スースへ
そっちの天気はどう? こっちは何も変わらないさ。平和そのもの。退屈なくらい。だから、伝えることも大してねーな。素っ気なくてごめんな。
「タイコウボウから、黄天化へ」
音声で制御してあるロックを解除し、そしてパネルを手繰り寄せる。パタパタとパネルの上を指で叩き、そうして「返事」を作った。
天化へ
おぬしが退屈なら、それはまことに平和そのものであろう。この際だから、鍛錬以外の趣味を見つけてはどうか。
「あんたこそ」
「……それもそうだな」
お互いに無趣味が過ぎる。だから、こんな戯れをしている。
音声チャットの回線が開かれたので応答すれば、天化はけらりと笑った。
「退屈だからって、こんな遣り取りで退屈しのぎになるさ?」
「何もないよりは良い」
ぷかりと浮かせたパネルが、球形の部屋の中を舞う。
三六〇度すべての方角に、闇の景色が広がっていた。その中を、わずかな光がちらついている。時折焔が燃えて駆け抜けるのは、あれは星だ。
「宇宙ってのは、そんなに何もないんかい」
今、伏羲は宇宙にいる。
宇宙船とまではいかない、けれど、宇宙を渡る船。そんな空間の中で生活をしている。かの星を離れてから、幾光年経たろうか。
「おぬしが思っておるよりは、何もないよ」
「宇宙人とバトルとか」
「それは漫画だ、漫画。それに、わしは戦闘民族ではないのでな」
「ちぇ」
つまらなそうに言う天化を尻目に、伏羲は椅子にどっかりと背中を預けた。
「こちらに来たら、よほど地球の方が良かったと思えるだろうよ。そのくらい退屈だ。景色もほとんど変わらぬ……」
「そーかいそーかい」
のらりくらりとした声色に、ゆっくり瞬きをする。
「確かに、こっちは景色がころころ変わるさ」
「それが、地球の良いところだな」
この男の声は、言葉は、こんなに落ち着くものだったろうか? うつらうつらとする意識を枕に預け、漂っているパネルを見つめる。
「どうした、スース? 眠くなったさ?」
「ああ……なんだか、今日は少し、早いな」
「意識レベルが落ち着いてきてるってことだろ。良いことさ」
「そうだと良いが……」
違う理由に基づいている気もして、つい目を擦った。けれど、眠気はやはり眠気の形のままだった。
「眠るまで居てやろうか?」
「……そうだな、頼む」
「めずらし、そんな風に頼られるなんて」
「やかましい」
ふふと笑って目を閉じる。すると、天化の声がゆっくりと羊を数え始めた。遠い記憶の中で追った羊を懐かしく思いながら、伏羲はそっと椅子に体重を掛ける。
「ひつじがごひき、ひつじがろっぴき」
ひつじがななひき、ひつじが――
「十」
かくんと、意識が落ち込んだ。
いつもそうだ。十匹数えられると、途端に眠りに落ちてしまう。
次に目を開けた時には、既に彼の声はない。あるのは丸い天井と、それから、似たり寄ったりな宇宙の景色だった。
「……十一匹目のひつじには、また会えなかったのう」
首をのけぞり、天井を見つめる。手の届かないその天頂に手のひらを向けて、ゆっくりと握った。
「タイコウボウから、黄天化へ」
チャットを開く。自然と漂ってきたパネルに「ありがとう、助かった」と打ち込んで、それから躊躇わずに送信した。
スースへ
観測の合間に、飛び込んできた手紙を広げる。
今日も特に何もないさ。あるとしたら、羊の群れを見たことくらい。いつも羊数えてやってるけど、実際にあいつらを数えるのは大変だな。
「わしは、いつもしておったぞ」
コホンと咳をする。わしは、否、呂望は、だ。
「スースのひつじを数えるなら、おまかせください」手紙は、そんな言葉で締めてあった。
伏羲は、ふーっと口角を上げる。
「タイコウボウから、黄天化へ」
そして、パネルを膝に乗せるとそっと打ち込んだ。
「わしのひつじは、どうやら十匹しかおらんらしい。それなら数えるのも容易かろう」
