温とい狂気


食欲と性欲は似ていると言った人間がいた。
誰が言ったのかは思い出せないけれど、その言葉がふと脳の中を掠めたのはきっと、実際に「食ってみたい」と思ったからなのだろう。
赤い瞳が、ぱしぱしと瞬きをした。その眼球が微動だにせず、土方を見ている。まるで、大きな飴玉のような色だと思った。その目が、ゆうるりと形を変える。
「唾、飲み込んだだろ。今」
動揺が、身体を震わせる。ただ、無意識の行動を指摘されただけなのに、土方の胸はばくりと音を立てた。
夜の公園のベンチに腰掛けている坂田銀時を見つけたのは、つい先程のことだった。街灯の下で白い頭を下げて座りこんでいる銀時は、どう見ても不審者であり、酔っ払いであった。
土方は、溜息混じりにその酔っ払いに近付くと、彼の正面に立ち、灯りを受けて光る銀髪を見下ろした。
「おいこら、不審者」
そんな不審者は、ゆっくりと頭を上げて、にへらと笑った。
「おや、警察屋さんじゃないですかぁ」
「こんな所で酔っ払ってんじゃねぇよ。しょっぴくぞ」
そう言うと、目の前の銀時は静かに首を傾げる。
「ここは、どこで……?」
「公園だ。テメェの居場所もわかんなくなるくらい飲むなっての……」
ぽりぽりと頭を掻く銀時の襟刳りを掴んで、無理矢理に立たせる。そして、きょとんとした瞳を覗き込んで眉をひそめると、軽く突き放した。
「いて……てて……」
再びベンチに座り込んだが、落とされた拍子にどこかをぶつけたのだろう。銀時はベンチの背に腕を預けて、土方に背を向けた。
「いてぇなぁ……はは……」
「終いにはぶっ壊れちまったか。喜んでんじゃねぇよ」
「喜んでねぇよ……ったく」
ふっと鼻を鳴らす銀時が、立ち上がろうとベンチの背を押した。その身体は、土方の目の前でふらつき、突然崩れ落ちる。反射的に、その腕を掴み、土方は「おい!」と声を上げた。
「あやや……腰が……へっ」
「全身ガタガタのフラフラじゃねぇか……!」
「へへへ……いや、悪……」
片腕を土方に掴まれ、もう片方の腕をベンチに支えられ、銀時は地面に腰を下ろしたままで笑った。しょうもない酔い方をしたものだと思う。そして、普段にも増して情けない。
土方は、その腕を引き上げ、小さく舌を打つ。その音に、銀時は顔を上げた。
「……唾、飲み込んだだろ。今」
その時呟かれたのが、そんな言葉だった。
「はぁ……?」
赤い瞳が、土方をまっすぐに見つめている。酔っているはずなのに、その目は少しも揺れることなく、まっすぐに。
だから土方も、その顔から視線が逸らせなかった。
「……ん、だよ……」
銀時の洋服からは、紅潮した首筋が覗いていた。筋肉と骨筋の整った首筋が影を刻んで、そこにあること。土方は、むっと眉を寄せた。
「あ、また」
口元を歪めた銀時が、笑った。
「何が」
「また唾飲んだ」
腕を掴んでいた手を離す。にやにやと笑う顔は、土方を見上げたまま。不快以外の何物でもない。だのに、その姿から目を離せない。
「どうしたの。面白い顔してさ。そいつは、まるで、アレだ。なぁ、お前」
先の見えない銀時の言葉に、土方はいらいらとしながら声を上げた。何が言いたいのだと、低く唸るように。
すると、銀時は髪をぐしゃりと掻き上げた。覗くこめかみは、紅潮した頬に反して魚の腹のように白かった。
「生肉を目の前にした、犬みたいでさぁ」
図星を突かれたような気がした。銀時を目の前に湧いた食欲を、まるで見透かされているような気がした。
だから土方はたじろぎ、言葉を失った。白く覗く犬歯を見て、銀時がほくそ笑んでいるということを尚更に知る。
「どうよ。美味そうに見えたのかね」
「……冗談」
すくりと立ち上がった銀時が、自身の鎖骨を指先でなぞる。
気が付けば、手を伸ばしていた。土方は、つい銀時の白い首を掴んでいたのだ。銀時がことりと息を飲んだのが手の平に伝わる。
「……冗談じゃ、なかったのかい?」
くっと、指先に力を込める。相手の喉が唾を飲み下す。それもまた手の平に生々しく伝わったものだから、そこで我に返った。乱暴に引き剥がした己の手を呆然と眺める。
「冗談にしても、ね……きっと、俺の方が」
一瞬言葉を止めた銀時が、思い出したようにカラカラと笑い声を上げた。夜の隙間にその声が響く。土方は、何事かと眉をひそめる。やけに癇に障った。
「いや、何、きっとね。俺の方が、うわてだよ」
「うわ、て……だと……?」
ふらふらと立ち上がった銀時は、薄ら笑いを浮かべたまま土方を見た。
腕を伸ばして、土方の頬を、そして首を撫でる。――引けなかった。呆然とされるがままに、ただ銀時を見ていた。
土方の首を撫ぜた銀時の手が、ふらりと離れる。そして、その指先が再び銀時自身の鎖骨に触れた。
「そんなに物欲しそうにされると、喰われてもいいと思っちまうから」
は、と息を吐き出し、代わりに唾を飲み込む。
この耳に届いた言葉は夢か幻か、それとも現実だったのか。判断するために頭が回り出した時には、既に銀時は土方に背中を向けて、飄々とした足取りで歩いていた。
「だから、俺の方がうわて。さよなら土方くん、また今度。今度は明るい内に会おう」
ゆっくりと、けれど、間もなく離れていく背中を見送りながら、土方は思った。昼間でなければならない。殺意の衝動が、異なる欲望に変わったことに気付かないためには、奴と出くわすのは明るい光のある内でなければ。
「テメェになんざ、会いたかねぇんだよ……」
その色に爪を立て歯を立て刻みつけて、そうして滲んだ生の色に舌を這わせて髄を啜り、根こそぎ喰らい尽くしてやりたいのだ。
喰われても良いと言う、そんな言葉の本当の意味を知らないままに、そこにある心を知らないままに、ただ、闇の中にぼんやりと浮かぶものを暴いてやりたいと思った。
そんな偶然の夜だった。