真情クレジット-Ⅳ


四時限目
 【五年目~初春~】

ぷかりと浮いた煙を見上げる。それはつい先ほど自分で吐き出したものなのだが、そんなこと、今はどうでもいい。
銀八は、ぽりぽりとこめかみを掻いた。
(……音沙汰無しなんですけど)
多分、もう二ヶ月になる。一ヶ月目は「まぁ、忙しいんだろ」と思っていた。それがもう二ヶ月だ。流石に不安になってきた。
「おい、坂田。何、目がイッちゃってるけど」
ずいと顔を覗き込まれ、銀八はその頭をどける。
その主、全蔵は口を尖らせ、銀八の隣で立ち尽くしていた。
「うるせーなぁ……俺だってなぁ、考え事する時くらいあんだよ。死ねよピザ屋」
「今はピザ屋じゃねぇっつーの! 何、何があったの。聞いてやるよ。この親切な俺が」
「お前のは親切って言うんじゃねーの! 出歯亀って言うんだよ!」
何故かわくわくとしている全蔵に、銀八は言い捨てる。
この男に喋ろうものなら、どこでどう屈折して伝わっていくかわかったものではない。そうでなくても、人に相談できる内容ではないというのに。
そんな銀八の気持ちを余所に、月詠が言った。
「ヘタレが」
「え、何、何、本当に何があったの、お前ら」
「お前ら、じゃねぇよ! こいつは全然一ミリたりとも関係ないんですぅ!」
不機嫌そうな月詠を指差して言ってやる。すると、煙管の煙をふっと吹き掛けられた。喫煙所に紫煙が漂う。
「ぶわっ!」
「こいつは関係ない、となると……他の誰かか?」
「わっちは知らん」
「ツッキーなんか不機嫌だし、やっぱりなんかあったんじゃねーの?」
銀八は、うっと顔をしかめる。
成人した元3Zの生徒たちとの飲み会の後、京次郎の店を抜け出した土方と銀八が戻ると、生徒たちはバラバラと目を覚まし始めていた。その中で、月詠とさっちゃんだけは、何となくばつの悪い顔をしていたのを覚えている。
とは言っても、安易に妙な疑念を持たれているとは思えなかった。
「うるせぇな……」
がりがりと頭を掻く。誰にどう思われようが、そんなことはどうでもいい。
それよりも、問題は二ヶ月経っても音沙汰のない土方だ。
(諦めちゃったのかねぇ……)
また好きになってもいいかと聞かれた。可能性はゼロではないと伝えた。
けれど、所詮は高校時代の教師と教え子である。それも、男同士なのだから、土方がいつまでも銀八に固執するとも思えない。
それでも、何らかの連絡を待っている自分がいる。連絡先は知っている。しかし、間違ってもこちらは『ウェルカム』ではないのだ。そこは意地がある。
堪えてきたのだ。安易に解放しては、癪に障る。何か、理由があれば良いのに、離れていてはそれも特になく。
(そうだよ、あいつ今一人暮らししてんじゃん……)
今の土方は、地元を離れて一人暮らしをしている。奴のことだから、実家から仕送りをもらって甘んじているとは思えない。素直に「忙しいんだろうなぁ」と思ったし、邪魔をしてはいけないとも思っている。
けれど「そこまでかよ」という気持ちもある。存外、複雑な心境だった。
「まぁ、相談ならいつでも乗るぜ?」
そう言って肩を叩いていった全蔵に「うるせぇ」ともう一度ぼやくと、隣の月詠が溜息を吐いた。
「……相談ならいつでも乗るぞ」
「お前まで……?」
ぽんと肩を叩いた月詠は、やはり何かを悟っているのかもしれない。
「オイオイ……」
銀八は一人喫煙所に取り残され、盛大に溜息を吐いた。

◆ ◆ ◆

そこまで思い悩んでいるわけではない。そう思いたい。
携帯電話のアドレス帳を見ながら、思わず口を尖らせていることに気付き、そっと手の甲で拭った。
「だから、おかしくねぇか……俺から掛けるのはさぁ」
誰に向かっての言い訳なのか、銀八はスクーターに跨りながら、携帯をジャケットのポケットに突っ込んだ。
頑張るつもりがあるのはあいつの方なのだから、あいつが頑張ればいいだけの話で、それを待ちきれずに電話、あるいはメールをするのはお門違いではないか。
銀八はスクーターを走らせ、はっと溜息を吐いた。
「お」
そんな銀八が信号待ちの間に見付けたのが、近藤だった。
ついーと方向転換する。そして、すかさず声を掛けた。
「おう」
「あ、銀八!」
「先生だろうが、ゴリラ」
「や、先生こそ、ゴリラじゃねぇし!」
そんなことを言い出す近藤は、学校からの帰りだろうか。重そうな鞄を背負っていた。
「ラーメンでも食わしてやろうか」
「うわ、先生が先生っぽいこと言ってる! あ、そうだ、先生、見舞いってやっぱり果物持って行くべきなのか?」
「いや、先生だし、俺……って、何。見舞い? なんだよ、藪から棒に……」
慌てている様を見ると、緊急なのだろう。銀八はスクーターを止めて、首を傾げる。
「誰か入院したのか。野郎ならエロ本だろ」
「えー、エロ本でいいの! っつーか、先生聞いてないんですか!」
「ん? うちのクラス?」
今はもう『ウチのクラス』ではなかったか。そんなことを思い、口を閉ざす。すると、近藤が神妙な顔付きで呟いた。
「いや、トシがさ」
へっと声が上ずった。予想外の相手に、銀八は思わず銜えていた煙草を落としそうになった。
「あ、やっぱり聞いてねぇんだ。トシがちょっと前に骨折ってさ。どうやら、バイト中にトラックに当たられたらしいんだけど……幸い大学は春休みだろ? だからこっちの病院に入ってるんだ」
「ちょっと待て……トラックに当たられて、骨折っただけで済んでんのかよ……」
「医者にも奇跡だって言われたらしいぜ。まぁ、それなりに身体も鍛えてたし、そのお陰もあるんじゃねぇかな。ともあれ、命に別条はなくて良かった良かった……」
その言葉に、ひとまずは安堵の息を吐く。そして、動揺を濁すためにも「尚更エロ本だな」と言っておいた。
「いや、トシの場合いらなくね?」
「ばっか、ああいう奴に限ってむっつりなんだよ。もしくは童貞」
「いやいやー、トシに限ってそれはねぇ……特に童貞」
「あ、そうなの……?」
顔もキレーだし、当然か、などと思った時、ふと眉間に皺を寄せてしまったことに気付く。指で撫でて誤魔化した。
そんなことよりも、この時間からでは見舞いは間に合わないだろう。面会時間は限られている。近藤は自分の腕時計を見て、「あー!」と声を上げた。
「面会の時間終わっただろ。明日でいいじゃねぇか。土曜だし、学校も休みだろうし」
「でも、俺バイトが……」
近藤が、銀八を見て「そうだ!」と言った。財布から千円札を取り出し、銀八に握らせる。首を傾げると、近藤は笑顔で言った。
「俺の代わりに先生が行ってやってくれよ」
「はぁ……?」
銀八の嫌そうな態度もなんのその、近藤はどこの病院に入院しているかを事細かに伝え、さっさと手を振って帰って行った。
銀八は、握らされた千円札を見ながら、肩を落とす。
あろうことか、教え子に金をもらってしまった。情けないったらない。
「しまった……」
しかも、この一枚のお陰で、必ずお見舞いに行かなければならなくなってしまった。これは由々しき事態である。
教諭というのは、土日が空く。悲しいことに、他の予定もない。
「結局、俺から……かよ」
片付けたはずの携帯を見て、盛大に溜息を吐いた。

◆ ◆ ◆

次の日、近藤に教えてもらった病院の前で、銀八はビニール袋を片手に溜息を吐いていた。
ビニール袋の中身は、昨日言っていたエロ本と、ヨーグルトだ。
最初はプリンにしようと思ったが、土方が食べるわけないと思い、ヨーグルトに変更した。その辺りの配慮に、我ながら照れ臭くなり、銀八はむっと口を尖らせる。
カウンターで土方の病室を訪ね、土曜日の病院内をうろつく。休日は流石に人もちらほらといる。
(驚くかな)
もしかしたら、近藤が既に連絡を入れているかもしれない。それだと、あまり面白くないなと思いながら廊下を行く。
けれど、やはり自分から赴きたくない気持ちもあった。扉の前で考えてしまう。
しかし、二ヶ月放置されたとは言え、事故ならば仕方ない。そう言い聞かせて、ようやく扉を引いた。
複数部屋の割に人はなかった。一人だけ、ベッドに横になって寝ている青年の姿がある。確かに見覚えのある黒髪に、銀八はそっと近寄った。
「……ひーじかーたくーん」
小さく声を掛けてみる。目覚める様子はない。
「あちゃあ、タイミングの悪い時に来たか……」
とりあえずテーブルの上に持参したビニール袋を置いて、椅子を引き寄せた。
(……でも、寝てるなら居座る必要なくね?)
