柱がぐにゃぐにゃしてそうさ」
「……ぐにゃぐにゃ」
間抜けな擬音を復唱した彼が、ひょいとそっぽを見た。その擬音の指す所に、心当たりはあるらしい。
「ぐにゃぐにゃのスース」
「なんだ?」
自分に声を掛けたのは、まさか新しい足を探してのことじゃなかろうなと、彼を一瞥する。
きょとんとした彼の、太公望の瞳が天化を見上げた。淀みのないそれに、天化は肩を落とした。考え過ぎ、だろうか。だって、自分は聖獣の四不象のように、空を飛んでやることなどできないのだから、今の彼にとって、大した足になるとは思えなかった。
「……祭り、行かないさ?」
考えることをやめた天化がそう問えば、太公望の瞳がぱぁっと輝いた。それを見て、天化はどこか安堵した。
太公望の指す通りに人里へと降りれば、彼の言う通り、そこでは祭りが開かれていた。五穀豊穣を祈り、土地の神を讃える儀式は既に終わっているのか、残っていたのは屋台とそれに群がる人々の群れだけだった。結局のところ、人々は騒ぎが好きなのだろうと思う。
「……変な話さ」
「何がだ?」
そう、結局のところ、人は催し物が好きなのだ。
両手に屋台の出し物を抱えている太公望を目の前にして、天化は溜め息を吐く。
「あーたはともかく、俺っち神様なんだけど……」
「何を言うか」
一人で食べるには些か多かろう腕の中の荷物を見て、太公望がにんまりと笑った。
「粋ではないか。神が人々に紛れて祭りを楽しむなどと」
「だぁれも気付かないさ」
「わはは、そうだのう! 悔しくば、それとなりの威厳を身に付けよ!」
「わーっ! スースには言われたくない台詞さ!」
「やかましいわ!」
天化を睨んだ太公望が、そのまま天化に荷物を渡す。
「罰として、ちっと持てい」
「げぇ……なんだよ。自分の荷物くらい自分で持つさ」
「確かにわしの荷物だが、それは土産なのだ」
土産、という言葉に首を傾げる。
天化に背中を向けた太公望が、ぽそりと言った。
「王天君め、あれで意外と子供なのだぞ」
「……あーたは」
なんだかんだ、本人が子供っぽいようで、けれど面倒見が良い。そんな彼が子供っぽいと称する王天君を思い浮かべ「へぇ、アイツがねぇ」と溢せば、太公望が頷いた。
「さしずめスースは兄貴ってとこか」
「さてな。向こうも同じように思っておるかもしれんぞ」
「……その気持ち、ちょっとわかる」
ぼそりとそう溢せば、太公望は不思議そうに振り返った。
「なんか言ったかのう?」
「ううん」
放っておけないよ。危ないよ。そう声を掛けたくなる。
決して天化の口から出ないその言葉たちを奥歯で噛み締めて、太公望の後ろを歩く。
「お、わたあめ」
「まだ買うんさ?」
いくらなんでも、王天君だってこんな荷物を渡されたら鬱陶しく思わないのだろうか。そもそも、家出した王天君が戻ってくる保証があるのだろうか?
