深夜の問答


(何が起きたのか、よくわかんなかった)
ただ、口の端に少しの渋さと甘さを感じて、舌で舐めた。
(キス、した)
キスした。
すたすたと先を歩く教授の背中を見る。まるで、何事もなかった風だ。
天化は、ふっと肩を落とした。
(どうして、何もなかったみたいにしていられんの……?)
ダウンジャケットの襟で、頬を拭う。
教授は何も言わない。だから、天化も黙って後ろを歩く。
何も起こらないと思っていた。だからこそ、チョコレートが欲しくて、それを強請るようなことを言った。なのに、その寸前で何かが起こってしまった。
天化は動揺している。
(このまま、何もないと思ってた)
家に上げたって、友達みたいにテレビを見て、雑魚寝とまではいかなくてもベッドでただ横になって、いつの間にか眠ってる寝顔を眺めて、同性なのに近過ぎることに驚かないくらいのそんな距離感でずっといるんだと思っていた。
諦めていたわけじゃない。ただ、それが心地良いのだと、お互いにとって最善なのだと思っていただけで。
(……あんたにとって、それが丁度良いんだって思ってたのに)
――なんで、あんなことすんの?
天化の複雑な視線を知ってか知らずか、教授が肩口に振り返る。
「……どうした?」
探るような視線。天化はそれが気に食わなくて、ラリアットよろしく教授の肩を抱いた。
「あだぁ!」
「どーもしねーさ」
――どうもしない。動じたらみっともない、だろ?
アパートまでの間、教授の頭を抱えていたものだから、天化は煙草を吸うことができなかった。


「なんかDVDないのか。借りてくれば良かったのう」
「あーたね、今日はもう遅いっての……」
教授は天化の部屋に上がると、シャワーを浴びろと促す天化の話も聞かず、デッキの前に座り込んだ。それが習慣と言えば習慣だったが、今日は天化が大学まで迎えに行ったばかりに時間が遅い。それを踏まえて、レンタ屋にも寄らなかったと言うのに。
「あんたは明日も仕事なんじゃねーの?」
「そうなんだがのー、まぁ、採点作業諸々あるが、秘書がおらんくともバイトがおるしのう」
「秘書……って、先生に?」
「そ。抱えている奴も何人かおるぞ。わしの所にいるのは院生のバイトだけだがのう」
ピッとデッキの電源を押した教授が取り出したディスクを、天化は覗き込む。
「あれ、なんか入ってー……」
ばっと取り上げた。
「……違うさ」
「……何がだ? わしは何も見ておらんぞ」
「……王サマが置いてったさ」
「だから見ておらぬと言っとるではないか」
ちぇーっとデッキの蓋を閉める教授から取り上げたディスクを、カラーボックスの隅に入れる。
傷が付こうが知ったこっちゃない。本当に自分の私物ではないのだから。
「何もないなら、仕方ないからそれを見るかと思ったのだがなー……絶対○美○女お貸しします~一泊二日温泉りょ……」
「見てる! ばっちり見てる! バカ! ひどいさ! 違うさ! 俺っちのじゃないってば!」
振り返った教授が、嫌みににんまぁと笑っていた。
「わかっておる。まぁ、そういう日もあるわな」
「その顔、絶対わかってないさ!」
春休みで暇だからと昼間に乗り込んできた姫発のことを思い出し、天化はさっきのディスクを叩き割ってやろうかとさえ思った。
「もういいから、シャワー浴びて寝ろってば!」
「へいへーい……」
「スウェット出しといたから」
「いつものなー」
「そ、いつもの」
いつもの、だ。天化の少し大きいスウェットを着て、なんなら下着まで貸している。着替えなんて持ってきやしない。この部屋にいる時は、全て天化の物を使って、それで、朝には大学に戻っていく。
最初の頃など、歯ブラシさえ天化の物を使おうとしたから、替えを一本早めて出してやったくらい頓着がない。
「……考えてみたら、おかしな話なんだよな」
頓着が、無さ過ぎる。
逆に言えば、相手が天化でなくても良かったのではないか。
(院生の、バイト)
多分、講義の時に一緒にいる長髪の学生だ。秘書、ではないが、似たような仕事をさせてもらっているのだろうか? では、彼は教授がここに来ることを知っていたりするのだろうか?