座ったばかりの椅子から立ち上がる。
ひょいと寝顔を覗き込んだ。普段目付が悪いだけに、目を閉じていると幼く見える。思わず、口角が上がった。
額にガーゼを当てている。それから、腕を吊っている。足の方はどうかとは思ったが、布団が掛かっていて、よく見えなかった。
「本当に事故ってたのか……」
一応、辺りを見回しておく。近頃の病院はハイテクらしいから、カメラなどがあっては敵わない。それらしき物は見当たらないのを確認して、銀八はふっと肩を落とした。
幼い寝顔を見下ろし、二ヶ月ぶりの土方の姿に少し嬉しくなった。
「二ヶ月も放置してくれやがって……」
ガーゼを避けて、指でつんと額を押す。
「ん……」
呻いた土方に、思わず「やべ」と呟いた。
目を薄く開いた土方が、何度か瞬きをする。見られてしまっては逃げようがない。先手必勝とばかりに、銀八はひらりと手を振る。
「やぁ!」
「……え?」
ガタンとベッドが揺れた。土方が激しく後退しようとしたのだ。けれど、身体のうまく動かない今の土方はもんどり打ち、それから涙目で銀八を見ると、声にならない声を上げていた。
「なんでいんだよ!」
「失礼じゃね? 土方くん、失礼だよね、それ」
「や、そうじゃなく、て……えっと……」
吊っていない方の手で目を擦った土方が、そろそろと銀八を見上げた。
「銀、八」
縋るような目に、思わず椅子に座り直す。そして「はい」と答えてやった。
「轢かれたんだって? 生きてて良かったな」
「あ、ああ……信号、突っ込んできて。まぁ、この通りだけど」
充電器に差し込まれたままの携帯をちらりと見る。つまり、操作はできるらしい。それなら連絡のひとつも寄越せばいいのに。
そんな風に思いながら、改めて土方の方を見た。
「別に気にしてねぇんだけどさ。こういう時くらい連絡ねぇのかな。別に気にしてねぇけど」
「うるせぇな……」
「お前、先生に向かってうるせぇとはなんだ、うるせぇとは」
「もう先生じゃねぇだろ……」
「先生ですー、いくつになっても先生は先生なんですー」
眼鏡のブリッジを押し上げ、嫌みのように言ってやる。すると、土方はそっぽを向いて、ちっと舌打ちをした。
思わず引っ叩いてやろうかとも思ったが、相手は怪我人だ。銀八は手を引っ込めて、代わりに、じとりとした瞳で見た。
「年齢も埋まらないしね」
そう言えば、土方は聞き取れる程あからさまで、尚且つ長い溜息を吐いた。
「……別に、諦めたっていいんだぜ?」
「あのなぁ……っ!」
キッと睨まれた。こういう顔をする時は真剣な時だ。それがわかっているからこそ、銀八は口を閉じる。
すると、土方は困ったように視線を泳がせ、それから言った。
「……かっこ悪ぃし、それに……卑怯だろうがよ」
「は?」
「事故ったなんて言ったら、あんた、なんだかんだ言って絶対様子見に来てくれんだろ。それは、卑怯だ」
何を言っているのかと理解できず、少し目を見開いた。
「だから、なんつーか……同情で会ってもらっても、意味ねぇだろうが……」
「……お前は」
真っ直ぐで、バカ正直だ。けれど、それは口に出さず、銀八は、ただただはたはたと瞬きをする。
「相変わらず、かっこつけしいだな。お前さんは」
「うるせぇ……惚れた相手に格好付けたがるのなんざ、当たり前のことだろうが……」
惚れた相手、という言葉に、思わず身体が固まった。ぎりぎりと顔を上げれば、土方がじっと銀八のことを見ていた。
「それ、俺のことなのね……」
「他に誰がいるんだよ!」
できればいて欲しいと思ったり、思わなかったり、少しむず痒い。
銀八はそれを誤魔化すために、がりがりと首の裏を掻く。そして、テーブルの上に放ってあったビニール袋を渡した。
「ほい、エロ本。お土産」
「いるかよ!」
突き返され、ちぇと思う。けれど、全力で嫌がる土方が見れたのは、それはそれで面白かった。
ヨーグルトを取り出し、それだけをテーブルに置く。
「じゃあ、ヨーグルト」
「は?」
「見舞い。ゴリラから」
ゴリラから、と聞いて、土方から安堵の笑顔が漏れる。そんな様子に、少しだけ胸がちりちりした。断じてヤキモチではないと首を横に振る。
そして、咳払いをして、絞り出すように小声で呟いた。
「……まぁ、かっこつけしいなのはいいけど、さ」
「あ?」
「頑張るの、やめたかと思った」
目を逸らしてしまう。そんなこと言うつもりはなかった。
咄嗟に、土方に腕を掴まれた。眼鏡がずり下がる。銀八は、ついきょとんと目を丸くする。
「……連絡しなくて、悪かった」
真剣な瞳が、すぐ近くにある。相変わらず、その眼で人を殺してしまいそうだ。
「別に」
「会いたかった」
別に、へそを曲げてなどいないし、ここまで来るのも苦痛だったわけではない。ただ、単純に何も伝えられていなかったことが不満だった。それも、そこまでではないはずだ。
「連絡なんて寄越さなくてもいい。音沙汰なんてなくても構わないし、正直のところ、諦めてくれたっていい」
銀八がそう呟くと、土方は驚いたような顔をして、それから銀八の腕を強く引いた。もう一方の腕が使えないのが悔しそうだった。
「だから諦めてなんか……!」
「そうじゃなくて、別に……生きてたんなら、いい」
どっかで生きてればいい。
そんな気持ちを、上手く伝える方法がないものか。そう思って、腕を吊っている三角巾が結ばれている土方の首に指先を当てる。どくんと脈を打っているのを感じて、ほっと息を吐いた。
土方が、口を開く。
「先生」
「あんだよ……」
「治したら、連絡するから」
「別に、いいってば……」
「待っててくれ」
真剣な瞳から目を逸らせない。掴まれている腕を振りほどけない。
それだけで答えはもう決まっているというのに、向上心の塊のような男はそれではお気に召さないらしい。言ってしまえば楽な言葉を、言わせてくれそうにはなかった。
(言っちゃいたい……)
言って、解放されたい。答えがわかっているのに、先延ばしにされている。焦れているのは自分の方ではないか。
「わぁーった……待ってる」
そう言うと、土方はようやく安心したのか、ふっと眉間の皺を緩めた。するりと離れた手を、今度は逆にそっと摘む。
「どうし……」
「でも、諦めたかと思って、ちょっと悩んだ。ちょっとな……」
そう伝えれば、土方は目を開けたまま固まった。
力を抜いたその刹那、近付けていた顔に、土方が首を伸ばす。尚更縮まった距離で、口角に何かが触れた。
