新学期だ。自分以外の教授のカリキュラムを眺めながら、太公望はふあっと欠伸をした。
それは、天化の持ち帰ってきた荷物の内の一部だった。学生からすればそんな時期かと、伊達眼鏡を指先で上げる。
「……色気付きおって」
どこから持ってきたのかは知らないが、この眼鏡もまた天化の物であった。
自分の部屋の一角に放ってある天化の荷物を漁りながら、携帯を遠くに眺める。着信はない。
「……研究室におれば良かった」
ぐぅっと呟いた言葉は、自分以外に誰も聞いていなかった。
新年度から、太公望は自分の部屋に戻るようになっていた。というのも、この荷物の主のお陰である。
カリキュラムの冊子を放り投げて、太公望は床にごろんと転がった。
二月の末のことだった。天化の住んでいる学生アパートが、盛大に雨漏りするようになったのだそうだ。その改修に思いの外時間が掛かるため、天化が路頭に迷っている。太公望がそう知ったのは、雨漏りの件から一週間後のことだった。
どうりで、暫く声が掛からなかったわけだと思う。雨漏りでぐしょぐしょの部屋に人を上げられるものか。しかしだ、太公望にそれを知らせてくれたのは、天化の友人で、尚且つ太公望の教え子の姫発だった。
(何故わしに言わんのだ! そんなに頼りがないか!)
そう言って怒鳴り付けた時の気まずそうな天化の顔を思い出し、太公望は口を尖らせた。
付き合ってるのだから、太公望が世話になったのだから、そのくらいはすぐに助けてやりたかった。少なくとも、ボロいアパートから連れ出すことくらいはできたのに。
「頼るとか、頼らないじゃねーんだよ」
そう返した天化の真剣な声に、太公望はふらりとした。
結局、太公望は無理矢理天化を引っ越させ、自分のマンションに住まわせている。
どうせ誰も住んでいないような部屋だったのだ。同居人が増えたところで何も変わらない。
「……色気付きおって」
そして、最初に戻るのである。
何も変わらないなんてことは、ありえなかった。だから、太公望はこうして自分の部屋に戻る習慣がついている。
携帯のチャットには、「ゼミ飲みだよ」の文字。時期的にゼミの歓迎会だろう。生憎と、天化は太公望のゼミ生ではない。だから、太公望がこの飲み会に顔を出すことはないのだ。
しかし、しかしだ。むむむと口を結ぶ。天化がいると思って帰ってきたのに、と思った。
考えあぐねるというよりは、拗ねて返さなかった返事。ようやく「女子に手を出したら殺す」と打ち、送信する前に消した。「楽しんでこい」と誤魔化し打ったそれには、返事がなかった。飲み会なのだから、仕方ないことだ。
「むむむむ……」
ころころと転がる。春先は暇なわけではない。なのに、頑張って帰ってきているというのに。
「……や、当たり前なんだがな」
今年度も、雲中子は学内に住んでいるようだ。天化の部屋が雨漏りしなければ、きっと太公望も学内に住んだままだったろう。
むくりと起き上がり、冷蔵庫に向かう。小腹が空いたので、晩飯に何かアイスでもつまもうと思った。冷凍庫を開ければ、そこには冷凍ご飯。
「……お」
もしやと思い冷蔵庫を見直せば、そこには小皿のおかずが。
「……天化だ」
パタムと冷蔵庫を閉める。そして、やり場をなくした手で冷蔵庫を抱き締めた。勿論、背面までは手が届かない。
「おぬしって奴は……」
溜め息のように、好きと言ってしまいそうだ。
恐らく、お手製ではない。馴染みの定食屋のおかずだ。それを、持って帰ってきて太公望のために残してしまう、そんな天化に太公望は頬を膨らませる。冷蔵庫の戸に頬を当て、そのひんやりした温度に「うぐぐ」と唸った。
「うー……わしの生活が侵食されてゆくー……」
休日には、友達と遊びにでも行けばいいのに、朝飯から用意してくれる。そんな天化に、とっ捕まっている。
そういうのは、自分の立場だったはずだ。足元掬って、驚かして。そういう役割は、太公望のものだったはず、なのに。
「……すきだ」
冷蔵庫から離れ、おかずと冷凍ご飯を取り出す。そして、ちゃっちゃと温めて、一人寂しい食卓に並べた。
「唆されたらシメる……」
天化が買い置いているパックのヨーグルトにストローを挿して、それから一気に吸った。
太公望はシャワーを終えて、頭にタオルを巻いたまま床で携帯とにらめっこをしていた。チャットの返事は来ないままである。お陰で、その表情には、むっすーとした不機嫌さが滲み出ている。
「……映画借りに行くか……」
そんな時だった。ピロンと着信の音がする。
『みんなで友達んとこ泊まることになった』
すぅっと、太公望の気持ちが下がっていく。
いや、まぁ、なんだ。大学生ってやつだものな。わしがおらん日は、そういうことが多かったのかもしれんし。なんだったら、発が天化の部屋に勝手におることもあったようだし。うむうむ。
そう言い聞かせながら、とぼとぼとマンションを出る。こんなことなら、本当に研究室にいれば良かったと思った。
なんの映画を借りようか。こんな時だから、天化がいては借りられないようなやつを……と思ったが、生憎とAVには興味がないし、洋画のラブコメ物でも見てみようか。凹むかもしれないが。
頭に巻いていたタオルを撫でる。人もまばらな深夜のレンタルショップだから、恥ずかしくもない。
(んー……ラブコメ、アクションかぁ……)
頭の中でもだもだと呟きながら棚を眺めていると、背後から声がした。
「みんなで見るんだから、こーいうのでもいいよね」
「んー、でも俺、ホラーはちょっと」
「え、じゃあラブコメとか?」
「ラブコメも、なんか恥ずかしくなって」
そうそう、だから天化とラブコメは見ないのだ……――?
