酒はそんなに強くない。そうわかっているから飲まないんだと、そう言った彼の言葉を思い出す。
「あー、なるほど」
若人の言う事は聞くものだなぁと、太公望は呟いた。
「だっれが若造さ!」
「わこうどと言ったのだバカ者……」
「どっちもかわんね」
自分の酒瓶を握っていたはずだったが、すっかり酔いは覚めてしまった。振り返れば、一緒に飲んでいたはずの輩も軒並みいなくなっている。
というのも、だ。太公望の目の前にいる悪酔いした大将のせいだ。
「なー、スース、しよ」
「やらん……」
「なんで! 強いんだろ。酔ったら強いって言ってたさ! ついさっき!」
「やらんもんは、やらん」
そう、このぐでんぐでんに酔っている男が、片っぱしから喧嘩を吹っ掛けた結果、痛い目を見たくない輩は皆、太公望よりも先に逃げてしまったのだ。
「おぬし、あんまり酷いとオヤジを呼ぶぞ……」
「上等さ。俺っち、オヤジにだって負けねーかんね」
だからさぁと、天化は太公望の手をなぞる。するすると指を奪って、そのままくすねていく。
「しよ」
腕を引かれた。まどろんだ瞳は、けれど真っ直ぐに太公望を捉え、そして「戦おう」と言うのだ。
「い、や、じゃい!」
だが、そこで「うむ」とは頷いてやらない太公望である。天化の手をべしりと払い退けて、それから首を横に振る。
「酒の勢いがなければ誘えぬ奴となんぞ、誰がやりあうものか。顔洗って出直してこい」
「あーたも酔えよ! 酔えば酔うほど強いんだろ!」
「それはそうだが、おぬしの阿呆さ加減を目の前にして、酔えるものも酔えんわ」
天化が、ぐぅっと唸る。
「阿呆じゃねーし……」
「阿呆だ、阿呆。好戦的なのは知っておるが、なんだその酔い方は。喧嘩小僧にも程がある」
「小僧じゃねーさ!」
「小僧であろう。今のおぬしは、聞きわけのないただの小僧だ」
天化の手にある湯のみを、そうっと奪い取る。そして、中に残っていた酒を飲み干して、太公望はべっと舌を出した。
「ほうら、おぬしの酒はもうないぞ! 小僧はさっさと寝てしまうがいい!」
「酒ならまだある!」
「おぬしのような奴に飲ませる酒はなーい!」
ぺしっとお灸を据えるような気持ちで頭を叩いた。
すると、天化は眉間にぐっと皺を寄せ、表情を歪める。
「どうしたどうした。泣くか?」
「誰が泣くか。あんたも酔えよ」
「だから、おぬしと飲んでおっても酔えんと言って……」
言い掛けた太公望の頬を、天化の手が拭う。首を傾げようとしたその時、天化の武骨な手が、太公望の顎をくいっと持ち上げた。
「お」
ぐにゃりと歪む視界。ぬるい舌先。絡め取られる呼吸。口が、何かに押し付けられている。
太公望が目を見開いて、その対象と捉えようとするのに、あまりに近過ぎて、それははっきりとは見えなかった。
舌が、ぴりぴりとする。酒の苦みが、粘液と交わり、濁った味になった。それに、太公望は眉を寄せた。
「む、う」
ちゅっと音を立てて解放された唇が、わずかに痺れている。突然のことだったから、頭の奥もずきりと痛んだ。これは、酸欠のせいだと思う。
「なぁ、やろう」
真正面から太公望を見る瞳が、凛と閃いた。
背筋が、ぞくりと波を打つ。
「酒ならまだある。酔わせてやるから、やろう」
聞いては、いけないと気付いていた。
なのに、ぞくぞくとするその感触が太公望に口を開かせてしまう。
「……どう、やって?」
再び、天化の唇が太公望のそれに重なる。まだ痺れているそこに、僅かな刺激が舞い降りる。
「ん、ん……」
ぴちゃりと触れ合う舌先が、先程より熱いものに変わっていた。ぼんやりと開けていた目を閉じる。真っ暗な視界の中、口の中で蠢くそれを、更に強く感じた。
首から下がすとんと抜け落ちてしまったかのように、太公望は崩れ落ちる。
天化はそんな太公望の肩を抱いて、それからきつく抱き寄せた。