「ん……?」
気付けば、土方が顔を押さえて黙り込んでいた。
「……あ、れ?」
「悪い、つい……」
先程まで、かっこ悪いだの卑怯だのと言っていなかったっけか。
銀八ははたと首を傾げ、それから、ビニール袋に入っていたエロ本を口に当てた。
「お前、こっちいらねぇって言っておいて、これはなくね……?」
本当に物好きだと思いながら、照れている土方を見下ろしていると、ヨーグルトを差し出された。
「……ついでに、コレ。俺こういうの食わねぇから……食ってけ」
「えー……折角買ったのにー」
「いいから」
銀八は椅子に座り直し、ヨーグルトを受け取ると、ぺりぺりとふたを剥がした。裏についているヨーグルトを舐め取り、それからむっと頬を膨らませる。
「ったく……好き嫌いが面倒な奴だなぁ」
付けてもらったプラスチックのスプーンで中身を掻き混ぜ、口に運ぶ。
どうせ食べるなら甘さ控えめのではなく、いちごのつぶつぶが入っているやつにすればよかった。そう思いながら、スプーンを口から離した。
「……ええ」
凝視されていた。ガン見されていた。
「何……」
「いや」
口元を押さえた土方が、少し俯いて、それから溜息を吐く。
「なんだよー……」
スプーンを銜えて、ちっと舌を鳴らす。
それから、ふと思い付いてヨーグルトを掬い直した。それを土方に突き出し「一口くらい食え」と言えば、土方がむっと表情を歪める。
「なんで……」
「いーから。ゴリラからだぞ」
その言葉に、土方が口を開く。口の角に、ぺちゃとヨーグルトをくっつけてやった。
「は」
「ふーん、成程……」
にぃと笑ってやる。土方が、目を泳がせた。慌ててティッシュで顔を拭った土方が顔を赤らめるのを見て、焦っているのだと思うととても笑えた。
「まぁ、仕方ないねぇ」
持ち上げたエロ本をテーブルに置いて、銀八はヨーグルトの中身を平らげる。考えてみれば、間接チューをしてしまったのだが、どうやら今の土方はそんなことにも気付いていないようだった。
(おいおい、俺の方が乙女思考じゃん)
掻き込んだヨーグルトの容器をゴミ箱に投げ入れて、銀八はぺろりと自分の唇を舐めた。
「それじゃ、またな」
椅子から立ち上がり、ひらりと手を振る。
テーブルに残されたエロ本を指差し、土方が「これ!」と慌てているのを見て、銀八はふっと笑った。
「今度返しに来てねー」
「はぁ?」
銀八は、病室を出て、ぷくくと笑う。
まったくもって、若いというのは見ていて面白い。けれど、そんな土方に惑わされている自分も、まったくもって青いなと思った。
「……やれやれ、いつ返しに来てくれるやら」
さっさと治せよ。
そんな気持ちを込めて、閉めたばかりの病室の扉を小突くのだった。


【六年目~夏~】

治ったら連絡する。その言葉を信じてはいたが、夏が訪れても音沙汰のおの字もなかった。
「あー涼しいー……」
手で扇ぎながら顔を上げると、そこには理事長、お登勢の姿があった。銀八は、ソファから頭を持ち上げる。
「銀八……あんた今日出勤だったかい?」
「ババアこそ」
そう言って、またすぐ頭の位置を元に戻す。職員室はクーラーが利いていて気持ちが良い。銀時の自宅は、と言えば、節電のためにクーラーなど入れないのだ。灼熱地獄だ。
季節は巡り、高校はとっくに夏休みに入っていた。
(暇があると、モダモダしちまっていけねぇ……)
そんな風に思いながら、手元の携帯を見る。
「暇なら余所へお行き」
「うるせぇ、俺は暇じゃねぇんだよ……」
ぷかーと煙草の煙を吐き出した。気を紛らわせるために、煙草の本数も少し増えた気がする。この金がないのにも関わらずだ。
「パチンコ以外の趣味でも作ったらどうだい……」
「お菓子作り。夏は休業中」
「じゃあいつやるってんだか……」
「そーだなー……冬になったらなー……」
冬になれば、クリスマスにバレンタイン、お菓子会社の喜ぶイベントが目白押しだ。それに便乗するのも悪くはない。
「チョコレート使ってさぁ……」
夏を超えて、秋になったら、白衣のポケットにチョコレートを入れることができる。
伏せていた目を開ける。そこで思い出す。
「……何年だっけ、今」
「ああ? なんだって?」
銀八が座っていた職員室のソファに寄り掛かり、自分も煙草を吸っていたお登勢が振り返る。
「俺、いくつだったっけなぁ。ババア」
「あたしが知るわけないだろ。三十路とかじゃないのかい」
「……あれが、六年前か」
チョコレートを借金手形に土方に渡したのは、彼が高校に入学した年だったはずだ。
「……どーしよう。俺、五つも歳取ったんだなぁ……」
これから六つ目の歳を取らなければならない。担任を持ったのはその内三年分、二年の間は何故かクラスを持たなかった。
「来年は担任持つかな。なぁ、ババア」
「なんだい、珍しく仕事の話かい? あんたがそんなこと言い出すなんて珍しいじゃないか。どうした? 寂しくなったのかい?」
そんな風に尋ねてくるお登勢に、首を振って見せる。
「いいや、別に。そういや、超問題児クラス持って以来、フリーだからよう。いつこのフリーダムな時間が終わるかと思って」
「まぁ、大変だったろうからねー、あの一年は」
そう言って煙草の煙を吐いたお登勢に、銀八は笑ってやる。
「大変だったぞ。すっげー大変だった。ていうか、今も大変」
携帯をひらひらと振って見せると、お登勢が口角を上げる。
「いいじゃないか、大抵の生徒なんか先公のことなんざ忘れてくもんさ。あんた、恵まれてんだよ」
「……俺も、そう思うわ」
一瞬バイブした携帯を開き、銀八は「へっ」と声を上げて笑った。
「今日から夏休みだと」
「大学生かい?」
「おう」
新八からのメールに、適当に返事をしてやる。少し遅れて、沖田からのメールが飛び込んで来た。恐らく、相変わらずここの二人はつるんでいるのだろう。
神楽と新八とは昔のよしみで会うことはあっても、他のメンツはほとんど顔を見る機会がない。
「……きっと、忘れてくんだよな……」
「どうしたんだい、らしくないねぇ……」
「ま、たまにはな」
独身貴族のままで大台に乗ってしまったな、そんな風に自分の年齢を振り返る。相手は大学生で、恐らく勉強に奮闘していて、もしかしたら、遊びにも奮闘しているかもしれない。
(夏休み、入ったかな)
そんな風に思ってしまった。目を閉じる。
(ああ、ダメだ)