天化はそんなことを考えながら、太公望の後を追う。わたあめの串を両手に一本ずつ携えた太公望が、目を細めて振り返った。
「ホレ」
「んあ?」
口の先に、ずいとわたあめを突き出される。
「食え」
「えー……べとべとするさー……」
「良いから」
天化は、突き出されているわたあめを仕方なくはぐっと口に含んだ。舌の上に転がった綿がじゅっと溶け出し、そして口の中にぺとぺととした甘みが残る。
「あっまー……」
「飴だからのう」
はぐはぐとわたあめを食べている太公望は、とても幸せそうだった。
「それも土産なんじゃねーの?」
「何を言う。おぬしが今かじったであろう? これはおぬしの物だ」
「俺っち、手が塞がってんのに」
「ほーれ、食え」
唇にあてられた飴のわたが、べとっと貼り付く。天化はそれを不快に思いながら、舌で舐め取った。
「あんねぇ……」
「顔面にぶつけられたくなければ、おとなしく食え」
「……こんにゃろう」
ああ、こんなのを兄に持ったら、王天君の方が哀れだな。
天化はそんなことを思いながら、強制的に施されたわたあめをもくもくと食べるのだった。
「うーん、べとべとする」
「ラムネ飲むか?」
「余計べとべとするっつーの……」
カランとラムネ瓶を鳴らして、太公望が言う。いつの間にそんなものまで入手してきたのか。どうやら、そのラムネ瓶を土産にする気はないのだろう、他の物と違って自分の物を一本しか持っていないようだった。
「マシにはなるかもしれんぞ」
「言ったって、あんた自分の分しか持ってないくせに」
「細かいこと気にするな」
からんころんと鳴るビー玉の音を聞くに、瓶の中のラムネは残り少なそうだ。なのに、そんなことを言う。
「どーせなら、普通の水がいいんだけどなー」
「どこもかしこも、酒ばかりだのう」
「まぁ、祭りならね。それも仕方ねぇさ」
きょろきょろと辺りを見渡していると、太公望は突然、ラムネの瓶を天化の口に当てた。先程わたあめを突き出してきたような、そんなノリだった。
驚いた天化が、はたと太公望を見下ろす。すると、どこか期待したような瞳が天化をじっと見つめていた。
「……なに」
「飲むか?」
「いらないさ」
「強情な奴め」
唇を舐めれば、甘い炭酸水の残り香が、ほのかに鼻をくすぐった。
辺りは、ざわざわとして賑わっている。その中に、ぽつんと太公望と天化がいる。まるで、自分が人に戻ったみたいだと思った。
「……ああ、あんたは人か」
「人?」
そうだ、この人は、最初の人、始祖、その一人だった。
こうしていると同じように見えるのに、けれど、そこには深い違いがあるような気がした。
天化は両手いっぱいの荷物を抱き直し、それから背筋を伸ばす。
「……そろそろ帰ったらどうさ」
「どこへ?」
「……どっか。王天君の所、とか。カバっちの待ってるとことか」
家出をされたと言った。なるほど、確かに彼らにとってこの人は帰る場所なのだろう。けれど、この人にとっても、きっと彼らがこの人の帰る場所なのではないだろうか。「ここ」は、彼のいる場所じゃない。
「天化」
荷物を抱えている腕を無造作に引かれ、天化はぎょっとした。
「わっ!」
「射的がある。やろう」
はぐらかされた気がしながら、その手を振り払えないでいる。
(……荷物が、あっから)
天化は、そんな言い訳を口の中で転がした。
かさかさと鳴るマッチの箱を片手で弄びながら、天化は「はぁ」と溜め息を吐く。
「ぜってー他の景品、重量かさまししてるさ……」
剣技ほどではないが、射的にも自信はあったのに、取れた景品はこのマッチ箱ひとつだった。
口を尖らせていると、隣の太公望が、ふふっと笑った。
「神のくせに、射的のイカサマには負けるんかい」
「……ホントだよ」
したり顔の屋台のオヤジの顔を思い出し、天化はちいと舌を打った。
「必要とあらば、そのイカサマいくらでも煽ってやったというのに」
「あーたは、そういうの得意そうね……」
「少なくとも、おぬしよりはな!」
ぐうの音も出ないし、恐らく真実だろうなと思う。
「ま、子供の玩具の類をもらってものう。わしらには使い道がないし、マッチ箱で十分だったのではないか? むしろ、そんな小さな的よく当てたもんだのう」
「だから、自信はあったんだって……」
