真情クレジット-Ⅱ


昼休み
【三年~秋~】

校庭に広げられている音響機材を見下ろしてみる。
その真ん中には、いつもあちらこちらに向かって跳ねている髪を、尚一層ぐしゃぐしゃに掻き上げた銀八が立っていた。肩から提げたのは、遠目では見えにくいが、きっとエレキギターだろう。あんな風にしていると、格好がついてしまうから不思議なものである。アンプの上には、普段着ている白衣が放置してあった。
銀魂高校、学園祭の季節である。
高杉はというと、高校生の制服姿には似合わないと踏んで、いつも愛用している煙管ではなく、細身の煙草を口に銜えて、教室の窓からその様子を見下ろしていた。
「ロックだねェ……」
そんな背中に、声を掛けてくる人間がいた。
「大概暇そうだな、テメェも……」
「どっちが」
 風紀委員の土方だった。
停戦協定中の二人が窓際に並ぶ。高杉と同じように黒い髪を短く切り揃えた土方が、窓枠に身を乗り出して校庭の様子を窺う。その腕には『風紀委員』という腕章が付いていた。
「こちとら、委員会活動ってやつだからな……」
「そいつは御苦労なこった」
淡々とした会話の中、二人は一度も目を合わせようとはしなかった。ただ、まっすぐに見ているのは、神楽と新八に何やら指示を飛ばす銀八の姿だった。
本番前までは、鍵盤ハーモニカーを抱えていた神楽も、キーボードの前に座って何やら間の抜けた音を出している。新八の方は、丁度ベースのストラップを肩に掛けたところだった。
そういえばドラムがいない。そう思って土方が視線を走らせると、ドラムセット一式を運び出しているエリザベスの姿が見えた。
「……なるほど」
なぁ、とお互いに首を捻る。
「ヅラだったらぶっ殺してるところだったぜ」
「なんで……」
「なんとなく」
それまでちょろちょろとしていた銀八が、チューニングを始めた。かすかな音が校舎の方まで聞こえてきて、土方は髪を少しだけ掻き上げた。
「ギターってのは、よォ」
すると、突然隣の高杉が口を開く。座っていた椅子を校庭の方に向けて、窓枠に肘を突く。だらりと体重を掛けて外を見ていた。
「音に性格だとか、そいつの持つ雰囲気が、そのまま出るんだよ」
土方は「は?」と短く尋ねる。
「変な話、性格の悪い奴の音なんて聴けたもんじゃねェ。ギスギスした音が鳴っちまって、スピーカーなんか通した日にゃあ、耳鳴りが酷くてたまらねェよ」
高杉は、口だけでニヤと笑うと、人差し指でトントンとリズムを叩きだした。校庭の方は、チューニングが終わったのか、リハーサル曲が始まる。歌声は乗っていなかった。
「そりゃあ、素人だろうからな。まずは演奏の方に意識が入ってるだろうけどよ……あいつは、どんな音出すんだろうなァ……」
くっくと笑う高杉に、相変わらず悪趣味な笑い方をする奴だと思った。そして、相変わらず、いけ好かないとも。
「興味ねぇ……」
「嘘吐きだな」
「何」
 高杉が振り返る。
「聴きに行けばいいだろうに。身体に直に響くんだぜ? 生音ってのはたまらないねェ。それに……」
テメェの心は、まっすぐあいつの音を聴こうとしてると言うのに。
音を欲しがっている人間というのは、その意識が身体から見て取れるものだ。身体の受容器全てで受けとめようとするかのような真剣な眼差しは戦慄すら覚える。
けれども、それは言わなかった。無自覚か、それとも、必死に隠そうとしているのか。それならそれで、本気で隠し通せばいいものを。
(久し振りに戻ってきた甲斐があるってもんだ)
高杉は、ふっと笑って、そして椅子を立つ。ゆうるりとした足取りで、適当に履いた上履きを引きずりながら教室を出て行こうとした。
その背中を、土方が呼び止める。
「それに……何だ」
「さぁなァ……俺ァ、ただ直接聴きに行ってやろうってなだけさ」
高杉の背後で、土方が舌を打ったのが聞こえた。
あの負けず嫌いのことだ、追ってくるに違いない。
そう踏んで、高杉は悠々と階段を降りていく。耳に届く音は鼓膜に優しい。このまま屋上で高見の見物をするのも悪くはないかと思った。