また、考えている。
一度目、土方が在学していた時は、簡単に振り切れた。二度目、歩道橋で突き放した時は、それなりの覚悟があったから振り切れた。そのはずだった。
あの時から、斬り捨てにくくなっている。何がって、感情をだ。
顔を手で覆って、口を真一文字に結ぶ。暗くなった視界で、少し頭が熱を持った。
「おい、ババア。クーラー弱くなってね? まさか温度上げた?」
「上げるわけねーだろ。このクソ暑いのに……って、何言ってんだい、あんた」
「かったりーな……俺、ちょっと寝るわ。起こさないでね」
そう言って、ソファで姿勢を変えた銀八の額に、お登勢が手の平を当てる。
「あんだよー……」
「……銀八、あんた家帰って寝な。この分だと熱が上がるよ」
「ねつ?」
驚いたように顔を上げる。見下ろしているお登勢が、やれやれと肩をすくめた。
「まぁ、あんたは昔から夏に風邪ひいて冬に風邪ひいての人間だからね……仕方ないっちゃ仕方ないけど、それにしても、そんな歳になってもかい?」
「う、うるせぇな……! ていうか、熱なんか出てねぇし! 家帰っても暑いだけだし! むしろ熱上がるわ!」
「あーあー、わかったよ。もう黙って寝てな。あたしが帰る頃に起こしてやるから」
そう言って理事長室に引っ込んでしまったお登勢を見送り、銀八は首を傾げた。
「うっそ、このだるいの、熱……?」
言われてみれば、頭がくわんくわんと回っているような気がする。テーブルに置いていた購買のイチゴ牛乳を飲んだ。
「味覚も、ちょっとアレかも……」
ことんと飲み下し、暫くソファの背もたれに顎を乗せてダレていた。気のせいか、寒気がしてきた。
「ババア! 帰れなくなったらどうしよー!」
「タクシーくらい呼んでやるよ。給料から天引きするけどな!」
「うえー……」
無慈悲な言葉に、再びソファに伏せる。
(本当に動けなくなったら、どうしよう)
そんなことを思いながら、目を閉じる。最悪原チャリを置いて、本当にタクシーを呼ぶしかないのだろうか。そうしたら、次の出勤日が面倒だ。
そんなことを考えていた時だった。携帯が鳴った。
「うー……新八かなぁ……新ちゃーん、迎えにきてぇー」
携帯を開くのと同時に目を開ける。ぼんやりする視界で開かれたメールには、妙な長文が載っていた。
「あんだ……勧誘? スパム……?」
眼鏡を外して、目を擦る。そして、固まった。
「……ひっ!」
起き上がろうとした拍子に足をテーブルにぶつける。
「いってええええええ!」
叫んで涙目になりながらも、メールの内容を確認する。長いわりに、用件はそれほど重要なものではなかった。
実は骨折が完治していたということと、大学のテストが終わったこと。つまりは夏休みに突入したということ。それだけだった。
銀八は、口を尖らせる。
「それで?」
ばたんとソファに倒れ込んだ。
「それでなんなんだよー! 夏休み入った? だからどうすんだっつーの!」
そんな駄々を聞きつけて、お登勢が部屋から出て来る。
「さっきっからやかましいね、あんたは! 熱が上がるから、せめておとなしくしてやがれ!」
「うっせーババア! 大事なことなんだから黙ってろ!」
「黙ってろはこっちの台詞だ、ボケェ! あんまりやかましくしてると強制送還すんぞコノヤロー!」
強制送還と言う言葉に、銀八がぐっと口を結ぶ。起き上がったままソファに頭を乗せてダレていると、手に握っていた携帯をひょいと取られた。
「ったく、さっきから何を騒いでるんだか……新八からのメールの続きかい?」
「あっ! ちょっ、ババア!」
腕を伸ばして取り返そうとしたが一歩及ばず。お登勢は携帯の画面を目で追うと、暫くしてから銀八に携帯を返した。
「あんだよ……」
「別に」
「言いたいことがあるなら言えよう……」
だらりと寄り掛かったままぶすくれる銀八に、お登勢はふっと溜息を吐く。そして、項垂れている銀髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
「熱、上がってきたんじゃないのかい? とっとと帰りな」
「だから、部屋に帰ってもあっちいんだって……」
「一日くらいエアコン付けたって変わりやしないよ」
ぶうとむくれる銀八に背中を向けて、お登勢は理事長室に戻って行く。ここまで言われたら、帰らないわけにはいかない。
「……どう返せばいいんだよ」
せめて、返事の打ちやすいメールにして欲しい。そう思って、返された携帯の画面を眺める。
「バレたし……いっか……」
ちらりと理事長室の扉を見て、気付けば電話帳の電話番号を遡っていた。
上がっている体温のせいか、妙にテンションが高く、戸惑いさえ覚えなかった。電話を鳴らし、耳に押し当てる。
暫く鳴った後、お決まりの「現在、電話に出ることが……」というアナウンスが聞こえ始めた。せめて文句のひとつでも込めてやろうとそのアナウンスを聞いていた時、それが途中で切れた。
「も、しもし……!」
慌てたような土方の声に、銀八はべっと舌を出す。
「悪い。今、電車乗ってて……降りた」
「……そこまでしなくていいのに。何、学校?」
「や、そうじゃなくて」
電話の向こうで、まもなく電車が来ることを伝えるアナウンスが流れている。
「……忙しいなら、切るけど」
「いい。続けろ」
「……お前さ、もうちょっと返事しやすいメールにしろよな。完結されたら、何て返していいか考えちゃうだろうが」
「あ、悪い……ていうか、連絡しなかったことを怒られるかと思った」
「なーんで俺がそんなことで怒らなきゃならねぇんだよ。俺は、お前のただの元担任の先生だっつーの……別に、どーでもいいんだよ。そんなの」
項垂れながら、身体をずらす。ソファに倒れ込んた。
電話の向こうで、土方も溜息を吐いた。重くて深いそれに、銀八は笑う。
「怒って欲しかった?」
「……別に」
「そういう可愛くないこと言うなよ」
「オメーがな」
上手い具合に噛み付いてくるなぁと思いながら天井を見上げていると、電車がガタガタと走り去って行ったのが聞こえた。
「……まぁ、それだけだから。切るぞ」
空気を読んで、早いところ解放してやろう。そう思ってのことだったが、思いの外、食い下がられた。
「ちょっ、待った!」
「ああ?」
「それだけのために電話してきたのかよ!」
「そうだよ?」
何の気なしに返事をする。そして、目の前で揺れる銀髪を指で遊んだ。
