千夜一夜ともすこしながく


これは、或る一夜の取り留めのない噺である。
男は交合を終え、ふっと煙草の煙を吐く。心地よい疲労感と気怠さが身体の節々に残っているが、煙草をひとつでも吸えば、そいつらはさっと成りを潜めて、健やかな眠りに誘い出してくれる。
普段ならば「余所で吸え。ここでは煙い」などと文句を零す相手の男が、決してそうはせず、ただ男の横顔を見ていた。
男、黄天化は、それを不思議に思って小首を傾げる。相手をしていた太公望は、少しだけ目を細め、そうして静かに言った。
「こんな噺がある」
彼の言う風には、こうである。
ある国の王は、次々と妃を迎え入れては、初夜を終えるとその女を殺してしまう。次々に見目美しい女どもが殺されていくのを嘆き見かねて、ある女が名乗りを上げ、王に近付く。女は夜な夜な王の寝所で作り話を語り、王の興味を惹いたと言う。王は女の噺を大層気に入り、次の夜を望んだ。物語を終えた後、女は正妻として迎えられ、そうして王の子を成した、と。
「随分と残虐な王様さ」
「フィクションとはいえ、乱心したものだな」
「俺っちも、一晩のお相手で殺されちゃう?」
二人で、ふふと笑い合う。
「……わしは、とんだ暴君と思われておるようだのう」
そう言って、太公望は枕に肘を突き、ちらりと天化を見上げた。
「そうだな。おぬしは、見てはならぬものを見過ぎたとも言える」
「ああ、そいつは光栄さ」
ふかりと吐き出した煙が、さらさら流れてゆくのを見ながら、天化はニヤと笑った。そんな天化に、太公望は静かに言う。
「曝かれるのも、困りものなのだぞ」
 肩を竦めて知らん顔をする。
普段飄々とした太公望の身体を隅々まで曝いて、押さえ込めない程の欲を引きずり出すのは、なんとも小気味好い。閨の上では、天化は彼を好きに踊らせることができるのだから、これを止める理由はないのだ。
いやらしく笑っていると、太公望は頬杖を突いたまま、面白くなさそうに天化を睨んだ。
「ご勘弁」
煙草を指に挟んで、それから手を上げる。そうすると、ぱしりと煙草を奪い取った太公望が、そのままそれををすぅと嗜み、静かに言った。
「割りに合わぬ。わしばかりが曝かれて、秘部を晒しておるようではないか」
「言い得て妙さ」
ぺしりと背中を叩かれた。
「そういう話ではない」
短くなった煙草を吸う横顔に、ふむと思う。
果たして、自分は秘部を晒してはいないのかと。この男に、曝かれてはいないのかと。
「……俺っちだって、こんな気持ちは人に見られたくないもんさ」
「こんなとは、どんなものだ」
太公望の肩に腕を回して煙草を唇から抜き取り、僅かに開いた唇に口を寄せる。慣れすぎてしまった紫煙の香りがこの男からすることをほくそ笑みながら、そこは自分のものだと――自身が吸っていたばかりの煙草にさえ嫉妬する――主張するが如く唇を攫った。
「こんなだけど」
独占欲の主張でさえない。この男の他の性質が決して自分の物でないことを弁えながら、その内に眠る性欲ばかりは我が物としたい。それだけだ。
「……ムラついた?」
かぁっと赤らんだ頬は、薄暗がりのこの部屋では見えないのに、空気がそれと感じさせる。天化は満足して、ゆうるりと目を細めた。
こんなことをするから、殺められてしまうのかもしれない。抱いていた首からそっと腕を離し、煙草を消して、そうして布団に潜り込む。
「なにをするか……」
「あんたの言うところの、秘部を弄くっただけ」
そう言ってやれば、ぐしゃりと前髪を掴まれた。なんと乱暴な、まさに暴君だ。
「……下品な男め」
「あーたがそうさせるんだろ」
上品でないにしても、育ちは良い。逞しく健やかたれと育ったのに、こんなにも俗な事を教え曝いたのは誰でもない。ある意味、何よりも純粋で、そして不純な感情だ。
そうして面を上げれば、太公望はああ嫌だと言わんばかりの仏頂面で天化を見ていた。
「品のねぇ顔すんなよ。興奮しちまう」
「趣味が悪いやっちゃのう……」
「お互いサマさ」
天化を起き上がらせること、そして叱責することを諦めたのか、太公望は些か乱暴に掛け布を跳ね上げ、潜り込んだ。
むくれた顔が近い。はらりと降りた睫の長いこと、それを確認しながら、天化は灯されたままの僅かな明かりに手を伸ばす。
「ただ、噺が面白いだけなら」
そうして、ふと思いついた言葉を口に唱えた。
「奥さんにはしなかっただろ」
「……その女は、見目美しかったのだ。だから王も招き入れたのであろうよ」
目を閉じて、不服そうに、面白くなさそうに言った太公望の姿を確認すると、ようやく明かりを消した。
天化は、十分に間を置いて、それから言った。
「美しいよ、スース」
そう言えば、太公望はがたりと寝台の上で身体を起こし、わなわなと身体を震わせ、そのまま天化の隣に突っ伏した。
思わず笑ってしまいそうになるのをぐっと堪え、天化は口角を上げるに留める。
こんな手遊びを何夜も続けていられるのは、やはり相手が美しいからだろう、なぁ王よ。
(綺麗なだけでも駄目だけどさ)
どこの王かは知らないが、御伽噺を紡ぐ彼女に惹かれ心を許し、そうして手に掛けなかった理由。それは決して、一つの事象には寄らぬであろう。
羞恥に悶える太公望が、ころりと天化の傍らに収まる。そんな姿をいじらしく思いながら、抱き締めはせず、眠るふりをして挙動を見守っている。
やがて、おずおずと伸びてきた指が天化の手の骨の節をなぞり、ゆっくりと絡んだ。
男の内懐を目の当たりにすればしただけ、こちらとて、見たこともない感情に突き動かされているというのに。
この男は気付いているであろうか。男もまた、自覚せずして天化の胸奥を曝いているということに。
曝き曝かれ、酔わず呑まれず。余程、心酔できた方が楽であろうに。
これは、或る一夜の取り留めのない噺である。