三時限目
【五年目~冬~】
ずっと、振り切ってやりたい生徒がいた。気持ちに気付いても、絶対に振り返らないで、尚且つあっさりと切り捨ててやらなきゃならない奴がいた。
懐かしい教室で懐かしい席に座る教え子を見た時だったろうか。本気でタイムスリップをしたのかと思い込む程、その世界に落ち込んでいた自分を引き上げる。
それだけで心が折れそうだったのに。
「生徒のバカの大豊作が終わったと思ったら、今度は先公かよ……」
休日出勤をしていた銀八は、テストの採点に赤ペンを走らせながら、ぼんやりと呟いた。
「これだから私立は……」
「あっはっは、わしゃあ、おんしが未だにわしの隣で嬉しいぜよぉ」
「おい辰馬! こっちにテスト用紙寄越すのやめてくんない? 数学渡されても、俺採点できないからね」
「おんしこそ」
「いや、お前こそ! 散らかるのは頭だけにしとけ毛玉!」
「おんし程じゃないきに」
「お前にだけは言われたくねー!」
「あっはっはっは」
そんなやりとりをしながら採点をしていると、ゴッと頭を叩かれた。
「やかましいぞ、お前ら」
「スイマセン……」
二人の背後に立っていたのは、月詠だった。彼女が赴任してから、教師組のバカレベルが余計に上がった気がする。
「あ、メールだ」
そんな対象から逃れるために、銀八は携帯を開く。
「あー、銀時! 携帯は使用禁止ぜよぉ!」
「うるせぇ、テメェは採点頑張ってろ」
「わー、応援ありがとう、銀時くぅーん」
バカ笑いを続けながら採点を続ける坂本に背中を向け、銀八は携帯を眺める。
「おや、珍しい」
そこに表示されていたのは、いつぞや連絡先を交換した沖田だった。
内容は、成人式でさァという簡単なお知らせだった。
「……成人かぁ」
もうそんな時期かと思い、カレンダーを見る。三学期開始時に小テストを行ったのは覚えていても、学校の外の感覚と内の感覚は少しずれていた。
「おお、沖田総一郎くん?」
「そうそう、そういちろ……総悟くんな。奴らの代、成人式だってよ」
添付されていた画像を開く。すると、そこには3Zの面々が写っていた。
「ほー! 伝説のバカの葬列!」
「違う! 勝手に殺すな。バカの豊作だ! お前もバカだけど」
そう言ってぴっと携帯を向けた銀八に、坂本が笑って誤魔化す。
そんな二人を見て、月詠がきょとんと目を丸くした。
「バカの豊作?」
「そうそう、そういう代があったんだよ」
「3年Z組っていうものすごいクラスがのう。そこの担任が、銀八だったんじゃ。なつかしいのー」
「まだ二年しか経ってねぇけどな」
そう呟いた銀八が写メを熱心に見ているのを眺めて、坂本が笑った。
「結局、何事もなく卒業していってしもうたのう」
「え……あ、そ、そう、な……」
そう言えば、卒業式前にそんな話をしていたのを思い出した。
(何事も、なかったわけじゃねぇけど)
何事もなかったのだと記憶していた方が都合が良いのか。
銀八は写メの中の黒髪を見て、はぁっと溜息を吐いた。まだ真っ黒な頭のままだった。
「おんしゃあ、あの頃が一番楽しそうだったぜよ」
そんな風に呟いた坂本を振り返り、銀八ははたと瞬きをする。脱力してしまった肩を少し怒らせ、言った。
「そ、そんなことねぇよ」
「銀時はツンデレじゃからのー」
「だっ、誰がツンデレだ! それに、なんであんなバカ共、無事卒業してくれて清々するわ!」
「登校拒否の高杉も、なんだかんだ卒業できたしの」
「あー、あいつはな……本当にな、良かったと思うわ。本当、あいつと長谷川さんだけはね……」
感慨深さに襲われて二人でたそがれていると、背後の月詠が「ふーん」と声を上げた。