「……そういう気持ちだよ。わかるか?」
意地の悪いことをしているという自覚は十二分にあった。
けれど、頑張ると言ったじゃないか。せめて誘導してやるんだから、本当に頑張る気があるのなら頑張って欲しいものだ。
でないと、ならない。
(六年だよ、土方くん)
これ以上長くなったら、長くなったその分だけ、自分は切れなくなってしまうだろう。
酷い言い方をすれば、構ってやれる時間はもうあまり残されていないのだ。焦っている。それはもう、無意識の内に。
へらへらとした表情が解けてしまっている。そんな状態を引っ叩き、銀八は口角を上げた。
「……先生、俺さ」
「うん」
「今日そっちかえ……」
そこで、音が途切れた。
「は……?」
驚いて目を開けようとするのだが、それが上手くいかない。手から力が抜けて、床に携帯が落ちた。
「あっれ……」
手を伸ばすのだが、上手く拾えず、銀八はずるりとソファから落ちてしまった。どすん、と鈍い音がする。
「っつー……」
見上げた天井は、くるくると回っている。
「あー……」
やばい。そう思った時には、既に遅かった。
「何やってんだい、銀八!」
驚いたお登勢が理事長室から顔を覗かせ、そして、銀八に駆け寄ってくる。向こうから何かの声を上げている携帯電話に気付いて、それを拾うと、何やら話し始めてしまったが、もう銀八の耳では捉えきれなかった。
(あー……やばい、瞼が、身体が……重)
ぱたんと蓋を閉められたように、意識が飛んだ。

◆ ◆ ◆

揺られている感覚。目を開けようとする。開けている、はずだ。周囲は暗くて、目を開けているのだと気付くのに時間が掛かった。
ぐっと額を拭われた。
「いって……」
瞬きを繰り返す。暗がりの中にそれより黒い髪色を見て、思わずその頭に手を伸ばす。
「……ひじかた」
「よお」
慌てて身体を起こそうとする。足をシートにぶつけて「いっ!」と唸った。
どうやらここは車内のようだった。ぶんぶんと首を振り、周囲を見渡す銀八の肩を、土方が叩く。
「安静にしてろよ。先生、職員室で落ちたらしいからな」
「落ち……?」
「気絶したってさ。理事長が」
段々と昼間のことを思い出した。窓の外を見れば、いつの間にか日が落ちていて、自分はどれだけの間寝ていたのだろうと思う。
「て、いうか……なんでお前がここにいるんだよ!」
慌てて振り返れば、がっと頭を掴まれた。
「うえ!」
「いいから寝てろよ」
元通り膝枕状態にされる。
正面に見上げた土方は窓の外を見ていて、なんだかいたたまれなかった。
「だ、ちょっ……! だから、なんでいるんだって……」
「言ったろ。今日、実家帰る予定だったんだって」
「え……」
「その途中で電話来て、で、突然気絶しちまったって言うじゃねぇか。理事長が迎えに来いって言うもんだから、電車乗り直して……で、この時間」
「タク代は……」
「くれた」
ひらひらと五千円札を振る土方に、銀八はほっと安堵した。
「安堵したじゃねぇ!」
違った。慌てて尋ねる。
「ば、ババア変なこと聞かなかっただろうな!」
「別に。ただ、ぶっ倒れるのは珍しいことじゃないから、連れて帰ってくれって。運ぶのは運転手さんが手伝ってくれた」
情けないところを見られてしまった。目を泳がせていると、土方のジャケットのポケットに掛かっている眼鏡を見付けて、そっと手を伸ばす。
「ああ、これ伊達だったんだな」
「まぁ、ね」
そう言って、掛けるだけ掛けた。少し曇っているが、今はこのくらいが丁度良いと思った。真正面から見上げるには、相手はあまりにも男前過ぎる。
「……なんじゃそりゃあ」
「ああ?」
「いや、こっちの話……」
目元を拭って、目を閉じようとした。けれど、そのまま眠る気にはならなかった。
「つーか……実家帰るって、なんか、あれだよな。遅れちまうよな。こんな所にいたら」
「別に、いい」
呟いて、それから少し顔を近付けた土方が、ぼそりと「久し振りに会えたから、いい」と言った。
「……お前な」
いたたまれなくて、やはり身体を起こす。窓の外は、見慣れたアパートの近辺だった。
「ああ、運転手さん、ここで大丈夫っす」
タクシーを止めてもらい、開いたドアから出ようとした。途中で、運転手に言う。
「申し訳ないけど、こいつ送ってってください。代金は持たせてるんで」
「や、俺も降ります」
「ハイ、じゃ、よろし……ハァ?」
ばっと振り返る。肩を押された。
土方が、勝手に運転手と会計のやりとりをしている間、銀八は駆け出そうとした。しかし、土方の手がそんな銀八の手首をがっちりホールドしていたので、逃亡は失敗に終わった。
タクシーを見送って自分の荷物を背負った土方が、相変わらず銀八の手首をホールドしている。
「……んーと、土方くん。どこまで付いてくるのかね」
「そりゃあ、あんたんちだろ」
「……先生んち行っても、何も出せませんよ?」
「お構いなく」
躊躇の無い背中に、銀八は目を擦る。
「あ、そこ左曲がった所。すぐ」
つい口を出していた。もうここまで来たら、帰れと言う方が酷である。
アパートの二階に上り、ポケットから鍵を取り出すと、ドアを開けて中に入った。
「先生」
「あー? だから何も出せねぇって」
「俺帰るから、お大事にな」
「……あー!」
慌ててドアを押し開けた。
「帰んの!」
「ああ」
「なんで!」
「なんでって……」
荷物を背負い直した土方が、「帰るからだろ」と呟いたのを聞いて、銀八は思わず顔をしかめた。
「いやいやいや、待て待て、俺……まぁ、そうだよな。帰るよな、普通」
好きな奴の家まで送り届けて、そのままUターン、するだろうか。いや、しない。そんな反語が頭の中で響いた。
しかし、すんなり誘い入れるなんてのは、自分のプライドが許さない。
(あー……また熱が出る……)
頭が沸騰している。この調子では、今度は知恵熱でも出てきそうなものだ。銀八は眉間に指を当てて、溜息を吐いた。
「流石の俺でも、お茶くらい……出すぞ。不本意ながら迷惑掛けたし……」
「無理すんなよ。具合悪いんだろ。今日はもう寝ろ」
「いや、そうなんだけど……そうなんだけどな」
ぐしゃりと髪を掻き上げる。
実は、勘違いをしているのではないだろうか。そんな風に錯覚してしまうほど親切な申し出に、銀八は思わず玄関の床を見た。
「お前、俺に、借り返してないし!」
「……はぁぁぁぁ?」
