慢心のご褒美


騒々しいと気付けば、二月になっていた。学内の男子勢が騒ぎ立てるおおよその理由に見当を付ける。
まだ来週、再来週……それだけ先の話だというのに懸命なこった。天化は、そう思った。
「おぬし、屋上で煙草を吸うのはやめた方が良いぞ」
「合法さ」
「ほう」
シャツの上からグリグリと背中に拳を当てられて、天化はため息を吐く。
「合法は合法でも、一応は学内の喫煙所を使うべきでは?」
「あそこは教授がいっぱいだから嫌さぁ……」
目の前にいるのは、そんな教授のお一人である。
「わしも教授なのだが」
「あーたは好き好んで来てる方だから、いいの」
「好き好んで、か」
言ってくれるのうと呟く彼は、もう何年もこのキャンパスに勤務しているらしい。そう歳に見えない彼の顔を見下ろしながら、天化はあーあと呟いた。
「確かに、好き好んで来ておるが、一応立場なのでな」
「なんの?」
「素行の悪い学生を窘める立場だ」
「ちぇ」
悪い学生とは、言ってくれる。
口から抜いた煙草を携帯灰皿にねじ込んで、天化は柵に寄り掛かった。
「今日は、姫発たちと一緒ではないのだな」
「んー」
姫発は、色男がもらうチョコを頂戴しようと朝から雷震子を引きずり回している。女子に片っ端からアタック中だ。それはもう、片っ端から。
そこまでして欲しいか、あの日に、チョコが。
――欲しい。
(そうだね、欲しいね。気持ちの込もったチョコがあるとしたら、欲しいわな)
しかし、天化が同意できるのは、あくまで気持ちが込もっているチョコであれば、の話である。宛てが違う物や、まして無理矢理頂戴するチョコに興味の欠片もない。
だから、今日は天化は同行していないと、そういうわけだ。
「王サマたちは、チョコを頂戴する作戦で奔走してるさ」
「ほう、半月も前からか! 精が出るのう!」
「テスト期間だっつーのに」
消してしまった煙草の煙の代わりに、溜息をぷかーっと吐き出した。
そんな天化を、教授がちらりと見上げる。
「おぬしはいらんのか」
ドキっとした。
「な、何」
「チョコをだ」
「別に」
口が、勝手に答える。
「気持ちの入ってないもんもらったって、そんなの意味ねーさ」
「ほう」
少しだけ、教授の目が細くなった気がした。
「おぬしは、もらえそうか? その、気持ちが入っているものを」
試されてる気がして、口の中がもやっとした。
こういう時、自分はどうやって答えるのが吉であるか判断することができない。
「……確率30%くらいかな」
「三割か」
「今」
「ん?」
「70%くらいになった」
手摺に肘を乗せて、手の平で頭を支える。じっと見つめれば、水の張った瞳がきょとりと動いた。
何を考えているかわからない。わからないが、期待する気持ちはある。ごくりと唾を飲んだ。
「それより、単位は大丈夫なのか?」
「今、それ、聞く……?」
がっくりと肩を下げると、教授は笑い声を上げて、それからふらーっと柵を離れた。
ひらひらと振られた手に、天化は「あー」と声を上げる。
「……0%になったかもしんないさ……」
単位も、チョコも、もらえる確率駄々下がりである。
教授と、所謂「お付き合い」をしている。
別に隠しているわけでもないし、公にしたいわけでもない。
始まりは、学生用のアパートの近くの定食屋で晩飯を食べているその時によく出くわしていただけの話だ。
ある日のことだった。見るからに体調の優れない顔をぶら下げているくせに、どうしても学内に戻るという教授を、自分の部屋に引きずって帰ったのがきっかけだった。後々聞けば、研究論文の提出が遅れていたのに、余計なことをしてくれたとかなんとか。
しかし、この日に決して何かがあったわけではなく、ただ天化の部屋に連れて帰って一晩看病しただけに過ぎなかったのだが、その後から何度かこんなことが続いた。