「興味、あるな」
「ん?」
「銀八が楽しんでいた代、か……わっちも、興味がある」
そう言って笑った。
「で、メールの要件はそれだけじゃったんか?」
尋ねてくる坂本に促されるまま、銀八は続きを読む。
「いや、なんか飲み会やるらしい……どうせ先生暇ならどーぞ。店取っといてくだせェよ(はぁと)……って、なんだこりゃあ……」
「有無を言わさず、来いやコラァって言ってるのう。流石、銀魂高校歴代一のドエスと名高い総一郎くんじゃあ……」
「総悟くんな……まぁ、どっちでもいいけど」
そう言って、銀八は机から立ち上がり、廊下に向かって出て行く。
「仕方ねぇ……元・生徒のリクエストに応えるとしますか」
そう言って笑った銀八に、坂本は頷いて「良かったのう!」と叫んだ。
◆ ◆ ◆
「……オイ」
「なんじゃ」
「なーんでテメェがいるんだ」
元3Zの伝説的アホ共が、成人式を迎えるついでに飲み会をするということで、銀八も呼ばれた。そんな昼の出来事から数時間後。
今日は月曜、明日は火曜。つまり、翌日は出勤なのだが、それにも関わらず、銀八の隣には何故か月詠がいる。
「だから、興味があると言ったじゃろう。それならば行ってみるのが良いと坂本に言われたんじゃ」
そんな風に応えた月詠に、銀八はちっと舌を打った。
「わっちがいたら、困ることでもあるのか?」
「んなことは……ねぇけどさ」
しかし、一方的に酔われるのは困る。酔っ払った月詠は、手がつけられない。身分的にも銀八が介抱することになると思うと、どうしたって連れて行きたくなかった。
(……会えるかな)
そんな思考の端で、ぼんやりと思った。
(会う資格、ないんだけど)
煙草がまずい。そんな風に思って、ポケットの中に入れておいたペロキャンに変える。煙を吐き出す要領で、そっと溜息を吐いた。
卒業の時と同じく、京次郎の店に滑り込み貸し切り許可を頂き、そこに奴らを呼び付けることにした。
「銀ちゃーん!」
「せんせーえ!」
そこに、振袖を着たままの二人が飛び込んでくる。聞き覚えのある声に、銀八は少し道を避けた。
飛び込んできた猿飛あやめことさっちゃんはコンクリートの地面にめり込んだが、幸いにも銀八に突撃できた神楽は、銀八をふっ飛ばしながらもその身体に抱き付いた。
「見て見てぇー! ババアが用意してくれたアルー! きゃわいいでしょー!」
振袖にきゃっきゃしている神楽の頭を撫でて、銀八は笑った。その二人以外は、皆着替えてしまっているところを見ると、神楽は純粋に銀八に振袖姿を見せたかったのだろう。
「旦那ァ、お久しぶりでさァ。こいつったら、馬子にも衣装ってやつで」
「誰がうまこに死化粧アルか!」
「うまこって誰だ神楽。喜べ、実は褒められてんぞ。あと、沖田くん、俺先生ね。旦那じゃなくて」
「ああ、そうでしたかねィ」
そんな風に呟いて神楽の頭をぽんぽんと叩く沖田に、銀八は口からペロキャンを出して笑った。
「乱暴なお招き、ありがとよ」
「まぁ、俺が旦那に会いたかったもんで」
「せんっせぇ! ひっどーい! このままゴールインしちゃおうと思ったのにぃ!」
コンクリートから身体を起こしたさっちゃんが、がばっと銀八に抱きつこうとした。それを、月詠が横から帯を引っ張って止める。
「ぐぇ!」
「……おい、ほぼ初対面だろ……どうしたんだお前……」
さっちゃんを制するために驚異的なスピードを発揮した月詠に、銀八が思わず尋ねる。
「いや……なんか、つい反射的に」
「だぁぁぁ! なんなのよ、このアマァ!」
本人も訳がわかっていないらしい月詠に怒鳴り散らしながら、さっちゃんが銀八に近付こうと奮闘している間に、3Zの面々は店の前に到着していた。