土方の声が響く。当然だ。脈絡がないのはわかっている。銀八は思わず、土方の口を手で覆って「声がでかい!」と怒鳴った。
「……借りって」
「あの、見舞いの」
「だってアレ近藤さんに頼まれたんだろ……」
「エロ本買ってってやったろーが!」
「いらねーっつったろーが!」
怒鳴り返され、思わず耳を塞ぐ。むっと口を尖らせれば、困ったような土方がドアの外をちらりと見て、それから深い溜息を吐いた。
「わぁーったよ……エロ本でも何でも、返せばいいんだろうが」
「だぁーもう! お前は何もわかってねぇ!」
「だから、何が言いたいんだ、お前は!」
がりがりと頭を掻いた銀八が、きゅっと土方の人差し指を握る。軽く引いた。
「……ちょっと待ってろ。俺も、今、上手く言葉見つかんねぇんだよ……」
「国語の先生なのにか」
土方が、少し銀八に近付いた。支えになっていたものがなくなり、ドアが勝手に閉まる。
その音を皮切りに、銀八が腕を伸ばした。きつく抱き締めると、土方がバランスを崩したが、壁に腕を突いて事なきを得る。
「お、おい」
「ああああ、くっそ……! 腹、立つ……!」
「傷付くんですけど……」
「腹立つもんは腹立つんだよ!」
銀八の顔もまともに見れないまま、悪態だけ吐かれている。そんな状況に、土方はやれやれとばかりに銀八の背中を撫でた。
「先生って、どうでも良い時は口回るくせに、切羽詰まると身体が先に動くタイプだよな……」
「うるせぇ」
ぴしゃりと銀八が言い返した。
土方のシャツからは汗の匂いと、煙草の匂いがした。自分も人のことは言えないが、随分と煙草を吸っているのだなと思う。
「六年だぞ、六年……! その内、何年かは気付かなかったけど……六五年もあったらなぁ、忘れるんだよ。言いたいことなんか!」
「はぁ?」
「なんだよ、お前……なんでそんな落ち付いてんだ……マジ、腹立つ……っ!」
どんと突き出し、そして、言葉を形作ろうとするのに、口は上手く動かない。銀八は、そっと眼鏡のブリッジを上げた。
「もういいよ! 暫くこっちにいるんだろ。また今度でいいよ! また熱上がってきた気がするし!」
背中を向けると、土方がぼそりと尋ねてきた。
「今度って、いつだ?」
「いつか! とりあえず今じゃないいつ……」
背後から引き寄せられ、抱き締められた。
銀八のシャツの首元に、ちくりとした痛みが走る。ざぁっと体温が下がった。次に鳥肌が立った。そして最後に体温が上がった。
慌てて振り払い、首を押さえる。目の前の土方が、拳でぐいと口元を拭った。
「お、おま……っ! なんつーことしてんだよ……!」
「落ち着いてるわけ……ねぇだろうが!」
怒鳴られ、思わず動揺する。
「あんたが何でもないことみたいに扱うから、俺もガキっぽく見えねぇようにいろいろ堪えて……余裕ねぇ時に連絡したってテンパるだけだから、ずっとメールひとつ打てなくて、でもあんたは何とも思わないと思ってた。だから連絡もくれねぇんだって……」
「お、俺だってなぁ! 俺にだって、意地があんだよ……お前が、頑張るなんて言うから……」
「迷惑ならそう言えばいいだろ!」
「ちげぇよ!」
はぁ、と息を吐く。身体が熱い。ただでさえ暑い部屋なのに、どくどくと心臓が脈を打って、尚更暑い。ぐしゃりと前髪を掻き上げた。額に汗をかいているのを感じて、指先でそれを拭う。
「お前が頑張るって言ったからには、呆気なく俺が折れたって、お前……相手にしない、だろ……」
「は?」
「俺は……とっくに……」
ふらん、と身体が揺れた。意識をすっ飛ばしそうになった所で、土方が抱き止める。
「お、おい!」
「ま……窓、開け……」
「お、おう! 窓な! 窓!」
床に銀八を座らせると、土方はそのままどたどたと部屋の中の窓という窓を開け放った。
夜の少し涼やかな風が、銀八の元に吹き込む。ふぅと息を吐いて、それから歩み寄ってきた土方を見上げた。
「窓、開けた」
「さんきゅ……」
「飲み物とか、涼めそうなもん買ってくる」
「……ん」
壁に寄り掛かって頷いた銀八をちらりと振り返り、土方は言った。
「あと、俺もちょっと、落ち付いてくる……」
そう言って閉められたドアに、笑って声を掛ける。
「いいんだよー、オメー慌ててる方が、俺が楽しんだからー」
ドアの向こうで「うるせぇよ!」と叫ばれた気がした。銀八は声を上げて笑った。やっぱり、そちらの方が面白い。
「……熱中症も出てんなこれ……」
普段なら、身体は丈夫な方だ。しかし、どうにも風邪の類には弱い。気絶するなんて、昔なら毎年のことだった。その度、小さかった神楽と新八が慌てて看病してくれたことを思い出す。
「へへへ……」
ずるずると床を這っていって、敷きっぱなしの布団の上に横になる。手近な所に放り投げてあった団扇で顔を仰ぎながら、そっと網戸の向こうの空を見た。
「……戻ってきたら、帰れよって言ってやんねーと……」
実家に戻って、家族と過ごさせてやらなければ。
「……おれ、先生だもん……な」
そのまま、瞼が重くなって閉じていくのをぼんやりと見送った。

額にひやりとした感覚を覚えて目を開けたのは、それから数十分後のことだった。
「……ひえ……?」
「おう」
額に貼ってある解熱シートを確認し、銀八は布団に仰向けになる。
「とりあえず飲め」
「起きるのだるい……」
「死ぬぞ」
そう言われ、差し出されたスポーツドリンクを口に運ぶ。渇ききっていた口内が、瞬時に水分を吸収していく。
「……あー、生き返る……」
「寝てたな。起こしちまったけど……」
「いいよ、どうせ起きるつもりだったし」
そう言って、首元の汗をシャツで拭った。
「冷凍庫にアイス入ってる」
「うっそ、マジで!」
「マジで」
「……まぁ、とりあえず生き返ったわ。もう大丈夫だから、実家帰ってやれよ。親御さん心配すんだろ」
そう言って笑った銀八の眼鏡を、土方の手が抜き取る。それから、さも不満そうに口を尖らせた。
「もうそんな歳じゃねぇよ……」
「歳なんか関係ねぇよ。俺には、お前を帰らせる義務があんの」
「先生だから?」
「そ。言ったろ? 先生はいくつになっても先生なんだっ……」
ちゅっ、と可愛らしいキスで言葉を遮られた。不服そうな目の前の土方に、銀八ははたと瞬きをする。
「先生が俺を好きになってくんねーのも、先生だから?」
「……殴ってもいい?」
「あ」
土方の下腹部に、銀八の拳が飛んだ。
「ぐふっ」