年齢不詳なその姿が放っておけなかったから、逐一構ってしまったのがいけなかったのかもしれない。あるいは、もしかしたらそう仕向けられていたのかもしれない。
(だって、なんか……すごく、触れたくて)
天化は、別段相手に困っていたわけでもないというのに、気付けば教授の手を握っていた。
「DVD、借りに行こ」
はっと我に返り、すぐ手を離した。誤魔化すために使った言葉はしっかり覚えている。対する教授は困ったように笑って、それから頷いてくれたことも、それもしっかり覚えていた。
それから、なんとなく一緒にいて、なんとなく付き合っている。所謂お付き合いのはずであるが、結局のところ、この関係をなんと呼んでいいか、天化は考えあぐねていた。
(だから、チョコなんてもらえるわけないんだな。実は)
試験最終日である。翌日からは学内に入る必要はない。春休みというやつを頭の半分で思いながら、ぼんやりと長文を書いている。
(ちゅーか、教授は実家とか帰んのかな。センセーって大学休みでも仕事あんのか? わかんねーな……)
仕事のことは、聞いても教えてくれない。だから聞かない。
(俺っちはまだ実家帰らないけど、考えてみたら会わねーじゃん。バレンタインデー)
チョコをもらえる確率が最早最低の低であることに、天化は溜息を漏らす。
(そもそも、向こうからもらうって決め付けがいくない気がするさ……)
かと言って、自分が渡すのか? と思うと、シャーペンを持つ手が止まる。
(よっぽど、単位の方が楽だわ)
締めの言葉を書いて、天化ははーっと椅子にもたれたのだった。



天化は試験がなかったが、学内カレンダーでは試験最終日、その日の内に会えたら幸福と定食屋に行けば、教授がぽつねんとカウンターに座っていた。
「あ、いた」
「いたとはなんだ、いたとは。おるわい」
「そうね、俺っちがここに来てる時にあんたに会う確率は、ほぼ100パーさ」
「わしがおっても、おぬしがおらんのは……まぁ、大体80%と言ったところかのう」
「あーた、いすぎ……家帰んなよ」
「おぬしにはわからんであろうが、大学教授というのは中々に多忙なのだぞ。あと、わしは自炊面倒くさい派だ」
「後半が全ての真理だったさ……」
芋の煮っころがしを箸でつつきながら、教授はふっと目を細めた。
「しかし、そう言うクセして……」
「ん?」
天化が教授の隣に腰掛けながら、餃子定食を頼む。
「今日は、なんだか嬉しそうだのう」
「ぶっ!」
駆け付け一杯、出された水を噴き出しそうになった。げほげほと咳をすると、教授は「汚い」と小さく呟いた。
「そ、そう見えた……?」
「うむ」
煮っころがしをもこもこしながら、教授が頷く。
「だって、今日からしばらく会えないかもと思って……」
「なんだ、おぬし実家に帰るのか?」
「いんや、三月にちょっとくらいは帰るつもりだけど、しばらくはアパートにいるつもりさ」
「では、さして変わらぬではないか」
え、と顔を上げる。教授は不思議そうに天化の顔を見た。
「わしは仕事があるし、変わらずここに来るよ。おぬしも、何日かに一回はそうであろう?」
その言葉にほっとした。天化は目の前に置かれたおぼんを見て、はぁっと頰を上げた。
「なんだ、じゃあバレンタインデーも会えるかもなんだ……」
「そのくらい呼べ」
きょとんと教授を見れば、握った手の小指と親指を立てて、耳元で揺らして見せてきた。
「電話。知っておるだろう?」
「……いいの?」
「はぁ?」
「そういうことして、いいんかなって思って」
「お、おぬしなぁ……」
答えを待つ間がつらくて、餃子を口に入れて白米を掻き込む。食事がひと段落するのを待っているのか、呆れ顔で天化の方を見ている教授の視線には気付かないふりをした。
「部屋には連れ込むくせに、電話は躊躇するとは……」
「人聞き悪いこと言うなっつーの……」