「……複雑さ」
彼の元へ行ったり、するのだろうか。
「天化ー、石鹸新しいのを出してくれんか。ぺったんこのが割れてしまった」
「……ったくもう……」
好きなだけ使ってるんだから、差し入れくらいしたらどうか。そう思いながら、天化は新しい石鹸を風呂場に投げ込んだのだった。


ベッドの上で勝手に缶ビールを開けている教授の頭を、スパンと叩く。
「……バイトって、院生しかなれねーの?」
「んにゃあ?」
「にゃあじゃねーさ……あんたな、変な声出すなって。オトナだろ」
「おぬしがいきなし引っ叩くから……ったく……。バイトとは? 教授専属のバイトか?」
「そ」
教授の手元を見る。そこにあるのは、上京してきている友人からもらった地域限定ビールだった。勝手に開けられていることに、少しがっかりする。
「まぁ、院生の輩は勉強も兼ねて補佐のバイトをしておるからな。そもそも、大学生で好き好んでやる奴はおらんし……正直、あんまり役に立たんというか」
「……ふーん。あんたのバイトサンって、あれだろ。講義の時に荷物持ってくる人」
「ああ、楊戩な。目立つであろー。あの通り、顔が良いからのう」
「……いつも一緒なの?」
「まぁ、あやつが講義やら研究やらで走っておらぬ時はな。手を貸してもらっておる」
ビールの缶を呷り、唇をぺろっと舐めた教授が、隣に座った天化を見た。
「……しかし、おぬしは院生にはならんのだろう?」
「うん。今のところ、そのつもりはねーさ。働きたいし」
「ならば、無縁な話だな」
「そーね……」
この話は、ここで終わりだろうなと思った。
校内の話はあまりしてくれない。
「はー、おぬしが卒業したら、わしはどこで過ごせば良いのかー……いよいよ、雲中子と同じように研究室暮らしかのう……」
「何言ってんの。家帰れよ……」
ちらりと見上げられ、天化は首を傾げる。教授が何も言わない。ただ、戸惑うような目をされた。ふっと視線を戻した教授が、缶を口に当てた。
(……なんか、間違ったかな)
「やっぱり見るか。絶対的美少女お貸しし……」
「だから、俺っちのじゃないんだってば! っていうか、何、ああいうの好きなんかい!」
「全然」
怒る天化の隣で穏やかに揺れている教授に、天化はかっくりと肩を落とした。
「からかってる……? あれは、友達が置いていっただけなんだって……」
「いいや、別に。ただ、ああいうものにはあまり縁がなかったからのう。たまには面白そうだと思ってな」
ふふふと笑う教授を、横目で見る。
「……見てもいいけど。あーた、多分呆れると思うさ……」
「真に受けるな。冗談だよ」
「……だよね」
他愛のない話。他愛のないやりとり。その中で、「この人はどうなんだろう」だとか、「この人はどう思うんだろう」だとか、そういう些細なことに気を巡らせる。それで楽しかった。
年齢不詳な青年が、天化のスウェットを着て、天化のベッドで横になって、いつの間にかあどけない寝顔を晒して。それだけで、楽しかったのだ。
(チョコ頂戴なんて、言わなきゃ良かった)
意識をしてしまう。意識をさせてしまう。そして、逆に意識されていないことを感じてしまう。
別に、どうこうなりたかったわけじゃない。多分、それは教授も同じで、だから彼がどこまで冗談をしているのかわからない。
「ふぅ」
缶を開けた教授が、とてとてと台所に空き缶を置きに行く。
「明日、缶の日」
「ん?」
「ゴミ。玄関に出してある袋に入れといて」
「おお、わかった」
ベッドの上に横になる。ここに入ってくるだろう教授が狭くないように、自分はずっと壁際に寄って、それから薄目を開けて、素知らぬふりで彼を待つ。
がさごそという音がやんだかと思うと、教授はまたぽてぽてと歩いてきた。ベッドに乗り上がり、仰向けの天化の顔を覗く。
「天化、もう寝るか」
「んー、寝る……」
「うむ」
電気を消そうと教授が背伸びした。けれど、戸惑ったその一瞬、横顔に浮かんだ困惑を、天化は見ていた。
「……キョージュ?」
なんで、そんな顔ばっかり。
「ん、ああ」
電気のスイッチが、パチンと消された。暗がりの中、教授が掛け布団の中に入ってくる。
「きょーじゅー」
「んー」