「俺、これでも高校時代は鳴らしたんだよねぇ」
しゅっしゅとストレートを入れている銀八を見上げ、土方は床に伏せ込んだまま溜息を吐いた。
その溜息を聞き付け、銀八はべっと舌を出す。
「お前、ぶち壊してやるって言ったくせに、何弱気なこと言い出してんだ。そういう作戦か? 押してダメなら引いてみろってか? やだねー、俺そういう打算的なのが一番嫌いだねー」
くしゃくしゃと髪を撫でてやると、土方はゆっくり顔を上げた。
「そういう所も、悪くはないんじゃねぇの? ギャップ萌えって言うの? 俺は嫌いだけど。ま、お前、基本ヘタレだもんな」
「うるせ……」
「ついでに、鈍感過ぎる。問題外だ。例え俺が無敵のポーカーフェイスだとしても、お前は鈍過ぎる。最低だよ。女なら、平手が飛んでるところだろうよ」
「げんこつ飛んできたんだけど……しかも腹に……」
ぼやく土方の唇に「しっ」と指を立てる。そして、潰れてしまった煙草をパンツのポケットから引っ張り出した。
そこから一本銜えて火を点ける。ゆっくりと煙を吐いた。
「まぁ聞け。しかし、俺は女でもなく、ましてギャップに萌える性癖もない。ついでにお前の先生ですが」
煙草を銜え直し、口角を上げる。眼鏡は取られたままだったから、やけにクリアな視界に少し目を細めた。
「俺は、君が好きですよ、と」
唇から煙草を引き抜き、呆けている土方の唇に差す。そして、にっこりと笑ってやった。
「変な顔」
どんなアイスを買ってきてくれたのかを確認しに行こうと立ち上がった時だった。ぐいとその腕を引かれ、すぐに戻されてしまった。
腰をぎゅうと抱き締められる。そんな相手の頭をわしわしと撫でて、銀八は「けっ」と声を上げた。灰皿に放り込まれた煙草が、ゆるゆると煙を上げている。
「こんなの、もうしたじゃん。キスもした。口で言わなきゃダメなんてなぁ、面倒くせぇんだよ」
「……あんたが」
「ああ?」
「あんたは先生だから、同情だとか」
「……そういう風に思ったって? もう一発殴っていい? 俺の尻はそんなに軽くねぇぞコラ」
アイスの確認に行くのを諦めて、すとんと腰を下ろす。真正面から見据えた瞳は、少し不安気だった。
「これでもわかんねぇってんなら、してみる?」
「なに……」
「セックス」
間抜けに口を開けた土方が、銀八の顔を見たまま固まった。そんな土方が動き出すのを待っていたが、沈黙に堪え切れず、銀八がその頭をばちんと叩く。
「フリーズすんな」
意識を取り戻した土方が口に手を当て、ぼそぼそと何かを言っている。
「……や、嫌とかじゃねぇし、むしろ興味あんだけど……ああ、でも男同士は下がマジで大変だって言うし、先生そんな目に合わせるわけには……仕事もあるだろうし」
「あのー……その口振りだと俺が下なんですか。そうなんですかね。オイ、犯すぞ」
銀八がそう言えば、土方は訝しげな顔をして自分の身体を指差すと、銀八に尋ねた。
「犯したいのか」
「いやー……正直のところ、あんまり……」
ぽりぽりと頭を掻く。そもそもノンケなのだから当然のことで、わりと思いきった言葉だったのだけど……そんなことを考えながら口を尖らせる。
するりと首を抱き寄せ、「んー」と考えてみた。
「抱きたいとは思えねぇけど、いじり倒したいとは思うよ」
「え……」
「あ、性的な意味でなくて」
頭を離して言ってやると、聊か混乱しているような土方が、じとりと銀八を睨んだ。
「そうそう、そういう眼とか、たまに見たくなる」
笑って、自分のシャツの襟刳りを広げる。どの辺りに痕を付けられたのかと思い覗いてみたが、自分の目からでは確認できない位置だったようだ。
「参ったな……夏場はTシャツ出勤が良かったのに……お前、どこに付けやがった」
「ここ」
するっと指先で撫でられた。辿っていくと鎖骨に辿りつく、左側の肩のそんな辺りだ。下手をすると見える。銀八は思わず口を尖らせた。
「まぁ、いっか……」
そして、肩口まで襟刳りを引っ張り、そしてニィと笑った。
「もう一個」
「は……?」
「もう一個付けて」
「……いいのか?」
「いいよ、見えねぇもん」
タンクトップでも着ない限り、の話だが。
これ以上暑くならないことを祈りつつ、おずおずと顔を近付けて来る土方に肩を突き出した。
ちゅ、と音を立てて肌に吸い付かれる。首筋よりはどうしたって皮膚の厚い場所。そして、骨の近い場所。吸い付くだけでは飽き足らず、ガリッと噛まれた。
「ん……っ」
思わず、その頭を叩く。
「いてぇよ、バカ」
顔を上げた土方が唇を親指で拭う。罪悪感に少し淀んだ表情に、ぞくりとした。
「やっぱり、いじり倒したい方が勝るなー……」
「先生、S……?」
「まぁ、どっちかと言えば」
そう言って、付けられたばかりの鬱血痕を撫でる。
「これ、約束手形ね」
「何の」
「今のところは、お前のもん」
そう言って、伸ばしていた襟刳りを戻す。
「今のところは、って……」
「飽きるまでは付けとけばいい」
飽きるまでは。
ずっと続くものじゃない。特に、まだ二十やそこらの土方を捕まえて未来永劫誓う気もない。変化するのは、当たり前のことだ。そんな風に心の中で唱えて、銀八は頭の後ろで腕を組み、布団に倒れ込んだ。額に貼ってあるシートを、ぺたぺたと撫でる。
そんな銀八に、土方が覆い被さる。眉間に皺を刻んで、いかにも不服そうな顔で銀八を睨んでいる。
「……そういう顔も、いいよな」
怒っている。すごく怒っている。思わず、入学式に追突した時のことを思い出して、すこし笑った。
「茶化すな!」
「茶化してないよ。真剣だ」
真剣でも、変わらない気持ちなんてないのだ。
近付けば近付く程、どこかで終わりを感じ始める。捕まえてはいけない。捕まえてしまっては、手放すのが恐くなる。けれど、いつかは放さなければならない。卒業と同じだ。だから、捕まえない。
「歳取るとさ、自分が傷付かない方法を最優先に考えちまうもんなんだよ」
「なんで先生が傷付くんだよ」
「……さぁ、なんでだろうな。俺にも、わかんねぇや」
嘘を吐いた。予見しているから予防線を張っているのに、それを土方に伝えるのはあまりにも酷な気がした。意地を張って、ありもしない『絶対』を口にするとも限らない。
そんなものを信じろと言われることも、また辛い。
土方が、はーっと息を吐いた。剣呑な空気を隠そうともしない溜息に、首を傾げた。
「ここまで来たのに、まだ遠いな」