十一匹目は、聞いたことがない。
スースへ
今日は球形の中が明るい。というのも、遠くで流星が舞ったからだ。あれが近くを通ったならば、この船ごと岩の雨に砕かれていたことだろう。
開いた手紙には「雨だよ」と書いてあった。
「奇遇だな、こちらも……星の雨だった」
思わず、音声チャットを開く。
相対する天化が呟いた。
「宇宙って、雨降んの?」
「流星群が観測されてな。あの中におったら、ひとたまりもないところであった」
「岩のスコールってとこか」
「その通り」
「そいつは痛いさ」
「痛いで済めば良いがな」
音声チャットが始まれば不要になるパネルから手を離し、伏羲は椅子をゆっくりと倒した。
流星群の名残か、まだちらほらと流れ星が観測できる。
「ねぇ、それってさ、綺麗なもんかい?」
「何がだ?」
「星の雨」
我ながら、詩的な表現を使ったものだ。発した時は気付かなかったが、天化の声を介すと途端に風情を感じて、むず痒くなる。
「綺麗……ではないな。近すぎると恐ろしいよ」
「ふーん」
手を組んで、天頂をぼんやりと見つめる。
「一瞬であろうな。あんなものに巻き込まれたら」
「あーた、宇宙でも息してられんじゃん」
「折角作った宇宙船が木っ端微塵では、生きていてもつまらぬよ」
「また新しい星で作ればいーだろ。おちゃのこサイサイさ?」
「その時には」
言い掛けて、口を閉ざす。瞬きを二回。それから溜息を一度。
「何、その時には一緒に来て欲しいって?」
「……そだな」
「珍しく素直さ」
「わしはいつだって素直だよ」
天化の声色が、変わらないことに安堵する。
「宇宙ねぇ。ピンとこねーな……宇宙人って、強いさ?」
「おぬしは、まるで戦闘民族だのう……」
先日語らった、どうでもいい話の延長をする。その間抜けっぷりに、伏羲はころんと笑った。
スースへ
宇宙のことを考えたけど、俺っちはやっぱり、地に足着けてる方が落ち着く。だから、もし誘ってもらっても、やっぱり宇宙には行かない気がすんだよな。ていうか、たまには帰ってこいよ。みんな喜ぶさ。
「帰ってこい、か……」
ふと天頂を見上げる。伏羲の帰る場所は、果たして地球なのだろうか。
「……天化がそう言うなら、そうなのかもしれんが」
実際のところ、どうなのかは最早わからない。宇宙のどこにも故郷はないのかもしれない。あるいは、宇宙そのものが故郷なのかもしれない。
「嘘でも、共に行くと言えっつーの……」
そんなことより、天化の馬鹿正直な返事に口を尖らせる。しかしながら、そういう馬鹿正直な部分が気に入っているのだ。社交辞令など必要なく、また、叶わぬ願いも必要ない。
(わかっておるのだが……)
それが難しいことも、伏羲はよく知っている。
「天化」
「んー?」
呼び掛ければ、天化が応える。
「みんな、喜ぶだろうか」
姿は見えていないのに、つい身を乗り出して問い掛けた。
「喜ぶっしょ」
そんな伏羲に、天化は素っ気なく当然のように答える。身を乗り出したままの伏羲は、ぷかぷかと頭を揺らした。
「みんな?」
「んー、みんな」
「……みんなか?」
「しっつこいな……みん」
はっとしたように、天化が言葉を切る。
「……俺っちとか、喜ぶ、さ」
「……ぷ」
乗り出していた身を引いて、それから椅子の上でころりと丸くなる。
「けけけけ」
みんなという言葉の中で誤魔化した個の感情を聞き出した優越感。伏羲は、その優越感に浸りながら、にまにまと笑った。
「……ひつじがー」
しかし、なんとなく羞恥したのだろう。天化が、突然ひつじを数え始めた。
「わーやめんかー! 今は、めちゃくちゃ気分が良いのだぞ!」
「いっぴきー、ひつじがにひきー」
「おい、天化! こら、待て!」
「ひつじが」
誤魔化すように大きな声で、ひつじをゆっくりと数える声。それを聞いていると、どうにも意識がうつろになり始める。