「大したものだ」
太公望に褒められれば、このマッチ箱にも獲得の意義があったのかもしれない。それに、煙草の火を点けるのにも重宝するだろう。
「……あんがと」
「ん? 何がだ?」
「褒めてくれたから」
「なんだ、このくらいいつでも褒めてやるぞ。おぬしは出来る奴だからのう」
「う、珍しい。明日は雨でも降りそうさ……」
「何おう! おぬしの技術は、一応評価しておるつもりだぞう!」
「そーかいそーかい」
いまいち実感はない。が、天化は確かに、今この瞬間、それを嬉しく思った。
「まったく可愛げない……」
「言われたくねーなぁ」
「そればっかだな、おぬし……天化の方こそ、わしのことを褒めたらどうだ」
「やだよ」
「むぅ……」
先程まで天化が抱えていた荷物は、籠にひとまとめにされて、今は太公望が持っている。その籠をどこからかすめてきたのだろうと不思議に思った。
「……夜も更けたのう」
「だね」
「そろそろ戻るとするか」
「送ろうか。足もねーだろ」
やはり、戻る宛てはあるようだった。
「足ならあるよ。その足で、おぬしの所へ来たのだから」
「……そっか」
祭りの喧騒からそっと離れる。追って来る者もない。すたらすたらと歩く太公望はいつの間にか天化を追い越し、そして、そっと振り返った。
「ありがとう」
「何が」
「付き合ってくれたではないか」
「だって、寂しそうだったから」
そんな天化の言葉を聞いて、太公望はきょとんとした。それから、少し目を泳がせて呟く。
「そんな風に、見えておったかのう」
「ん」
ぽりぽりと頬を掻く。そんな彼を見据えて、天化は煙草を銜えた。先程取ったマッチを擦って、火を点ける。煙を吸ってほっと吐き出したその行方を、太公望がぼんやりと見ていた。
「……気、遣わせたな」
「んなことねーよ」
口の中に残っているわたあめの飴が、ざりりと音を立てた。
籠をふらふらと揺らす太公望が、天化にふらっと背中を向ける。そして肩口にちらりとだけ振り返った。
「ではな」
「また」
「約束できんことには返事せんぞ」
「……あんだよ、それ」
土を擦って歩き出した太公望の後から、少し間を空けてついていく。すたすたと早まる足に合わせて大股になれば、足を止めた太公望が振り返った。
「ついてくんな」
「送るさ」
「いらんわ!」
「んー……じゃあ言い方変える」
ふーっと煙を吐いて、頷いた。やはり、自分は直球勝負が性に合ってると噛み締める。イカサマは苦手だ。
戸惑っている太公望の腕を掴んで、そっと揺らした。
「帰りたくねーさ」
そう言えば、太公望は肩を落とし、瞳を廻らせてからもう一度天化を見る。呆れたような困ったような、不思議な表情だった。
「おぬしまで家出か……」
「俺っちの場合は……息抜き、的な?」
自分の責務も課せられている仕事もわかっている。しかし、今はそこから逃亡したい。家出ほどアグレッシブではないのだ。
「神様の小旅行的な」
「……呑気なこと言うのう。誰にとは言わぬが、どやされても知らんぞ?」
「あー、それはもう諦めてるさ。スースに怒られなければいいや」
「……わしが怒らんと思っておるのか」
「怒らないっしょ」
天化が屈託のない表情でそう問えば、太公望は少し口を尖らせ、それからわざとらしい溜め息を吐いた。少しだけ上がった口角を、天化は見逃さなかった。
「とんだ神隠しだ」
「大丈夫さ。誰でもかんでも隠すわけじゃないし」
天化は太公望の持つ籠の中からゴマ団子を取り出した。そうして、それを口に放り投げる。
「あ、土産!」
「いいじゃん。別のところで別の土産探せば」
「お、おぬし、そんなにわしを引っ張り歩くつもりか……」
明瞭なリミットを思い付かなかった。だから、天化はゴマ団子を咀嚼することに集中することにして、返事をしなかった。
「おい、天化!」
ついと腕を引いたまま、目的もはっきりしないまま、とりあえず歩き出す。
さて、どこまで引っ張り歩いてやろうか。どこまで付き合わせてやろうか。はて、どこまで。
「なぁ、スース。門限は?」
「……今更」
むっとした太公望が目を伏せて、それから満更でもない顔で呟いた。
「好きにせい」
どちらともなく手を繋ぐ。夜風が、二人の間をささやかにすり抜けた。