「う、うう……は、なへ」
なけなしの力で天化の胸を押せば、不服そうな瞳と目が合った。
「なん……」
なんのつもりかと問い質そうとしたが、うまく呂律が回らない。
太公望は、はたりと瞬きをした。
「べ、別に、酔ってるわけでは、ない!」
そうだ、こんな口移しで酔いが渡るわけがない。それも、液体が直接流れ込んできたわけではなく、ただ、天化の口内の酒気が太公望の口内に伝わっただけだ。飲むことの比にさえならないだろう。
なのに、だ。太公望は、天化の腕から逃れられないまま、寄り掛かっている。
「……なんだ」
「なんだとはなんだ……」
「強くなってねーじゃん」
「だから……!」
酔ってはいないと言っている、そう言い切る前に、天化はぱっと太公望の肩から手を離した。
ぱたんと床に落ちた太公望は、ささやかに頭を打った。
「あだぁ!」
「損した」
「そ、損、だと?」
わなわなと肩を震わせる。
「こんなんで酔うか! お、おぬし、なんのつもりでこんな……こっちの方が大損だっつーの! 何が悲しくて男と、キ……キスをせねばならんのだ!」
「あーたが酔わないから」
「おぬしは……! そういう我儘で、誰とでもこういうことをするのか! どうなっておるのだ!」
「しないけど」
「え、あ……?」
ずいっと再び身を乗り出してきた天化に気脅されるまま、太公望は身体を引く。
「た、戦いたい、から、であろ」
「んー、まぁ、そう」
小僧の顔が、にんまりとあくどいものに変わる。
「そう思ってた方が、いいかも」
「は……?」
頭の頭巾を、ずるりと引かれた。
滅多に崩れないそれも、無理矢理に手で引かれればひとたまりもなく、太公望の頭を離れた大きな布を、天化がばさりと煽いだ。
「あ、おい……」
それを持ったまま立ち上がった天化が、のそのそと部屋を出て行く。
「酔っ払ったら、取り返しに来てよ」
そう言い残した天化の意図がわからないまま、太公望は呆然とする。
「……誰に、でも、すんのか」
しない、と言った。
自分の、湿っている唇を撫でる。
「そう思っていた方、が……?」
忘れていたかのように、心臓がばくりと音を立てた。血圧が上がり、頭に血が巡り始める。耳まで充血したのは、きっとそのせいだと思う。
立ち上がろうとしたが、痺れた腰は役に立たず、太公望は床を見下ろしたまま、ただ途方に暮れた。
(こんな状態で、酔えるものか……っ!)
奪われた頭巾の替えは、いくらでもある。
しかし、だ。天化がほどいたのは、あの一枚きり。あの一枚きりが、今、太公望は無性に欲しかった。
唇に触れた感触を、思い出そうとすればするほど頭が痛む。ずきんずきんと血が巡る。きっと、そのせいで腰が上がらないに違いない。
(ああ、しかし……)
取り返さなくては。取り返さなくてはならない。
きゅっと胸元を握った。
「なぁ、スース、酔っ払ったんかい?」
そう聞く天化に、太公望は首を振る。結局酔うことなどできなかったし、あの後に酒を飲む気さえ起こらなかった。
「……悪ふざけもいい加減にせんか、天化。頭巾を返してもらいに来た」
「……ああ、そ」
兵舎の一角の個室。そこで、着替えもせずにぼんやりとしていた天化が、手元に携えていた頭巾を太公望に投げて寄越す。
咄嗟に受け取ったそれは、几帳面に畳まれていた。
「持っていきなよ。酔ってないなら、やる気も起きないさ」
太公望は、言葉に詰まる。
まるでバカにされているかようなの所業に、怒りよりも困惑が勝る。そのため、不用意に怒ることもできない。
「おぬしの方こそ……本当は酔っていないのではないか……?」
「……どうだろ。酒はあんまり飲まないから、これが酔ってんのかそうじゃないのか、わかんねーや」
月が満ちていた。丸い器には、金色が渡っている。