「ああ?」
「まぁ、いいや。ありえないって言われた終わりから始まってんだ。ここまで来ただけでも奇跡だろ。いいよ、今だけでも」
身体をどけた土方が、持っていたカバンを引っ張り上げる。
「……帰るの?」
「帰りたくないって言ったら、泊めてくれますか」
振り返った土方に、銀八はきょとんとした。
「なんだ、やっぱする?」
「……何」
「セッ」
「お前の頭の中は中二の男子か!」
布団の上で胡座をかいて頬杖を突く銀八が、愉快そうに口角を上げた。
「野郎なんて、一生中二だよ」
「……否定はしねぇけど」
ぶすくれたまま言う土方が、荷物を引き摺りながら布団の所まで戻ってきて、そして、ずいと顔を近付けた。
「エロいことも興味あるけど、ただ一緒にいたいだけだよ。今のところはな」
大きく首を傾げる。それから、近すぎる顔を片手で捕まえ、額を合わせる。解熱シートが少し邪魔だと思った。
「素直でよろしい。布団一枚しかねぇけど、それでもよければどーぞ」
そう言って立ち上がった。今度こそ冷凍庫の中身を確認した。イチゴ味のラクトアイスに、にんまりと笑う。
「ああ、あと、風邪感染されても文句言うなよ。今更だけ……」
ずかずかと歩み寄ってきた土方が、銀八の頭をぐっと掴んだ。唇を唇で塞ぎ、名残惜しそうに放される。銀八は、ただはたはたと瞬きをした。
「むしろ、感染せよ。欲しい」
「へっ……」
忘れていた発熱のほてりが瞬時に頭の端まで回り、すっかり体温が上昇してしまった。まるで、ぼっと音と立てたようだった。
「変態か、お前は!」
結局、別々にシャワーを浴びて、本当に何もしないまま布団に二人で横になった。一人用の敷き布団だ。狭いのだから近いのは当然として、銀八は治まりの悪い体温に団扇を扇ぐ。こんな日くらい、電気代をケチらずにクーラーを付ければ良いのだが、貧乏癖の自分はそうそう承諾しなかった。
帰省の途中だと言うのに男一人運ばされた土方はお疲れらしく、すっかり寝入っている。そんな寝顔を見ながら、銀八はこめかみを掻いた。
「終わりから始まってる……か」
本当にそうだったのは、自分の方かもしれない。振り切ったところから始まって、上手い言葉を思い付くことすらできない。
「こんなで、ごめんな」
信じてやりたい気持ちは山々で、けれど上手く信じられないのは、多分目の前の奴よりずっと年上で、いろんなものを見てきて、それから少し卑屈だからなんだろう。
そんな風に思って掛けた言葉と、頬を撫でた手に、妙に罪悪感を感じた。
「有難う」

◆ ◆ ◆

目を覚ました。隣にいたはずの土方がいなくなっているのを見て、身体を起こす。
「ひじかた? 帰った……?」
かと思いきや、荷物は放置されているから、帰ったわけではないようだった。
ばたん、とトイレのドアが開いた。携帯を片手に溜息を吐いている土方に、銀八は首を傾げる。
「あ、先生起きたな」
「んー……お前、朝早いな……何、電話?」
「親。帰って来てねぇからって」
そんな言葉に、ぷっと吹き出す。
「笑うなよ……悪い。一回帰るわ」
「おう、帰れ帰れ。俺だって一応帰れって言ったしね。聞かなかったの、お前だからね」
「っるせぇ……」
すっかり顔も洗い終わっているのだろう、さっぱりした土方とは対照的に、銀八はだらしない顔を下げて膝を抱き寄せ、座り込んで笑っていた。
「へっへっへ」
「あんだよ……熱はいいのかよ」
着替えながら問い掛けてくる土方に、銀八は煙草を拾い上げ、そして口に銜えると火を点けた。煙が、窓の外に向かってふよふよと流れていく。それを追いながら、頷いた。
「ん、すっかり」
「そうか」
黙々と荷物の整理をしている土方を見ていると、準備を終えた彼が顔を上げ、それからつかつかと銀八の所に歩み寄った。
「どした……」
「一応、俺も言っとかないといけない気がして」
「は?」
無表情の土方が、銀八の寝間着の襟刳りをぐいと広げて、残っている鬱血痕に歯を立てる。
「ばっ……! 噛むなっつーのに!」
すっと顔を上げて言った。
「俺、銀八のこと好きだ」
暫しの沈黙の後、堪らなくなって口から煙草を離す。思わず、ぎゅうと抱き締めた。
「ちょ、あぶねぇ、煙草!」
「うーん、腹立つ……」
「何がだよ!」
そう言った土方が銀八の手から煙草を取り上げて、自分の口に銜えると、「やっぱ吸ってる気がしねぇ」と呟いた。
自分の背中を撫でてくる土方に、銀八は声を上げる。
「んー?」
「……吸い始めた頃、吸ってみたんだよ。先生の煙草……合わなくて、すぐやめたけど」
「……あんだよ、お前……」
ぺしりと後頭部を叩いた。
「真似すんなよー」
「う、うるせぇ……! 真似したわけじゃねぇ……!」
しっかり真似しているじゃないかと思い、ニヤニヤ笑ってやれば、名残惜しそうにその身体を剥がされた。銀八の煙草を銜えたまま荷物を持ち上げた土方が振り返る。
「また、来てもいいか」
「んー、連絡寄越せ」
ぼんやりしたまま、そんな土方を見送ろうと腰を上げる。
玄関のドアを開けた土方が「アイス食えよ」と言った。
「言われなくても食うわ」
「だろーな……」
いつまでも立ち去ろうという気配のない土方に、銀八はひらと手を上げようとした。その時だった。
「……あの、でもな、そんなあんたが良いから」
「あ?」
「有難う」
「あっ、ちょ、待て!」
そそくさと早足でアパートの階段を下りて行った土方を引き止めようとした手が宙を舞う。
銀八は、その手でぼんやりと頭を掻いた。
「……聞かれてた」
昨日の、懺悔の一端のような言葉を、聞かれていた。そうとしか思えない。
「聞かれちゃったかぁ……」
照れ臭くて、頭に血が上る。起きがけにはあまりにもでかいダメージだった。
ごめんなとありがとうの意味はすっかり変わって、今はこんなに満たされる。
変わらないものなんてないから、いつまで続くかわからないけれど、恐らく無いよりはあった方がいい。
「……今度はいつかね」
今ではもう毎日は会えないけれど、あの時よりずっと近くに感じて、次はいつ会えるだろうと少しもどかしくて。
「まぁ、いいか」
けれど約束手形は肩口に残っている。これが消えるまでには、恐らく会えるだろう。会えなかったら、今度はこちらから連絡してやるのも悪くはない。
銀八は煙草のない唇に手を当てて、煙を吐き出すように吐息を吐いた。
「……面白いったらねぇ」
ほのかに、笑みが零れた。