苦くて甘い


「自炊しろとか、帰れとかさー、よく怒られるんだけどね」
「無理だな」
「でしょ」
そう言って頷き合った太乙と太公望に、楊戩が呆れたような顔をした。
「……先生方だけですよ。他の皆さんは帰られてます」
「そんなことないよ、雲中子なんてここに住んでんだからね。私は知ってるんだぞ!」
「わしもそう変わらんなぁ」
ふわぁと欠伸をしながら言った太公望に、太乙がぽんと手を叩く。
「ああ、そういえば、太公望なんて図書室で寝てたら警備員のおじさんに閉じ込められてさぁ。懐かしいなぁ」
「あー、本館に戻れんかった日もあったのう。今はすり抜けできるから楽なもんだ」
楊戩が、こほんと咳払いをする。
「平然と、学内のセキュリティの脆さつつかないでください……」
太公望と太乙の二人は、のほほんと笑ったままで、姿勢だけは正した。
「やだやだ、院生はピリピリしちゃってさ」
「ピリピリしてなんかいません。元々です」
「そうだのう、やれやれ。そろそろ彼女でも作ったらどうだ楊戩」
「やれやれとか言わないでください! あと大きなお世話ですよ、師叔!」
まんまと太乙と太公望のぐだぐだペースに巻き込まれている楊戩が、手に持ったままだった封筒を太公望に叩き付け、それから大股でエレベーターまで歩いていく。
「まったく! もう!」
廊下に残された太乙と太公望は、顔を見合わせて笑った。
「怒った怒った」
「太公望が余計なこと言うから~、もしかしたら秘密の恋人とかいるのかもしれないし……」
「いやいや、楊戩に限ってそれは……ふーん、秘密の恋人……」
自分のあれは、秘密と呼んでいいものか。それ以前に、恋人と呼べたものなのか? 太公望はにんまりと笑って、それから、楊戩に押し付けられた封書に目を落とす。
「おお、これか」
太乙も太公望の手元の封書を覗いて尋ねた。
「お、審査結果?」
「そのようだな。今回はギリギリだったからのう……」
「はー、私も準備しないと……」
太公望に届いたのは、学術論文の審査結果の通知であった。恐らく審査は通ってはいるだろうからと、今は封書を開けずに胸に抱く。
「体調崩してたよね、太公望」
「ああ、そうだな。それでギリギリに重ねてギリギリの行程でのう……」
まぁ、体調が回復して、なんとか提出までこじつけたが、とその部分は言わなかった。
鼻筋に傷のある学生の顔を思い出す。黄天化。彼と親密になったのも、その頃だった。
学術論文と授業数増加の影響で板挟みになっていたところに、更に体調不良が重なり、せめて栄養のあるものをと行きつけの定食屋に足を運んだそのまま、天化に所謂「お持ち帰り」をされてしまった。
けれど、俗世間で言うところのお持ち帰りではなく、彼は自分のアパートの一室で、親切にも太公望を看病したのだから驚きである。
太公望は、ついきゅうっと口を尖らせる。
「どしたの……」
「……なんでもない」
不思議そうな太乙と別れ、自分の研究室に戻る。本棚に囲まれた隅のソファにどかっと座り、それから目を閉じた。
自分一人のために自炊をするのが面倒で、ここに来てからは殆どの食事を外食で済ませていた。幸い、大学があるからか、周辺には安価な食事処が多い。その中でも、例の定食屋は一番馴染みがあった。
そこで、教え子の一人に出会ったのだった。二日にいっぺん、もしくは三日にいっぺん、そのくらいの頻度でやってくるらしい教え子に会うために、いつの間にか太公望の方が定食屋に通っていた。
そのきっかけになった夜が、そのお持ち帰りの日であった。
「んな顔して学校戻るなんて、何バカ言ってんだよ」
教授に向かってそんな口を叩いた彼は、部屋に戻りたくない、戻る余裕がないという太公望を引き摺って、自分の部屋に連れ込んだ。
そこで煙草臭いベッドに寝かされ、解熱剤とスポーツドリンクを与えられ、一晩中見張られたのだ。見張られたと言っても、最初こそごねていたが、太公望にはすっかり後の記憶などなく、連日の疲労もあってか彼のベッドで爆睡を決め込んでしまったのだが。
「……天化」
自分のひんやりとした部屋に戻るくらいなら、この研究室に居残るか、もしくは天化の部屋に上がりこむか、そのどちらかになっている自分の生活に、薄く笑う。
「本当に、雲中子と変わらんな……」