「可愛いよね、天化くん」
は? と思い、思わず振り返る。
そこにあったのは、見覚えのある背中と、それよりずっと華奢な女性の背中だった。
(友達……って)
女もいるなんて、聞いてない。
じいっと睨む。口元が引き攣る。
「か、可愛いかな……」
「うん、口調も。なんか、可愛いよね」
「言われたことねー……」
棚のケースを取ったり置いたりして、タイトルを物色している背中。それをじっと見ている女子の横顔。
そこは、いつもなら自分の立ち位置で、映画を選ぶのだって、話すのだって。
太公望はむっと口を尖らせる。しかし、だ、ここで声を掛けるのはなんとなく気が引けて、手に持っていたDVDのケースを棚に戻した。
(……研究室におれば良かった!)
そうすれば、こんな場面に出くわすこともなかったのに。
マイナーなラブコメのタイトルを流し見て、それから溜め息を吐いた。
(アホらしい)
人のラブコメ、楽しく見てられっかい。そんな気持ちで店を出ようと歩き出した時だった。
「おや、太公望じゃないか」
ぎくぅと飛び上がった。この気配の殺し方……と横を見れば、雲中子がひらりと手を上げている。それも、白衣姿のままだ。
「雲中……」
はっとする。嫌な予感がして振り返れば、それまで背中を向けていたはずの天化と女子学生が、太公望を見ている。
「あ、先生もいらしたんですかぁ」
女子学生は、雲中子に向かって呑気にそんなことを言う。天化は、真顔のままで固まっていた。
「……あっれー、私、もしかしてやらかした?」
ついでに、首をごそごそと掻いている雲中子。
太公望はどんな顔をしたら良いものか迷い、頭のタオルを解いた。
「人違いです」
「人違い?」
ぶはっと吹き出す雲中子の足を盛大に踏みつけ、太公望はそそそと通路を歩いていく。
「ちょ、いったぁ……太公望ひっどい……」
「ん? お、雲中子!」
「あ、道徳だ」
そんな淀んだ空気の中、現れたのは教授の道徳であった。
「これから俺の所でDVD観ようって話になってなー」
「ほー、太公望は……プライベート……?」
何も知らない道徳の話にふらふらと頷き、雲中子は視線を逸らす。そんな視線が、まじまじと天化を捉えた。
「……君、道徳のゼミ生だったっけ?」
「そ……そーですけど」
ふーんだの、ほーんだのと言っている雲中子を前に、天化は次第に顔を青くしていく。彼なりに、どこか気に掛かる部分があるに違いない。
彼の担当教授である道徳が首を傾げた。
「どうした、天化」
「コーチ……あの、俺っち、やっぱり帰るさ……」
「なんだって? いや、しかし天化、たまには破目外すって言ってただろ?」
「大変なこと思い出したさ……」
「タイヘン……? あ、おい天化!」
通路から逃げ出すように速足で去っていく天化。そんな彼を追い掛けようとした道徳のジャージを、雲中子が引っ張った。
「はい、待った待った」
「ぬぁー!」
残された女子学生が、不思議そうに首を傾げる。道徳も雲中子を見て、似たような顔をしていた。
「ま、プライベートにまで首突っ込めないよね」
やれやれと首を振った雲中子に、道徳が頭にハテナをたくさん浮かべて問い掛けた。
「ぷらいべぇと……?」
「こっちの話だよ。しょうがない、私が天化くんの代わりに道徳ゼミの映画鑑賞会参加してあげるよ。あ、そーだ。ついでに太乙も呼ぶ?」
「いや、どういう流れだそれ!」
「キョージュ!」
だだだだと足音が聞こえる。全力で逃げてきたが、どうやらそれでも足りなかったらしい。
太公望は、汗だくになってしまったシャツの内側を覗き見て、持っていたタオルで額の汗を拭った。
やれやれと足を止める。
「人違いだ」
「違ってねーっつーの!」
ハァハァと息を切らしている天化を見上げ、そしてタオルをぶつける。
「……人違いが、こんな風にタオルぶつけねーさ……」