久し振りのざわざわとした光景に銀八が目を細めると、歩み寄ってきた新八が、変わらぬ眼鏡の向こうでにっこり笑う。
「銀さん、お久しぶりです」
「お前も、背伸びた?」
「ええ、体力も付いたんですよ!」
「でも眼鏡は眼鏡だな」
そう言って笑いながら頭を撫でてくる銀八に照れくさそうにしながらも、新八は、さっさと店の中に入っていく。
「そんなことより! ほら、道で騒いでたら迷惑でしょ!」
それもそうだと思いながら、銀八は新八の後に続く。その後にぞろぞろと元・生徒たちが続いた。
「まーた急に貸し切りだなんてな。やってくれるわな……」
「おー、俺も急に声掛けられてさ。悪かったな、京次郎」
そんな挨拶を交わし、適当に椅子に座る。流石に二度目ともなれば、一同の反応も慣れたものである。
「今回は、ええんじゃろ?」
酒瓶を銀八の顔面に突き出した京次郎がニヤリと笑った。
「……まーな」
正直、気乗りはしないが、自分も酒が嫌いなわけではない。
「わーい、酒だーあ」
ぱちぱちと無表情で手を叩く隣の沖田を振り返り、銀八は「こいつは既に飲んでそう」なんて思ったとか、思わなかったとか。
「……そういえば、黒いのが見えねぇけど」
そんな風に、沖田に尋ねる。
「黒いの? ああ、土方コレステロール値上がって死ねコノヤローの奴ですかィ」
「そんなに長い名前だったっけ? うん、まぁ、でもそんな感じの」
そう頷くと、沖田が近藤をちらりと見て尋ねた。
「近藤さーん、土方コノヤローはどうしたんですっけー」
「んー? 確か、実家寄って挨拶してから着替えて……って時間掛かるかもって言ってたな。あそこの家、ちゃんとしてるからなー」
「……だそうで」
わざとらしく頭を下げていう沖田に、銀八は「ふーん」と頷いた。
「まぁ、何人か見当たらないけどさ、ほら。酒が飲めるって聞いて、とっくの昔に成人してる俺もやってきたわけよ」
そう言って銀八の隣に割り込み、ちゃっかり座ってビールを飲んでいる長谷川を振り返り、銀八は溜息を吐いた。
「長谷川さん、仕事見つかった?」
「先生、世間は風当たりが厳しい」
「ダヨネー……」
そんな愚痴も混ぜながら、長谷川がさっさと月詠に酒を勧めているものだから、銀八はそそくさと立ち上がろうとした。
「悪い。遅れた」
そこに息を弾ませ現れた土方に、神楽が突進する。
「おおおトッシー! 遅かったアルなぁ!」
「お前……そんな大層な格好しながらタックルはねぇだろ……」
そんな神楽を懸命に受け止めながら、当然のように近藤の隣に座った土方が、懐から煙草を取り出す。そんな自然な仕草に、銀八はついぽかんとした。
「あー、土方さんも煙草吸ってる。ニコチンで死ねばいいのにー」
声を上げた沖田が、ぽかんとしている銀八の顔を覗き見て、呟いた。
「そういえば、旦那は禁煙でもしたんですかィ? 見たところ、そりゃあ本物のレロレロキャンディじゃねぇですかィ」
酒を飲むのにペロキャン常備は流石に不釣り合いかと思い、銀八は口の中で飴を噛み砕き、そして棒を京次郎に渡した。
「きったねー……」
「捨てといて」
そして、振り返り、沖田に言う。
「たまには煙草吸いたくない時もあるんだよ……」
「先生にも先生の事情があるんですねィ」
訳知り顔で言う沖田に奥歯をぎりぎりと鳴らしていると、土方はぺこんと頭を下げた。どうやら、近藤の隣から動く気はないらしい。
「礼儀のない奴だなぁ」
「それ、旦那が言いますかねィ」
そう言った沖田が、ようやく自分も近藤の近くに行くと、早速来たばかりの土方に喧嘩を売り始めた。あそこは何年経っても変わらないものだ。