部屋を引き払った方が良いのではないかとさえ思うが、少なからず存在している家具や荷物の移動が面倒だと思考を止めた。
天化の部屋に上がり込んだ所で、二人で映画を見て、それからぐだぐだと横になるだけ。特に恋人らしいこともしないが、恐らくはこれを付き合っているというのだろう。
「……天化は、満足しているのだろうか」
他に、懇意の女性はいないのだろうか。
太公望の自堕落な生活を案じて、自室に上げてくれているだけなのかもしれない。付き合っているという認識をしているのは、太公望だけかもしれないと、ふと過った気持ちに薄目を開ける。
「……そういえば、確認したことがなかったな」
恐らく、好意はあるんだろうと思う。部屋で突然に手を握られたり、肩を抱かれたりしたことはある。その度、誤魔化すようにひっくり返った声を掛けられるが、それでもその行動の根底に、好意や情は感じていた。
かといって、天化が太公望とどうにかなりたいと思っているとは、到底思えなかった。
「……おい、誰だ」
誰かが研究室に入ってきた。しかし、挨拶もない。怪しんで、一応の声を上げる。
「いたのかい? 教え子掴まえて弄んでる不良教授」
「学内に住んでる奴に言われたくないわ、雲中子……ちゅーか、おらんかったら開いてないっつーの」
「それもそうだね。ま、スペア持ってるけど」
「おぬし、それ犯罪だぞ……」
ごそごそと太公望の本棚を漁っていく雲中子の背中を眺めながら、太公望は瞬きをした。そして、はたと気付く。
「……ちょっと待て。なんでおぬし、そのことを知っておるのだ」
「最近ここで寝てないなと思って。お、あったあった」
続々と引き抜かれていく本に、太公望は眉を寄せる。
「あー、あとレンタ屋で誰かといるのを見たなぁと。あ、これもだった」
「おぬしのことだから他人に興味はないと思うが、あまり他言するなよ……」
太公望の方を振り返りもしない雲中子の背中を睨み付けながら言う。
「でも、あれ男だろ。君ってそういう趣味だったの?」
「別に。大体、上がり込んでおるだけで、弄んでると言うには語弊があるぞ雲中子……天化とわしはそんな関係では……」
くるりと振り返った雲中子が、唖然としていた。彼にしては珍しいその表情に、太公望は僅かに首を傾げる。
「え、ヤッてないの?」
「ヤ……?」
太公望は、雲中子を研究室から蹴り出したのだった。


弄んでなど、断じてない。そう思いながら、太公望は今日も定食屋に向かう。
バレンタインデーにチョコが欲しいと言われた。それはつまり、天化もそういう関係だと思っているということで、しかし、何かしたいというか、そのような素振りはまったく見えない。
「ヤッてない……」
雲中子のぽかんとした顔を思い出し、腹が立ってくる。プラトニックの何が悪いか、と。
「……干上がって何年になるかのう……」
頭のおかしい教授共と曲がりなりにも寝食を共にしている間に、年数の感覚がバカになってしまったように思う。
最後に女性と付き合ったのはいつだったか。あるいは、男性と付き合ったのもいつだったか。
天化には黙っているが、天化が初めての男ではない。高校生の時に、なんとなくで付き合いの真似ごとをした相手がいた。その相手とは特別仲の良い友人になってこそいるが、だから、天化から好意に似た気持ちを感じても、特別に考えることもなかった。
――そうか、でも……と思う。自分が干上がって何年、十何年という感覚になるのだ。天化は今、三回生。考えたことなどなかったが、少し歳の差がある気がした。かといって、年齢を教える気も無い。
「……それは流石に、詐欺か……?」
自分が年齢不詳なのは知っている。だから、というわけではないが、天化にあえて黙っている部分もある。
(幻滅、しないだろうか)
心の奥底に生まれた気持ちに自分で驚き、そっとマフラーを握った。
首を横に振る。まだ、天化の気持ちがそうと決まったわけではない。……70%ほど確定していると言えたが。
「バレンタインデーまでに、はっきりすれば良いか……」
そもそも、続くものではないし、彼は院生志望でもない。天化が学外に出れば、この周辺からいなくなれば終わる関係だ。
――なら、尚の事、はっきりさせてどうしようと言うのか?