「事実だろうが。それとも、おぬしは誰でもかんでも連れ込むんか? 節操がないんかい?」
「そんなこたねーさ……」
教授に、ニヤッと笑われた。
「あーたが、具合悪そうだったから」
「その後は」
「あーたが寂しそうだったから」
「そうでもないぞ」
「あ、あんたが……えっと」
「ふふっ」
食事の終わったおぼんを厨房に返しながら、教授がころりと笑顔を零した。
「しかし、バレンタインデーとは、のう」
思わず見惚れた。そして、うっかりその言葉を口にしてしまった自分を思い出し、天化は「あ」と声を上げる。
ああ、どうしてまったく自分は間抜けなことを。そんなことをしては思惑がダダ漏れだ。
「70%なのであろう。呼んだところで、もらえぬかもしれんぞ」
「あんたはどうしてそう……」
「100回あったら70回、あるいは、10回あったら7回、それが70%の意、確率の理だ。つまり、おぬしは30回、もしくは3回はもらえぬという確率を覚悟したわけであろう。そんな奴に、このわしがチョコレートを施してやると思うか?」
ひどい話だ。天化は頭を抱えた。
つい箸が止まってしまう。
「じゃあ何か。俺っちが100%って言ってたら、くれたんかい……」
「慢心しておる」
「どっちにしたって駄目じゃん!」
ぐうっと項垂れた。だからこういう話はしたくなかったのだ。
けれど、教授は続けて言った。
「しかし、そういう慢心は嫌いではないよ」
天化は、胸がきゅうっと苦しくなったのを感じた。シャツを握って「あー……」と声を上げる。冷めてしまいそうな餃子に箸を伸ばし、ゆっくりと口を動かした。
「後出しは、有効っすか……」
「試験期間は終わったのう」
「ダメかぁ」
やけくそで、ガツガツと残りの白米を掻き込んだ。味噌汁を飲み干し、小皿に残った沢庵をパリパリと噛む。
「で? 電話はもらえるのかのう?」
「え? なんの?」
「休みの間のだ」
ぱりぽり、ぱり……ぽり。
「き、気が向いたら」
「ほーん……」
食後のお茶をずずずと飲んでいる教授。不服そうな横顔に、天化は少し慢心を感じて、戸惑いながら口を開いた。
「……確率、何%くらいだと思う?」
「おぬしからわしに電話をする確率か?」
「そ」
ふむ、と目を伏せた教授は、湯呑みをそっとカウンターに置いて、それから口角を上げた。
「100%であろう。なんなら、このままわしを連れ帰る確率も言わずもがな、だ」
ぐっと喉元が詰まった。言葉が出なくて「うぐ」と呻くことしかできなかった。
「違うのか?」
「あー、ハイ……」
箸を置いて、それからスーハーと深呼吸をする。
「あんたの言う事、ちょっとわかった気がするさ……」
気まずそうに見れば、教授は満足そうに笑って、カウンターの下の天化のシャツをきゅっと握った。天化は、頭がかぁっと熱くなったのを感じて、椅子から落ちそうになった。なんて間抜けっぷりだと、なんとか耐える。
「ちょっとだぁ? ちゃんとわかれ、たわけめ。単位やらんぞ」
天化のシャツを掴んだまま、片手で湯呑みを啜る教授から目を離せない。
単位よりあんたが欲しいだなんて、そんなこと口が裂けても言ってはいけない。だって学生の立場だもの。そんな血迷ったこと、絶対に言ってはいけないが……。
天化は自分のシャツに添えられた手を、そっと握った。
「チョコ、ちょーだい」
なけなしの天化の催促に、教授は笑う。
「……しょうがないのう」
のそのそと席を立つ。
よもやバレバレの関係に、定食屋のおかみさんが笑っていた。笑って済ませてくれるところに優しさを感じたり、ほっとする自分を情けなく感じたりしたが、「良かったね」と言われれば悪い気はしないのだ。
「あー、ホントに」
天化は、はにかみながら財布を開く。
勘定を終えて定食屋を出れば、向かう方向は同じ方向。
天化は先の仕返しとばかりに、教授の手をついと攫った。