◆ ◆ ◆

「銀さん、大丈夫ですか……その、ギターボーカル……」
首のネクタイを緩める。シャツの裾をスラックスから引っ張り出して皺を伸ばすと、指の汗をそのままシャツで拭った。数日の練習で左手の指先の皮が若干厚くなっている。
ギターは、弾けないわけではなかった。けれど、ぶっつけ本番というのは、流石の銀八でも御免被りたかった。
放課後の合間を見ては、万事屋メンバーとエリザベスで、できるだけのセッションはこなしてきた。音響に関しては、プロの万斎がいる。
(だから文化祭は嫌いだ……なーにが、拙者はお前の演奏に興味があるでござる。だ、クソ野郎……)
彼に弾かせてもよかったのだが、断られた。
自分がギターを抱えてしまったことに、若干の後悔を覚えつつ、気持ちの切り替えを促すように頭を振った。
技術なんて二の次だ、歌はハートだと、かの有名な銀河のロックスターも言っていることだし。むしろあの人に弾いてもらいたかった、いや、歌って欲しかったです。
けれどもここまできてしまったのだ、冗談ではなく、ぶつけるものをぶつけて、すっきり終わりたい。そう思った。
神楽と新八と、視線を合わせる。エリザベスにも「よろしく頼むわ」と軽く手を振った。カンカンと鳴るドラムスティック。局は、ベースの低音がリズムを刻むところから始まるロックンロールだった。

◆ ◆ ◆

取り巻きの輪の外から、じっと眺める。緩めたネクタイは、結局放り投げて、汗だくになって歌う銀八の姿に土方は目を細めた。
スピーカーから聞こえる声は、そう上手いものとは思えなかったけれど、それでも、いい曲だと思う。会場がノるには十分な音楽。身体の隅から隅に響いてくる重低音と、穏やか且つ優しい音であるのにも関わらず時に刺すような音を刻み込むギターの音。ひどく『らしい』と思った。悔しいが、高杉の言うことは本当だったのだ。
(……あんたらしい)
その場を包む音を吸い込むかのように空気を吸って、呼吸をした。
いとおしいその音が、鼓膜に刻み込まれた気がした。



二時限目
 【三年~冬~】

義務教育の延長だ。ある程度ふざけたことしなければ、卒業までこじつけることはできる。
そんなことを唱えながら過ごした二年と、あと少しで三年が終わる。
「就職組もある程度決まったところだ。気張ってこいや、センター組」
台詞とは裏腹に、普段と何ら変わらない顔色で教壇に立つ教師を見ながら、近藤が「うぃーっす!」と声を上げたのを皮切りに、生徒たちが騒ぎ始めた。
そんないい加減なホームルームの終わりに、そっと溜息を吐いた。
(もう、センターか……)
高校生活が始まったのは、つい最近のことのような気がする。あっという間の三年間だった。
飄々とした足取りで教室から出て行く教師の姿を視線で追いながら、土方はぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
「じゃ、トシ、総悟、俺は早めに帰るわ」
「遅刻だけはしねェでくだせェよ、近藤さん」
学ランに袖を通しながら、沖田が言う。近藤は豪快に笑って、深く頷いた。
「流石の俺でもそれはねぇって! 本番には強い」
そんな近藤に、土方は鞄を片手に眉を寄せた。
「洒落にならねぇこと言うなよ、総悟……近藤さん、朝、電話しようか」
「何言ってんだ。お前はお前のことだけ考えてりゃいいんだよ、トシ! そんなだから、俺のヨメさんなんて呼ばれんだぜ?」
「あのなぁ……」
それを言い出した教師の嫌みな顔を思い出し、土方はこめかみを掻く。隣で、沖田がニヤニヤと笑っている。つい、その頭を引っ叩いた。
「いって……」
「気色悪ぃぞ、総悟……」
「気色悪いのはどっちでさァ」
そう言って見上げてくる沖田の視線に、何か嫌なものを感じて、思わず睨みを利かせた。
「ま、近藤さんは頑張ってくだせぇ。土方は落ちろ。真っ逆さまに落ちろ」
「縁起でもねぇこと言うんじゃねぇよ!」
そんな風に叫んだ。
「もう、緊張感ないんだから……」
そんな言葉と共に聞こえた笑い声の方を振り返れば、そこには教室の前の方に座る新八がいた。隣では、桂と神楽が単語帳を眺めながらぶつくさと呟いている。
「最後まで仲良いっすね。お互い、頑張りましょう」
そう言って拳を握った新八の目の下には、ほのかにクマがある。
「そうよ、新ちゃん。どこぞのゴリラみたいに、寝坊なんて絶対許さないから。明日は起こして上げますからね」
にっこりと微笑んでそんなことを言う妙に、近藤が飛びつこうとした刹那、妙の姿がふっと消える。気付いた時には、近藤は黒板に頭をめり込ませていた。
「ちっ……目ざわりな……」
「あ、姉上……一応、近藤さんも明日試験なんで……ちょっと頭はまずいです……」
「あら、ちょっとは手加減したのよ。ちょっとはね?」
そう言って微笑む妙に、誰も反論はできなかった。
就職を決めた人間、それから推薦入試で進学を決めた人間以外は、センター試験に臨むための努力をしてきた。新八もその内の一人である。そして、土方自身も、今土方の目の前で黒板にめり込んでいる近藤も、明日明後日に控えた試験のために準備をしてきたのだ。
「……お互い、頑張りましょうね……」
「おう……」
口元をひくつかせながら言う新八に、土方もまた顔をしかめながら引き攣った笑顔で答えるのだった。