やれやれと笑いながら、銀八が振り返る。
「おいコラ、銀八ぃ!」
「げっ!」
そこで気付いた。
「わっちを連れてきておきながら、紹介もないのか! 職員室のアイドル月詠様だぞぉ?」
月詠が、酔っている。いつの間に……と思いながら、掴まれている襟刳りを振りほどこうとするのだが、その怪力から逃れることはできず、隣の長谷川に助けを求めた。
「ちょっ! 長谷川さん、余計なことを……! こいつ飲むと手に負えねぇんだよ! 手伝え、手伝えや、くそぉ!」
「あっはっはっは! 月詠先生は、何、絡み酒なわけ!」
「あ、月詠先生も飲んで……って、飲みすぎじゃないっすか……? 大丈夫ですか、この人このピッチで……」
新八がそんな言葉を掛けてくる。
「大丈夫じゃねぇよ! ていうか、俺に聞かないで、ぱっつぁん! 俺ぁ、面倒なんか見ねぇぞ!」
「いや、でも連れて来た銀さんの責任じゃ……」
「勝手に付いてきたんだよ! 銀さんのせいじゃありませんー!」
そう言い返しながらも、久し振りに必死に口を回している気がして楽しくなる。
けれど、その中でわずかな余裕を持って微笑んでいる土方と目が合って、何故だか無償に泣きたくなった。
歩道橋の上で泣きそうな顔をしながら銀八に告白してきた土方の言葉が、頭の中に残っている。
(忘れられないのは、俺ばかりなんだろうか)
今更だ。
(なんてな……)
すると座敷で飲んでいた近藤が立ち上がり、銀八の肩に手を置いた。
「なになに? 二人デキてるとか?」
「な、ななななんじゃ! 下世話なゴリラめ!」
「あ、先生照れてる! え、マジで?」
完全に絡み酒に突入している近藤が、ギャーギャー騒ぎ立てる。
すると、その話題が耳に入ってきたのか、さっちゃんが背後から近藤を蹴り飛ばし、銀八の背中に貼り付いた。
「何よ、なによなによ! 先生ったら、久し振りに会ったのに、そんな伏線張って! そんなプレイなわけ? そんなプレイなんでしょ?」
「お前は退場じゃ」
突然キリッとした月詠が、さっちゃんの首根っこを掴み立ち上がる。部屋の角にぺっと払った。
「ちょっと、ちょっとー! さっきっからあたしの扱いだけ酷くない? 何なのこの女ー!」
「やかましいぞ、お前らー」
楽しいふりなど隠して、淡々とあしらっていく銀八を見て、京次郎が笑う。
「結局どうなんじゃ、その辺り。わしも聞きたいのう」
「テメェまで悪ノリすんじゃねぇよ……」
銀八が顔をしかめると、京次郎がにやりと笑う。嫌な笑みだと思った瞬間に、目の前にもずくを出された。
「まぁ、男子たるもの、な。ほら、ぐっといけ。ぐっと」
「て、め、ぇ……!」
カウンターに身を乗り出す。そして京次郎の襟刳りを掴み上げながら、隣に戻ってきた月詠に話を振った。
「お、お前もなんとか言えよ!」
「……う、うるさい! わかっとるわ……!」
酔っ払った時はとにかく大暴れする月詠が、赤面して俯いてしまった。
銀八は何となく居心地が悪くなり、周りでにやにやしている生徒たちを見て、とりあえず「余計なことに首突っ込むなコノヤロー!」と叫んだのだった。
嗅ぎまわる生徒が騒ぐ中で、部屋の隅で煙草を吸っている土方を見る。
「あ……」
けれど、土方は何も言わない。ただ、真剣な表情をして、それから笑った。笑われたと思った瞬間、よく回るはずの口が動きを忘れた。
「いいじゃねぇか。先生だって、うかうかしてたらジジイになっちまうんだから、頃合い見て身を固めろって」
そんなことを言いながら、土方が煙草に火を点けた。
「なんだよトシ、余裕ある言い方すんじゃん! なに、もしかして、トシも彼女できたの? ついに?」