「夜中に追い掛けてくんな、ヘンシツシャ」
「失礼だな、あーたは!」
受け取ったタオルで首を拭い、天化ははぁっと息を吐く。
「違うから!」
「何がだ」
「だから、あの子! 違うから!」
「言っている意味がわからん」
天化に、ぐっと頬を掴まれる。むっとしていた口が、更にむっと尖った。
「わかってなかったら、こんな口尖らせねーだろ!」
タオルを突き返され、それから、掴まれた頬を指先で撫でられる。
太公望はその手を払って、すたすたと歩き出した。
「別に、気にしてなどおらん」
「なんで」
「はぁ?」
素っ頓狂な声が上がる。
「な、なんで気にしねーの!」
「逆に聞きたいわ! なんで気にするのだ!」
「だぁって」
眉を寄せた天化が、すうっと小さくなっていく。彼がしょんぼりとしてく様に、太公望の方がしょんぼりしたくなった。
「俺っち、キョージュと付き合ってるさ」
「それがどうした。そっちは大学生だぞ。別に、女子と遊んだりなどと、日常茶飯事であろう……おぬし、少し真面目すぎるぞ。別に、わしの機嫌など窺わなくて良いし、飯も用意せんでも良いし……好きにすればよかろ……」
「好きにしてるよ」
ずいっと天化が顔を寄せた。
「う、わ」
太公望の小さな唇が、天化のそれに掬われる。当てつけられたかと思えば、熱い指先でくっと拭われ、目の前に星が散った。
「キョージュだって、一緒にいたいから帰ってきてくれてんじゃねーの……?」
不安そうな天化の声に、表情が乱れた。形を取り繕っていられなくて、動揺がそのまま顔に出る。
「ど、あほ……っ」
思わず、胸座を掴んだ。
「だから、今日も、帰ってきて損をしたと……!」
「寂しかった?」
「違う! それなのに、おぬし、あの女はなんだ! 友達と言ったではないか!」
「あれは、コーチの所でみんなで映画見ようってなって……」
「信じるか!」
「だーから、追い掛けてきたさ……断ってきたよ」
「んな」
ぎゅううっと、瞬く間に抱き締められる。意図せず、潰れたような声が漏れた。
「ぶぎゃ」
「大変なこと思い出したからなぁ……」
「たいへん……?」
太公望を抱き締めたまま、天化が呟く。
「あーたは、思い込みが激しい」
そんなことはないとばかりに胸板を叩いたが、特にダメージはなさそうだった。
「おぬし、誰に向かってそんなことを……」
「あーはいはい、帰ろう帰ろう。一緒にかーえろ」
「おぬしなぁ!」
振り上げた手をさらりと絡め取られ、そのまま無理矢理手を繋がされる。
ふふんと笑った天化が、太公望の額に顔を寄せて尋ねた。
「ね、俺っち可愛いさ?」
先程、女子学生と天化とのやりとりを盗み聞いていたのを思い出す。
太公望は、大口を開けて言った。
「憎たらしい!」
「あー、そう。じゃあ、かっこいい?」
「しつこいぞ」
「あーたねぇ」
ぐずぐずと腕を振り回す太公望のその動きに合わせて、なんとか手を離さないように動きを抑え込む天化に、太公望は口を尖らせた。だのに、天化はニカニカ笑って、更に腹立たしい。
「じゃー……俺っちのこと好き?」
どうやっても離れないごつごつとした手を見下ろす。抱き締めた冷蔵庫とは似ても似つかない温度を睨み付けた。太公望は辛抱堪らず、そんな天化の肩に貼り付いて、ぼそりと言った。
「……すきだ……」
「へへへっ!」
ニカニカと眩しく笑う天化に、年長者としてのプライドがパタパタと倒れて意義を失っていく。
そうだ、自分は年長者なのだ。あの女子学生のように隣で他愛のない話をしていいはずがない。抱き締められていいはずがない。なのに、そんな場所に嫉妬する。醜い嫉妬を隠そうとするのに、何故この男はその努力さえ取り上げてしまうのか。
せめて、大人として振る舞うことくらい許して欲しい。
「と言っても、冷蔵庫よりは好きというだけだがのう!」
「な、なんで冷蔵庫?」
ああ、なんて大人げない。