む、と口を噤んだ。
定食屋の暖簾を目の前にして、今日はいる日か、いない日か。覚悟を決めると、戸を開けた。


「おや、今日は彼氏の日じゃなかったのかい」
「っるさいわ! なんでおぬしがここにおるんじゃい!」
ばたんとドアを閉める。マフラーを放り投げた。
足りない物でもあったのか、また太公望の研究室に不法侵入していた雲中子を怒鳴り付けた。
「おーこわ。ヒステリックはやだねー」
「おぬし、ぶっ飛ばすぞ……打神鞭でひっぱたくぞ……」
指し棒を伸ばして、びゅんびゅんと鳴らす。なんとこれ、先端からライトが出る優れ物。ホワイトボードの講義でもプロジェクターの講義でも使える便利な打神鞭である。
それはさておき。
「じゃあ、早いとこ退散するね」
「あったりまえだ、このたわけが!」
のそのそと出ていく雲中子を見送る気も無く、どさりとソファに倒れ込む。天化がいる確率は統計上8割。それはそれで仕方ないのだが、他人に言われると、途端に寂しくなる。
ばたんとドアが閉まった音を聞いて身体を仰向けると、ジャケットの中で携帯がバイブした。
「あ……?」
のっそりと手に持って確認すれば、そこには――
「天化」
反射的に出る。
「どした」
「キョージュ?」
「うむ」
「今日、来てたって女将さんに聞いて」
「あ、うむ……」
「ガッコで会わないから、なんか惜しいことしたなーって思って」
「うん」
ころんころんとしながら、電波に左右される天化の声を聞いている。
「会いたいなーって思ってさ」
「……うん」
はぁっと息を吐く声が聞こえた。空気の音がする。恐らく外だ。どこにいるんだろう。定食屋からの帰り道だろうか。
そんなことを考えながら、でも彼ももう帰路についているのだろうと思うと、決して身体に力は入らなかった。
「あんた、今日、自分ちに戻った?」
「ん、いや……?」
多分、足を止めた気がする。太公望も、のそりと起き上がる。
「あの、さ」
来い、とでも言うのだろうか。そこまではしない。もしそんなことを言ったら、そこは断ろう。とんと自分の胸に指先を当てる。
「来ちゃったんだよね」
「は?」
思った以上に大きい声になっていたことに気付き、そっと口に手を当てる。それから、何故か自分しかいない部屋をきょろきょろと見渡した。
「ど、どこにだ?」
「学校」
目が点になる。
「正面口」
電話を切って、すくりと立ち上がる。時計を見た。あと五分、七分ほどで各入口に施錠が掛かる。
上着を着ていたままだからと、太公望はそのまま部屋を飛び出した。ガチャガチャと鍵を閉め、それからエレベーターのスイッチを押す。上がってくるランプを見ながら、これでは間に合わないと判断した。非常口のドアを開けて、延々と続く階段を駆け降りる。
「くっそ、くそ! わしに! こんなっ、こんなこと、させるかあやつは……!」
ばんばんと最後の階段を下り終えて、それから学内の正面口を出る。かろうじて開いた自動ドアが開ききる前に飛び出して、それから閉まるのを確認することなく辺りを見回す。
「てん、か……っ!」
弾む息をそのままに名前を呼んではみたが、返事は無い。人影もない。手に握ったままだった携帯の画面はブラックアウトしている。
突然電話を切ったから、勘違いして帰ってしまっただろうか。
ハァハァと乱れる呼吸を整えながら、そっと振り返った。もう学内に戻ることもできない。
「……早まった……」