その光が背後から天化を照らしているものだから、顔の赤みはわからない。
確かに、この男は太公望の目の前で酒を飲んでいたと思う。だから、強い弱いはあれど、素面ではないのだ。だから、真に受ける方が間違っているのにと、太公望は思っていた。
「試してみるか」
「……何を?」
天化から受け取った頭巾の布地を握る。
そっと、天化の部屋に足を踏み入れ、月を背に腰掛けている男の前に立った。
「どしたの……」
不思議そうな顔をしている天化の顔に、そっと手を伸ばす。そして、両手でその頬を包み、上を向かせた。ゆっくりと近付いて、先程この男にされたように、唇を合わせる。そうして僅かに開いた口から、男の口腔へと舌を忍ばせた。
「……っ!」
突然の刺激に、思わず顔を離す。相手の肩を押して突き飛ばした。
「むぐ……」
口の中を、生温い液体が這う。その正体を知るべく口を拭えば、グローブには黒い小さな染みが出来た。
「な……何、を!」
「何をは、こっちの台詞さ」
天化は親指で唇を拭い、それをべっと舐める。少し物思いに耽るような顔をして、それから「しょっぱい」と呟いた。
「……甘いのかと思った」
「たわけ! おぬし、今何をした!」
「だから、こっちの台詞だって、それ」
人差し指を口の前に立てる天化を見て、太公望ははっとする。
ここは兵舎の一角でしかない。夜に、そう大きな声を上げるものではない。
「……そ、れは……」
「俺っち、思うんだけどさ」
「なんだ……?」
「いきなりキスされたら、このくらいの反応するよな」
天化のその言葉に、太公望は目を丸くした。
「痛かったっしょ。それは謝る。ごめん、スース。血が出るくらい噛む気はなかったんさ。力加減ミスったな……やっぱ酔ってんだ、俺」
頭を掻いた天化が、ぼんやりとした口調で続けた。
「でも、キスしたことは謝んねーよ」
やはり、相手は酔っているんだろうと思う。でなければ、どうして天化がこんなことを太公望に言おうか。彼は素直で正直で、それでもってこんなやりとりには向いていなくて、だからこそ太公望は思う。
(わしは、天化を拒まなかった……)
そうだ、相手が酔っていたとしても、いきなりこんな侵略行為をされたら、人は反応を返すだろう。なのに、太公望は天化を拒絶しなかった。あまつさえ、二度目を許してしまった。
噛みつかれた舌が、どくんと痛む。滲み出る血は、彼の言う通りに塩辛く冷たい。
何故だろう。天化からのそれは、どうしてかとても甘かった。
「……と、思ったんだけど」
太公望が黙ったままでいると、天化がひらりと両手を上げた。
「やっぱり、謝る」
「……何故」
「そんな顔すると思わなかった……」
自分は今、どんな顔をしているだろう。太公望から天化の顔は逆光になって見えにくいのに対し、もしや、天化からは太公望の表情が丸見えなのではないだろうか。
では、むしろ聞きたい。どんな顔をしているというのだろう。
「そんな顔って、どんな顔だ」
ぐりりと眉間を押された。「あいて」と身体を引けば、天化が困ったように口を尖らせる。
「すごく困った顔」
幼稚な言葉からは、結局自分の表情はわからなかった。
「すごく困った顔っていうか……ちゃんと考えてくれちゃってんだろうなって顔」
生憎と、その通りだった。
それのどこが悪いのか、視線で問えば、天化は困ったように笑った。
「軽く誤魔化されるかと思ってたんさ」
「……どうやって?」
「さぁ。でも、あんたならいくらでも誤魔化せるだろ」
「そう、だな」
多分、それは、相手が天化でなければの話だ。
天化でなければ、きっとこの夜の事を、もっとうまく誤魔化せたに違いなかった。こんな風に考えることなど、しなかったろうと思う。
「何故、あんなことしたのだ」
「なんでだろう。頭ぼーっとして、したいと思ったから」
「酔ったわしと、戦いたいと思ったから?」