「俺っち、なんて答えたら正解だったの、さっき」
自分が、間違ったかもしれない解答の答えを尋ねる。
「さっき……?」
「俺っちが卒業したら、どこで過ごせばいいのかってやつ」
ああ、と小さく呟いた教授の解を待つ。
「……おぬしは間違ってないよ。家に帰れば良いだけだからのう」
暗闇に、仄かな笑い声だけが聞こえた。天化には、その笑い声が演技に違いないと思えた。
「聞いていい?」
「うん……?」
「俺っちがいなくなったら、別の誰かの所に行くの?」
返事がない。喉元に迫り上がる焦燥。天化は、そっと掛け布団を握る。
「そうだな、おぬしがいなくなったら、その時は……考えるかもしれん」
曖昧な答えだ。
自分にとって、この人から欲しかった答えはどんなものだったろうか。きっとそれは「そんなことないよ」だ。――俺っちだから、じゃないの。俺っちじゃなくてもいいの。何故、あんたはここにいるの。誰でもいいの。
「……そうじゃないだろ」
「ん……?」
「間違ってないは、正解じゃない」
夜の闇に目が慣れてきた。布団を払って、不思議そうな顔をしている教授の肩を掴む。
「な……っ」
「そうだろ……? あーたは、何を言わせたかったんだよ。それがあんたにとっての正解じゃないのかよ」
「しっ……!」
静かにせんか、と咄嗟に人差し指を伸ばした教授の、その指先が天化の唇を掠めた。
はっと瞳を揺らした教授は、何も言わない。
「……言えないの?」
「……わからぬ」
「は?」
自分でも驚くくらい不機嫌な返事をした。天化は、ついぐしゃりと頭を掻く。
ベッドの上に脚を畳んで、小さく座った教授が顔を伏せた。
「……なんて言って欲しかったのか、自分でもわからぬ」
「何言ってんの……何も考えてないなんて、あんたに限って、んなわけねーだろ……」
「おぬしは、院生志望ではないし」
戸惑いながら口を動かす教授に、苛立ちながら耳を傾ける。
「それに、こちらに留まる様子もないし、そもそも、ここは学生用のアパートだし……卒業をしたら、そこで終わりであるし」
「終わりって……」
何が終わるんだろうと思った。だから、それを声に出そうとして、はっとした。慌てて、口を手で覆う。心臓がどかんと跳ねた。そのせいで身体が固まって動かない。
「わしが早とちりをしたのだ。だから、今整理をしているところで、わしも何をしたいのかわからぬ」
何をしたいのかわからないのに、のこのことこんな所まで来て、いつも通りが通用すると思ったのか、この人は。あんなことをしておいて。
「ちょっと、俺っちも整理したいことがあんだけど、いい……?」
きょとんとする教授のあどけなすぎる顔から、そっと視線を逸らす。
直視して聞かなければならないのだろうが、直視なんてできなかった。
「俺っちは、勝手ながら、あんたと付き合ってる気持ちになってました」
「……だから、チョコが欲しいと言ったのだろう?」
「そう。なんだけど、その」
「しかし、キスをして、幻滅したであろう」
ふっとまた視線を落としてしまった教授の肩を揺さぶる。
「まっ、な、なんでそういう話になんの!」
「なんの反応もなかった」
「いや、むしろ、なんであーたは冷静にちゅーできるさ! 俺っちは男! あーたも男!」
「わしは、どちらでも構わぬからな」
「え……」
「男でも女でも、どちらでも構わぬ」
「あーそういう……」
天井を見上げる。――好きな人がバイセクシャルでした。いや、そんなことはこの際置いておこう。むしろ好都合。――天化は、首を横に振る。
「あーた、あんなことして、俺っちが何も思わなかったとでも思ったんかい……」
「違うのか」
意思疎通ができない。天化はむぐむぐと口を動かして、それから適当な言葉を探したが、思い付かなかった。教授の肩口を掴んだまま、唸り声だけ上げている。
付き合ってるつもりで、なのにキスで幻滅したと思い込んでいて、それを勝手に受け入れていて、それで呆気なく終わると思っていて、終わったら他の誰かの所に行ってしまうかもしれないとそんなふらふらしたことを考えていて。
頭が痛む。
「とりあえずダメ!」
「何がだ」
突拍子のない「ダメ」に、教授がビクついた。
「外泊」
「は?」
