完成された物語があるとする。そこに付随するストーリーが何かあったとしても、結局のところ、それは蛇足でしかない。続編、スピンオフ、パラレルワールド、他にも存在するに違いないが、それらは皆「無駄な足」でしかないんだろう。
物語には運命だの宿命だのというものがあって、登場人物のそれは、あらかじめおおよそ決まっているものだ。何が起ころうとも、揺らぐことはない。
(だから、こうしてぼんやりしている俺の運命だって、きっと決まっているんだろう。ただ、俺が知り得ないだけで)
詩人のような一句を唱えて、ゆっくりと目を開けた。映写機は既にフィルムを回しきったらしい。今時、フィルムの映画もないだろうが、この古い映画館は今だそれらを扱っている。古い映画やポルノばかり流しているのだから、当然と言えば当然か。
機材の老朽化と共に、この映画館も畳まざるをえないんだろうな。天化はそんなことを考えながら、観る人のない映画が終わったことを知った。
座席から身体を起こし、そして、薄暗いシアターの中を見渡した。
ああ、やっぱり今日も誰も居やしない。
「天化―、上がっていいぞぉ」
「へーい」
映写室から聞こえた声に、天化は適当な返事をした。この映画館は、オーナーであるあの老人が娯楽の延長で営業している。天化は、そこのアルバイトだった。
最初は、映画が見れて給料もらえれば一石二鳥と思っていたが、あまりにも暇過ぎる。古いポルノなども見飽きてしまったし、何より、最近は映写機の調子が悪いらしい。よく止まる。客もいないし。
天化は映画館の裏口を出て、古い看板を見上げた。
登場人物の命運なんてものは、ある程度決まってるもんだ。それでも、映画は好きだ。結末がわかりきっていたって、得るものはある。観る人間の数だけ解釈がある。見える景色がある。そう、たとえ結末は変わらないとしても。
「ふあぁ……」
欠伸が出た。夕方に入ってから夜遅くまで、映画を流しながら寝ているのが日課になっていた。いい加減バイトを変えてもいいのだが、どうせならあの映画館が幕を下ろすのを見届けたい気持ちもあった。
(誰もいないなら、俺っちくらい見届けてやんねーとな)
もう少し、もう少しあの観客のいない映画館で過ごしたい。
そういえば、居眠りの間に夢を見た気がする。天化は目を擦る。
(椅子がガタガタしてたからな、電車の夢見てた……かな)
靄掛かってうまく思い出せないが、今目の前にある夜の景色とは別の世界だったと思う。
「……明日は、一枚くらいチケットモギりてーなぁ」
給料は出るが、あまりにも暇過ぎる。老人の道楽に付き合うのも仕事の内と思えば……それにしたって苦行ではあるのだ。
天化は、映画館の最寄り駅まで辿り着いた。お約束のように同じルートでホームに入る。乗る電車もきっと、いつもと同じに違いない。
その上、あそこではいつも同じ夢を見る。
(俺っち、主役じゃねーけど)
すごく好きな人がいるけど、同時に憎かったりして、同時にどうでも良かったりして。
そんな主人公は、結局天化の元から去っていく。
天化という登場人物はそれを宿命付けられているのだから、仕方がない。何度繰り返したって、天化がどれだけ手を尽くしたって同じことだ。あの人は絶対に手に入らない。
帰りの電車の中、旅行の広告が貼られている。青い空に黄色い菜の花畑。古臭い広告だが、恐らくそれが一番人の心にくるのだろう。天化も、その配色は嫌いではない。
ぼうっと吊革にぶら下がっていると、目の前の座席が空いた。すっと座る。折角のタイミングだ。座っておくに限る。
(そう、俺っちは主役じゃねーんだわ)
人生において、主役になったことはないかもしれない。かといって、完全に目立たないわけでもない。中途半端な立ち位置を演じている。二枚目にはなれない、いいとこ三枚目だろうか。けれど、それが悪いとは思わない。
(脇役にも、脇役の役割ってもんがあんだろーよ)
それが、たとえ蛇足であったとしても。
電車の揺れに、意識がうつらうつらとしてくる。劇場で寝ていたにも関わらず、眠気は留まる所を知らない。
(やだな、また置いてかれたら)
――でも、置いて行くのが、太公望なんだよな。
自分の頭の中での言葉にはっとする。
天化は思わず頭を振った。
置いていく。自分だって置いていく。だから、彼に置いていかれたって文句など言えない。こうして、気持ちだけがループしていたとしたって。
映画館で同じ夢を見る。彼を引き留める役を演じる自分の夢を、何度も何度も繰り返し。その度に、自分は失敗するのだ。
目が覚めるのはいつも、観客のいない映画館。
(……俺っちは、あの夢を観にあそこに行ってるのかね)
最低だ。ドエムかよ。何度も何度もふられる夢ばかり。
わかっている。彼は自分のところになど留まらない。なのに、彼が自分を呼んだから。
天化は、覚醒を拒否する頭を押さえる。
(違う。俺がそうしたいから)
彼が自分に会いたがったから。
(違う。俺が)
彼が、拠り所と決別するダシとして。
(違う。違う違う!)
主人公として、天化に別の世界を足掻かせている。恐らく、世界はそうして出来ている。
(違うんだ、スースのせいじゃ)
「どうした」
問われて、顔を上げる。明るい電車の中、天化の正面で見慣れた顔が天化を案じている。
「大丈夫か……?」
「スー……」
太公望。
「スース……?」
天化の頭が、すっと落ち着いた。
歪んで見えていた世界が、一瞬で元の整合性を取り戻す。
帰宅ラッシュを終えた電車は、夜のほとりをガタンゴトンと走り抜けている。
「大丈夫か、天化」
確かに自分の名前を呼んだ彼に、天化は何も言えずにいた。
――どうして、こっち側に来てしまったんだ。
「……記憶の一端を置いていってしまってな」
とんとんと、天化の胸を叩く太公望の指先。それを見つめて、天化ははっとする。
「……忘れたの……?」
「あの世界では、何事もなかったように目を覚ます」
「じゃあ……」
「おぬしのしたことも、あの世界の主人公は知り得ない。勿論、奴が望んでそうさせたことさえも」
この目の前にいる、ピーコートに身を包んだ太公望は全てを知っていて、それでいてここ、天化の目の前にいる。
「忘れたかったんさ……?」
つまりは、彼は忘れることを望んだのだ。あの世界を、あの世界にいた天化のことを。
そう問えば、目の前の太公望が首を振った。
「……わしは、あやつの一抹の我が儘だ」
「え……?」
ぐらりと揺れた電車。その揺れに任せて、あるいは便乗して、太公望が座席の天化に寄り掛かる。
「……おぬしといたいという、一抹の」
天化は、寄り掛かる太公望をそっと剥がす。それから、顔を伏せて「俺っちは、あーたの好きだったあいつじゃねーよ」と呟いた。
すると、太公望は天化の手の指を捕まえる。
「……わしとて」
きゅっと握って、静かに言った。
「わしとて、最早主人公でもなんでもないのだぞ」
そんな太公望の言葉に、顔を上げる。
「……それでもいいと、言ってくれるか?」
不安そうな、けれど真剣な声に、天化は思わず目を細める。
「なんだ、丁度いいさ」
そう言えば、太公望の欠片は恥ずかしそうに微笑んだ。