「っるせぇなぁ……」
「えーマジかよー!」
「別にそんなんじゃねぇって……」
ざわつきを取り戻した空間。動揺を、思い出したように吐いた溜息で誤魔化した。
いつの間にか近くにいた神楽が、そっと銀八のシャツの袖を引く。そして心配そうな顔で呟いた。
「銀ちゃん」
「ん……どした?」
銀八は、神楽の髪をそっと撫でた。不安そうな表情が晴れることはなかったけれど、それでもシャツの袖を掴む手は離れていった。
「どうも、しないヨ」
自業自得だ。つらいなんて思わないふりをするのは簡単だ。
(自業自得だ。別に何も感じちゃいない)
輪の中でいじられている土方を見て、銀八は首を振った。そうだ、これが正しいんだと思い込むために。
そんな銀八の首を、がっと月詠が掴む。
「え……っ!」
「しけった面しよってぇぇぇ! 飲め、飲め銀八ぃ!」
「いや、そもそも、テメェのせいっ!」
ちらりと盗み見た時、土方は生徒だった時と同じように複雑な表情で銀八を睨んでいた。
(……幻かな)
一瞬のその表情に少しだけ喜んでしまった自分に、嘲笑がした。
◆ ◆ ◆
「んが」
起き上がった。気付けば座敷に寝かされていた。
変な夢を見ていた気がする。
銀八は目元を拭って、それから欠伸した。ぼさぼさの頭を掻いて、辺りを見回す。
「きょうじろ……?」
店の主である京次郎の姿は、既にカウンターにはなかった。店の中は電灯が消されて暗くなっている。目を凝らせば、座敷には、銀八と同じように雑魚寝状態になっている輩がたくさんいた。
「ん……俺、寝落ちた……」
「先生」
どくっと心臓が音を立てた。慌てて、声のする方を振り返る。
そこには、皆が雑魚寝をしている中で身体を起こし、座り込んでいる土方がいた。
「おいおい……お泊まり会じゃねぇんだぞ……」
「一応、京次郎さんが始発の頃に声掛けてくれるってよ」
「あいつも、お人好しだねぇ……」
立ち上がった。暗がりで笑う土方を見て、妙な夢の正体を思い出す。銀八は、気を紛らわすためにポケットから煙草の箱を取り出し、唇に銜えた。
「ちょっと、外で吸ってくるわ」
店の外は、しんと冷えていた。深呼吸をすれば、煙が入り込んで少し噎せた。すると、その背中をとんと撫でられた。
「へっ……」
「大丈夫か」
銀八についてきた土方も煙草を銜えていることに、何故だか今更どきりとした。
外は、まだ暗く、そして寒い。当然だ、真冬なんだから。
「先生、やっぱり煙草やめたんすか」
「え……? あ、いや、やめてねぇけど……ていうか、お前の方は吸い始めちゃったわけね……」
「おう」
何でもないことのように言う土方に、銀八はつい笑う。
「値段また上がるぜ? 貧乏学生が、大丈夫かよ」
「煙草の分くらいなんとかするわ」
だから、迂闊なことを聞くことができた。
「お前、彼女できたって? 良かったじゃんか。いや、良かったよ、本当。俺の二の舞踏まなくてよ……」
「ああ、良かったよ」
眼鏡が曇った。違った。目が霞んだ。銀八は煙を吐くふりをして、そっとそっぽを向いた。
「だろ? だから、言ったじゃん。大学生の内に遊んど……」
「今日、あんたに会えて良かった」
慌てて振り返った。けれど、土方はもうこちらを向いてなどいなくて、黒いシャツを着た背中に、銀八は理不尽にも舌を打つ。
「お前、俺の言ったことわかってんのかよ」
「別に、普通だろ。教師に会えて良かったって思うのは、ここにいる誰もが思うことじゃねぇのか? ここにいる奴ら、皆、あんたのこと好きなんだからよ」
言葉を失った。喉奥が痛む。俯いた銀八を、土方が肩口に振り返って、少し笑っていた。