「キスで酔うわけないだろ」
天化の言う通りだ。自分もそうだと言い聞かせていた。
それなのに、今、太公望の頭はぼんやりとして、そうして、試してみるかなどという口実の元に、自分から彼と同じことをしてしまった。
「……酔ったの?」
少し驚いたように尋ねた天化に、「どうだろう」と答える。
「あてられた気はするな……飲まれる、というか」
飲まれたから、こんなことになっているのだと、そう思わねばやっていられない。
したいと思ったから、接吻をした。それが、された途端に、逆の立場になった途端に噛み付くだなんて、勝手なことだ。
太公望だって、もう一度されたらきっと噛み付いてやる。突き放して、罵って、そうして馬鹿にしてやる。――こんな男に、訳も分からず接吻したのだと、その現実を突き付けて、馬鹿にしてやるのだ。
(訳が、無いだと……)
そんな馬鹿なことがあってたまるか。
(理由がないことを)
くだらない。これだからこの手の事は。
(悔しいと思うだなんて)
――卑怯だ。わしは、逃げなかったのに。
「あ、ま、待った! スース!」
駆け出した。気持ちが地に落ちて、気付いてしまう前に部屋から出ようとした。
しかし、その手を無理矢理引き戻される。反動で肘ががくりと痛んだが、天化の方は振り返らなかった。
「ごめんスース!」
全力で振り切ろうとしたのに、相手の筋力が勝っていたせいで、それは叶わなかった。
果たして本当にそうなのか。加減したのではないのか。先程突き放さなかったその原因の元に、今もまた、太公望は天化に対して、手を抜いてしまったのではないのか。
背後から抱き締められれば、もう抵抗などできなかった。
深く息を吸って、それから吐く。呼吸が震える。それは、怒りのせいだろうか、それとも動揺のせいだろうか。
「ごめん、そんな気ぃ遣ってもらうつもりなくて……」
「気を遣っているのでは、ない……っ!」
「だって、そんな考えてくれると、思ってもみなくて」
「考えたくなどないわ! わしには、そんな余裕はないのだ。こんなことを考える余裕は、必要ないのに」
「……だから」
諦めたような天化の声色を遮って、太公望は吐き捨てた。
「なのに、考えてしまう……キスの意味を探してしまう……」
天化の喉から、抜けたような「へ」という音が聞こえた。
酒臭さに包まれながら、太公望はこれを酔ったせいにできないものかと、ほんの少しだけ思った。
「どうしてわしなのだ……もっと、手軽でどうでもいい相手がおったであろう……」
太公望の言葉に、天化はそっと腕の力を強めた。
「……手軽じゃなくて、どうでもよくないから、かな」
擦れた声が耳に届く。
「だから、試したくなって」
抱き締められたまま振り返る。そこにあった瞳が、申し訳なさそうに何かを求めていた。
太公望は肩を落とし、それから小さく頷いて見せる。すると、天化の目が、すっと細められた。
触れるだけのキスをする。
先の予定の、噛みつくことも、突き放すことも罵ることも、太公望は結局どれもこれもできないまま、天化の顔を見上げた。
ただし、これだけはできる。
「……バカだろ、おぬし」
「そのバカに誘い出されたスースも大概さ」
ふわりと浮かされ、そのまま寝台に落とされる。
あてて、と腰を撫でていると、今まで逆光でよく見えなかった天化の顔が、はっきりと見えてしまった。
「……おぬし、相当酔っておるな」
顔が真っ赤だ。
「ああ、そうだな。多分そう」
ずいと顔を近付けられ、目を閉じてやる。噛みつくように触れた口からは、酒と、それから僅かな鉄の味がした。
舌の傷口に、唾液がじんと沁みた。
(……甘い)
その痛みが堪らなく甘かったために、太公望は天化の首を抱いて、縋ることしかできなくなっていた。
――こんな夜には、そうやって言い訳をすることにした。