伏羲は口先だけでわーわーと喚き、けれど目はゆっくりと伏せた。
「……帰りたい」
ひつじを数える天化に、この声は届いていただろうか。
スースへ
この間言ってた星の雨が、こっちの方でも見えたかもしんない。流星群が見えたんだ。そのいくつかが、地上に降ってきたって聞いた。山を削ったりしたらしいけど、人里に落ちたら大変だったな。遠くから見るには綺麗なのに、確かにあれは危ねーや。スースが無事で良かったさ。
「黄天化へ」
他に、被害はなかっただろうか。
そう打ち掛けて、手を止めた。
改めて、制御コードを呟く。
「タイコウボウから、黄天化へ」
それはわしが見たものより、ずっと以前に降った星の雨であろう。地球からは随分離れた場所にいるから、わしが見たものが降るのはずっと先のこと……
(多分、おぬしはそれを)
伏羲の手が止まる。
(見ることなく)
音声チャットを開いて、そして呟いた。
「天化、ひつじを数えてくれぬか」
「あいよ」
いつ何時でも、チャットに答えてくれる天化の声に耳を澄ませる。
「ひつじがいっぴき、ひつじがにひき」
天化の電子の声に、意識を傾けながら目を閉じる。
「ひつじがさんびき、ひつじがよんひき、ひつじがごひき」
ろっぴき、ななひき、いつもの通りに数えてくれる声。その声には、曇りもなく迷いもなく、伏羲を眠りに誘ってくれるはずだった。
「ひつじがはっぴき」
そう、特に何もない、そのままの日の記録であれば。
「ひつじがきゅうひき、ひつじが……」
――じゅっぴき。
途絶えた天化の声。
伏羲はまだ、自分の意識が残っていることに気付く。目尻を拭って、それからゆっくりと起き上がった。
「……もう、効かなくなってしまったか」
球形の室内が、急に白く光った。全方位モニターではなく、本来の白い壁の姿に戻った部屋に、一人のヒトが入ってくる。
「伏羲、また管制システムの夢を共有していたのか」
「眠れなくてな。昔の友人と話していれば、うまく眠れたのだが……もう駄目だろう。効かぬ」
「管制システムの感情に触れすぎるのは良くないことだよ、伏羲。君とこの船のシステムはリンクしすぎている……いや、当然か。だって、このシステムは、君の一部だものな」
ヒトの言葉に、伏羲はゆるく頷いた。
王奕の力を用いて、自身の魂魄の一部を切り取り、そしてこの船の管制部に配置した。伏羲が見ていたのは、彼の記憶の中の情報だ。
「やれやれ、また地球が終わってしまった」
「それ以上見るのは、やめた方がいい。君の心が壊れてしまう。それに、システムの心……心臓もね」
「わかっているよ。だから、これでやめようと思う」
伏羲が観測した星の雨を、天化が見ることはない。その前に、現実の地球は崩壊してしまった。天化が言っていた流星群は、じきに地球をなぎ払うだろう。それは、とうに過ぎた過去に起きた、揺るぎない事実である。
「少し落ち着いたら、出るよ」
「そうか。心拍が乱れているものな。ゆっくりすると良い。時間はいくらでもある」
そう言って、ヒトは部屋を出て行った。
再び暗くなった部屋の中で、伏羲ははっと息を吐く。
「……帰りたい」
繰り返し繰り返し、何度も同じ記録を使う。その度に噛み締める。故郷とは、いつもなくしてから気付くものだと。
この船の管制システムに配置している魂魄を失うのは、怖い。自身の中に置いておくことさえ憚られた最後の記憶。それを失うのは、今はとても恐ろしいことだ。
「慣れていくと思っておったのだがな」
管制システムの魂魄の歯車を巻き戻す。地球が、まだその形を保っていた時まで記録を戻す。
砂時計からこぼれ落ちる砂を一掴み、二掴み。そうやって、捕まえては放していく。そんな、ずる賢いことをしている。
「アクセス・封神計画……タイコウボウから、退屈な神へ」
この目尻の痛みはきっと、そのずる賢い行為の代償でしかないのだろう。