鎌をかけられた。咄嗟にそんな予感がして、慌てて平静を装った。何でもない無表情は得意分野だった。
そんな銀八に、土方が口を開く。
「……あの歩道橋」
「は?」
「あの歩道橋行こうぜ」
あの歩道橋とは、一年前に銀八が誘った歩道橋だろう。それ以外に、特定の歩道橋を思い付かなかった。
「今……?」
「今」
「このクソ寒いのに……」
「そうだな、このクソ寒いのに」
やけに真っ直ぐな声だった。有無を言わさないその言葉に、銀八はただ俯いて「スクーターで来てねぇぞ」と溢した。
「どっちにせよ、酒飲んでたら乗れねぇだろ。歩く」
そう言って歩き出した土方の背中を見る。何の迷いも無い。眩暈がした。
「バカだなぁ。上着くらい着ろよ」
上着を取りに戻り、ひっそりと二人で店を出た。
歩いている間、他愛のない話をした。揺らめく煙を目で追いながら、今の生徒のことだとか、元3Zの奴らが今どんなことをしているかだとか、そんなことを話した。けれど、お互いのことは何も問い掛けなかったし、話題になることもなかった。
三十分くらい歩いた頃だろうか。二人は、再びあの歩道橋を見上げていた。
「行こうぜ」
そう言って階段を上り始めた土方の後を追おうとした時、上げた足を同じ場所に降ろした。眩暈がした。視界が歪んだ。空の色は、あの時と同じ色をしていた。それが、記憶を鮮明にしていく。
(あの時の土方も、こんな気持ちだったんだろうか)
歩道橋の隅に氷が張っている。コートは着てきたものの、身体の芯が寒さに震えた。
「ったく……寒い中、なんでこんな所……」
「俺が聞いたら、あんた、そういうのやめろよって言ったよな」
道路を見下ろす土方が、白い息を吐いた。銀八は、その横顔に息を飲む。
「あれ、結局何のためだったんだ」
そう問い掛けてきた土方から目を逸らして、背中を向けた。
「勿論、お前に説教するため」
「ふーん」
問い掛けておきながら興味のなさそうな土方の声に、銀八は少し口を尖らせる。
逃げ出したい。走り出したい。ここからいなくなってしまいたい。そんな思いは走るのに、実際に逃げ出すことはできなかった。
土方の意図が知りたい。それだけが、この場所に縛り付ける。
「お前は、何のためにここに来たの」
そう尋ねると、土方は長い息を吐いて、それから言った。
「思い出すため、だな」
「……それは」
振り返らないままで言う。
「好きでしたの気持ちをかい」
「いいや、違う」
ほっと安堵した。そんな胸を撫でて、新しい煙草を取り出そうと箱を指先で支えた時だった。土方は言った。
「あんたからお説教喰らった時の気持ちを」
思わず振り返る。箱が、からんと歩道橋の道の上に落ちた。土方がそれを拾い、そして、銀八に差し出しながら続ける。
「忘れらんねぇから消そうとした。でも消えなかった。だから、あの時の気持ちを思い出したら、また決意できるかもしれないって思った」
その箱を受け取れないまま、首を傾げる。
「あんたを好きだったことを、忘れることを」
土方の真っ直ぐな視線から逃れたくて目を逸らそうとするのに、それが叶わない。
(嗚呼、お前もこんな気持ちだったんだろうか)
何も言えなかった。こいつは、負けると決まった勝負の言葉を、しっかりと言えたというのに。
「なぁ、先生。もう一回、ばっさり斬ってくんねぇか」
突き出された煙草の箱をようやく受け取り、銀八はきつく目を閉じた。
(俺が終わらせようとしたように、今度は、こいつが終わらせようとしている。それも、こんな所に引き摺り出してまで)
自分は、うろたえている。
銀八は、コートのポケットに箱をねじ込み、内側の布をきつく握った。爪でも立てなければ、怒鳴り付けてしまうところだった。