ひゅうと鳴った喉の少し下の器官が、ちくりと痛んだ。変なものを吸い込んでしまったかもしれないと思い、胸を撫でる。それでも、ちくちくと刺さるような痛みは和らぐことはなかった。
「……部屋の鍵はあるし、たまには、帰ろうか」
諦めて大学とは逆の方に歩き出すと、太公望の方に向かって歩いてきた人影とぶつかった。
「ぶっ」
「お」
ぶつかったダウンジャケットからは、嗅ぎ慣れた煙草の匂いがした。はっと肩を落として動かないままでいると、その肩をぽんぽんと叩かれた。
「どったの、せんせー」
聞き覚えのある文句にくすりと笑う。
「……いると聞いたのに、おらんから」
「ああ、突然電話切れるし、ちょっとさみーから飲み物買いに行ってた」
「……わしのは」
「あるよ。ホラ」
顔を上げると、頬にぺたりと缶を当てられた。離して見てみれば、それはココアの缶だった。
「おぬしは」
「コンポタ」
「……わはは」
あったかい。
天化から受け取った缶を両手に抱いて、それから天化を見上げる。
「どうする? 部屋、来る?」
「学校はもう閉まってしまったわ」
「そっかぁ。じゃ、行こっか?」
「ん」
ココアの缶のプルタブを開けながら、天化に頷いて見せる。ゆったりと歩き出した天化の背中を追いながら、甘いココアに口を付けた。
会いたいなと思ってと言った天化の言葉が、頭の中に籠ったままになっている。
待っていたって、恐らく会える。ただそれだけのことなのに、多分彼は、今日会いたいと思った。太公望に。
(わしも)
なんだか、今日はやけに天化のことを考えて、天化がいたらと思って定食屋の戸を開けた日だった。
嬉しい。繋がっているようで、それはとても特別なものだと思えた。
同じ部屋で取り留めのないことを話して、映画を見て、同じ部屋で眠って。そんな友人のような関係で続けばいいと思っていたし、続かなくても仕方ないと思っていた。
しかし、雲中子に言われたから、ではない。きっとどこかで太公望はそれを惜しく思っていて、けれど、こんな自分からはとても言い出すことも手を伸ばすこともできなかったのだと、思う。
階段を駆け降りたせいか、心臓がばくばくと跳ねる。うるさい。ココアが甘い。甘過ぎる。
「……コンポタ」
「んー?」
かちっと音を立てている天化の手元を見れば、彼もまた缶の口を開けているようだった。飲み口から口を離した天化が振り返る。
「コンポタ飲みたい」
「あんだよ、最初に言ってくれりゃあ……」
缶を差し出してきた天化の手を避けて、きょとんとした顔を見上げ、意表を突いてそっと背伸びをした。
「……れ」
かさついた唇に、口を当てる。ほのかなポタージュの味が、口の中のココアの香料に触れた。
「え……」
ゆっくりと瞬いた天化の目が、事象に動揺を見せ、きょろりと動いた。太公望は自分が両手で掴んでいたココアの缶を見下ろして、そっと飲む。
「開けてしまうと、やはりすぐにぬるくなるな」
「……あ、え、うん……」
「行こう、天化」
喜んでは、くれなかった。そりゃあそうかと思う。
――でも、あれ男だろ。君ってそういう趣味だったの?
そう言った雲中子の言葉が頭を過った。
喜ぶはずがない。同性からのキスだ。
(……じゃあ、チョコなんて)
言い出さなければ良かったのに。
手の中の缶が、ひんやりと冷たくなる。中のココアは、まだ少しくらいは温かいだろうか。そっと、缶に口付けた。
(……苦い)
ココアの中身は、冷たくて、それでもって、どうしようもなく苦かった。