「……じゃなくて」
そうだ、それは終わった時の話だ。そうでなくて、今天化が言いたいのは何かと言えば。
「あんたは、なんて言って欲しかったの……」
「だから、わからんと」
「俺っちの進路とか、将来とか、気持ちとか、全部置いといて、あーたの気持ちだけで考えたら! ……俺に、なんて言って欲しかったの」
ぽかんとした教授の顔を見下ろして、天化は固唾を飲む。
我ながら、脅迫染みたことを言っている。もしそれを自分が守れなかったらと思うと心苦しいが、もう既に口から出てしまっているのだ。やり直しは効かない。
「……考えたことも、なかった」
「だろうね。あんた先生だもん。俺にどうして欲しいの」
肩に置いていた手で、なだらかな腕の曲線を撫でる。教授の手の甲をそっと握って、その手を見つめた。
教授に、こんな説教のような脅迫のような話をすることになるとは思わなかった。
(だって、あんたは俺よりずっと大人だから)
天化にされるがままになっていた教授が、ぽそりと言う。
「……卒業、しないで欲しい」
「そいつは無理さ!」
そんな、無駄に学費を払い続けていく余裕はない。ただでさえ兄弟が多いのにー! と、咄嗟に出てしまった言葉にはっとしたが、無理なものは無理だ。
「大体、それ教授としてダメだろ!」
「定食屋に行けばほとんど毎日会えて、黙っていても連れ帰ってくれて、訳もなく一緒に眠れるのだぞ」
「おんぶにだっこ……」
「それ以外に、わしは一緒にいる方法がわからん」
「あーたね、上から下まで俺っちの私物取っておいて、なんでそんな悲しいこと言うさ……そもそも、電話して良いって言ったのは、あんたの方なんだぜ……?」
憤りを超えて、悲しくなってくる。
先に電話して良いと言ったのは、教授の方ではないか。
学生の天化に向けて言える100%の自信が、何故卒業というたったそれだけでなくなってしまうのか。
「……正解の仮説が立ったさ」
握っていた手を離す。そして、自分の顔をぱんと叩いた。
「俺っちが卒業しても、俺の所に来れば良い」
そう言えば、教授はきょとんと目を丸くした。
「あんたは、学生の俺っちじゃないと嫌なの? 自分のガッコの学生だから好きなの? 学校出たら、俺のこと嫌いになんの?」
静かに首を振る教授に、天化は頷いて見せる。
「なら、いいじゃん」
反応の鈍い教授に、天化は意地の悪い言葉を思い付く。
自分だってそうして勘違いされたのだから、差し支えないだろうと眉間に皺を寄せた。
「なんか反応ないんかい? 本当は俺が嫌なんじゃないの?」
「……驚いているのだ」
「へー、そうかい。ほらな、さっきの俺っちもおんなしさ」
そう言えば、教授は顔を上げてふわっとはにかんだ。目尻がとろけているのは恐らく、先程ビールを飲んでいたせいだろう。
(……ごにょごにょ言い出したのも、そのせいだったりして)
シラフの問答より、余程骨が折れたと腕を回す。
ようやく眠れそうだと再び掛け布団を上げれば、教授がずいと天化の顔を覗き込んだ。
「天化」
「んあ? もういい加減寝よーぜ」
「うん」
じぃっと見つめてくる大きな瞳に、この人は本当に何歳なんだろうと疑問を覚える。
「ほら、冷えるから、ちゃんと」
顔が近い。
「布団掛けねーと……」
「ちゃんと、キスしたいのだが」
「いっ」
先行して飛び出た「い」の音を改めて、天化は「いいよ」と呟いた。
すうっと目を閉じた教授に、まるでその行為を初めてするかのように口付ける。小さな唇が壊れてしまわないかと危うんだが、なんてことはない、それは嘘のように柔かった。
顔を離すと、教授が微笑んだ。わずかに感じた麦芽の苦みが、辛うじて天化を現実に留めてくれている。
「おやすみ」
「おや……おやすみ」
もそもそと天化に背中を向けて眠るのは、せめてもの恥じらいなのだろうか。それとも、動揺している天化への気遣いなのだろうか。
それにしたって、抱き締めたくて堪らない。キスだけで、こんなに居た堪れないのに。
(あーもう……)
心臓から不規則な早鐘が聞こえる。このままだと、不整脈でおかしなことになりそうだ。
(幻滅なんか、しなかったさ)
天化は眠りに落ちたいがため、きつくきつく目を閉じた。