「そんなの……巻き込んでんじゃねぇよ。テメェでなんとかしろ……」
そんな銀八に、土方は冷静な声色で言う。
「あの時と同じでいい。わかったふりしてるだけだ。現実はもっと辛い。しゃんとしていろ。それだけでいいんだ。それをもう一度、あんたの口から聞きたい」
ふっと錯誤する。目の前の土方は成長をしている。けれど、自分は何も変わらない。
(俺は、どんな酷いことをお前に言っただろう)
そんな錯誤を覚えて、瞬きをした。
「早く、好きな奴作れよ」
校舎の中で、いない姿を探すのをやめようとした。
「時間は、刻一刻と過ぎてく。ありえない奴を眺めてる間に、世の中はみんな変わっていくんだよ」
あいつだって、いつか俺のこともただの過去の一部にしていく。気持ちなんて、いくらだって塗り変えられていく。
脈があると感じたあの日から、ずっとそう言い聞かせてきた。
「やっぱり、今もありえないのか」
土方の声に、ぐらりと視界が揺らいだ。銀八は俯き、自分の足元に向かって呟いた。
「ありえないんだよ、土方」
所詮は、教え子の一人でしかないことが、どれだけ不毛なことか。それを思い知って、諦めたふりをして、誤魔化してた現実はもっと辛かっただなんて、言えなかった。今だからこそ尚更だ。
成長していない自分と、これからもまだ成長していく土方と、この同じ高さの歩道橋の上でさえ差を感じさせる。
胸が震えた。それを誤魔化すために、一字一句同じ言葉を浴びせてやろうと顔を上げた時だった。
土方が笑っていた。はっとする。言葉を失った。
「俺、甘え過ぎてたな。悪かった」
「あ……?」
「わかったつもりになってた。こんな気持ち突き付けられて、先生がどんな思いするか、何もわかってなかったのに、俺は勝手にわかったつもりになって、あんたに甘えてた」
そう言って携帯灰皿に煙草をねじ込んだ土方が、目を細めたまま階段を顎でしゃくる。
「ごめん。ありがとうな、先生」
その言葉に、愕然とした。
(ありがとう、ごめんよ)
成程、立派な終わりの言葉だ。
離れていく背中を見て、思わず顔を空に向けた。
(……ああ、やばい)
目をきつく閉じた。湿り気を感じた。雨が降るのかもしれない。そんな風に思って、空気の匂いを嗅ごうとした。それが、ぐすと鳴った。
(しゃんと、してろよ)
あれは、誰に向けた言葉だったんだろう。
「先生?」
呼ばれた。反射的に笑う。
なんて我儘で卑怯な奴だろうと自嘲さえした。
「今、行くよ」
階段の下り口から、登り口にいる土方を見下ろした。お互い、こんな姿ももう見納めなんだろう。
朝日が昇っている。逆光になっているであろう銀八の顔を見上げて、土方がはっと口を開いた気がした。
(今度は、何を言ってくれるんだろう)
そんなことを思いながら、銀八は踏み出した足を着地させた……その予定だった。
「そこ凍ってんだよ!」
「なん……っ! のうわぁ!」
そういうことは、もうちょっと早く言えよ! そう思いながら、手摺を掴む。けれど一足遅かった。
銀八はつるんと滑って、尻餅を突いた。一、二段落ちて、ようやく止まった時に気付いた。
「あてててて……」
迂闊にも、頭を手摺にぶつけてしまったらしい。くわんと揺れる頭を押さえながら、銀八は唸る。
「うー……いてぇし、ねみーし……」
起き上がろうとしたすぐ目の前に、土方の顔があった。
「おい、大丈夫か、銀八!」
はた、と土方の動きが止まる。そして、その手が銀八の顔を拭った。
「涙出るほど痛かったか……」
拭われた頬に、土方の体温がわずかに残る。呼吸が詰まった。
(痛かった。すごく、痛かった)
気付けば、目の前の体躯に手を伸ばし、背中に腕を回していた。肩に頭を押し付けて、言葉をなくした。
「え……」
痛い。今も、辛い。多分、ずっと。
「お、い……せんせ……?」
高校の教師なんて、所詮生徒がどうなろうが知ったこっちゃない。その中でも、特に銀八は淡白な方だ。だから、いくらでも遊んでやることができた。だけど、何故土方はダメか。そんな理由、当の昔に知ってた。
「土方はダメだっつったろ……しゃんとしろよ……」
「先生、こんなんじゃ……しゃんとできねぇよ」
そう言って背中を丸めた土方が、銀八の身体に腕を回した。抱き込まれたことに安堵して、そんな安堵を覚えている卑怯な自分に嫌気が差して、きつく唇を噛んだ。
「先生は、卑怯だな」
耳元に聞こえた声に、眉をしかめる。黙り込むのだって、卑怯の一環。けれど、銀八は口を開くことなんてできなかった。
「先生、俺は、どうしたらいいんだ」
問うてくる土方に、何を言えばいいのだろうと思った。だからダメなんだと突き放すには、あんまりの状況だった。
(俺だって、どうしたらいいんだか)
ぼんやりと考えていると、土方に手を離された。
呆れられただろうか。そんなことを思いながら、その顔を見上げる。取られた手を、そっと握られた。
「俺は、もう一度、先生を忘れることに決めた。だから」
そんな土方の手が、かすかに震えた。そっと目を落とす。
「だから、もう一度あんたを好きになっていいか」
「え……?」
銀八が顔を上げる。メガネの弦をそっと撫でられた。気付けば引き抜かれていた。それに気付いた時だった。唇に、そっと何かが触れた。
「……好きだ、銀八」
真っ直ぐな視線。真っ直ぐな言葉は、『先生』ではなく銀八に向けられている。
「今も、俺はあんたが好きだ」
それに気付いて、唐突に頬が熱くなった。
「な、何が……何が銀八だ! 先生だろうが!」
「先生じゃダメなんだろ。じゃあ仕方ねぇじゃねぇか」
「そういう問題じゃねぇ! おま、俺、男だし、お前より一回り近く年上だし、年上を敬えっつー……」
「銀八さんって呼んだら付き合ってくれんのかよ」
「わぁぁぁぁぁ!」
真剣な表情を押し返して後ずさろうとする。けれど、階段に座り込んでいたのだから、できるわけがなかった。それを良いことに、土方が、ずいと近付いてくる。
「銀八」
「ちょ、結局呼び捨てかよ!」
「……ありえないか?」
どくんと心臓が跳ねた。擦れた声が真摯に問うてくる。
(斬られた……)
直観的に、そう思った。
「あ……りえなく、ない、かも……」
視線を逸らしながら言う銀八を見下ろして、土方ががっくりと項垂れた。予想外の動きに、思わず銀八は叫ぶ。
「なぁっ! なんでだよ!」
肩口に額を当てられる。その場できゅっと頭を振られた。煙草の匂いがした。
「良かった……」
「な、何が良かったんだ! 何も良くねぇだろ!」
「いいや、良かった」
「まだ誰もオーケーなんて言ってな……!」
「堪えてみろよ。ぶち壊してやる」
耳元で凄まれた言葉に、首元の毛が逆立つような感覚を覚え、銀八は思わず、口を閉ざす。
「ぶち壊して、いつか絶対、俺のこと好きだって言わせてやる」
眉をくっと寄せ、それでも不敵に笑う土方に、つい今すぐにでも言ってしまいそうになった。ただ間抜けに開いた口から言うにはあまりにも不格好すぎて、言えやしなかった。
(俺は、お前よりももっと先に)
「今度は絶対忘れねぇ」
(……忘れたふりをしていただけで)
立ち上がって拳を握った土方の背中を見ながら、静かに笑った。
時間の問題だ。そんなことを思いつつ、急ぎ足で階段を下りて、歩道橋を見上げるのだった。