◆ ◆ ◆

「嫌なこと、思い出しちまったな……」
家に帰っても出来ることになど限度がある。精々寝坊をしないように早く寝るくらいのものである。土壇場での徹夜は向かない。
わかっているからこそ、放課後の数時間を図書室の隣にある図書準備室で過ごした。
図書室も静かではあるが、無人とは言えない。三年の後半からは、誰も入る気配のない図書準備室を使うことが多くなった。
生徒が入ることを禁止されているわけでもないのに、古い本の発する独特の匂いのせいか、この部屋には生徒が寄り付かなかった。それに気付いてから、試験勉強のために潜り込むようになった。
「そろそろ帰るか……」
赤い空が遠くに見える。ノートを閉じて、鞄を持ち上げた時だった。部屋の外で、ばさばさと本の落ちる音がした。
「……なんだ?」
土方は持ち上げたばかりの鞄を下ろして、準備室の扉をそっと開ける。
そこには、先の嫌な思い出の中心人物である坂田銀八という教師が、呆然とした様子で立っていた。
手に持った本の山が足元に落ちている。土方は、ついそれを拾った。
「……何してんすか。こんなに山ほど本持って」
「えーっと、歴代アルバムの整理……今、戻しにきたところ」
土方の開けた準備室のドアから、銀八が潜り込む。そして、閑散としたテーブルの上にアルバムを置いた。
土方も、床に落ちていた分のアルバムを掻き集め、それに倣った。
「お前、珍しい奴だな。こんな所で勉強か」
「ああ、まぁ……人来なくていいんですよ。ここ……」
「へぇ……」
そう言って口角を上げた銀八の口元にだらしなく引っ掛かっている煙草から、ゆるゆると煙が上がる。
結局、卒業するまでこの煙草の謎は掴めそうにない。そんなことを思いながら、土方は口を尖らせた。
「先生こそ、どうしたんすか」
「俺さ、卒業アルバム担当だから。ついでに整理もやれとかなんとか、理事長のババアが……」
ちっと舌を鳴らした銀八が、テーブルに乗せたアルバムを一冊一冊本棚に入れていく。その背中を眺めていた土方が、残っているアルバムを手に取った。
「これ、どこに仕舞えばいいんですか?」
「何、手伝ってくれんの?」
「土下座して頼まれれば」
「ぜってーやんねぇ……」
けっとそっぽを向いた銀八の元に歩み寄る。
「冗談だよ……これくらい手伝わせろ」
そう言って、銀八にアルバムを差し出した。きょとんとした表情をして、それから手の伸ばしてきた銀八が微笑む。
「年度ごとに並べるだけだよ」
言われた通り、一冊一冊がずしりと重いアルバムを持ち上げ、そっと本棚に収めていく。同じように本棚に向かう銀八の、薄汚れた白衣の肩口をちらりと盗み見た。
「……それより、お前明日から試験だろ。準備に万全なんてことはねぇからな。最後まであがけよ」
「あとは体調管理だけだ」
「まぁ、お前の旦那よりはマシな頭してるもんなぁ」
そう言って笑った銀八の肩が震える。笑われたのだ。土方は思わず、持っていたアルバムを本棚に押し込んで、その肩を掴んだ。
「近藤さんと俺を茶化すんじゃねぇよ」
驚いて土方を振り返った銀八の眼鏡が、ずるりと下がった。その表情に、頭に上った血がさっと引いていく。
「……スイマセン」
「いや、何、俺もふざけ過ぎてたし……悪いね。なんだ、お前、彼女とかいるの」
「え?」
「土方くんさ」
ぴっと指で示され、自分の胸に向く指先を見た。心臓が、ずんと重くなった。まるで魔法をかけられたみたいだと思った。
「別に……彼女なんていない」
「ああ、そうなの? 意外だな。お前、顔は良いのに」
「顔は……って」
他はどうなんですか、だなんて、安易に聞けるものではない。少なくとも、今この状況では。
土方はそんな言葉もろとも固唾を飲み込んだ。
「まぁ、でも気分が良いもんじゃないか……本当、悪かったな」
軽く頭を下げる銀八に、土方は喉奥に押しやった言葉をどうやって浴びせようかと眉をしかめた。
「俺、男子高だったからさ。なんつーか、ついそういう表現しちまってさ。そうだよなー、普通の健全な男子生徒なら嫌だよなー……でも、そのくらい仲良いし、一生懸命じゃん」
そう言って、残りのアルバムを本棚に詰めた銀八が振り返った。ふっと目を細めたその表情に、つい唇を噛み締めていたことに気付く。握り込んでいた拳を開いて、握ったり閉じたりを繰り返した。
「まぁ、一生懸命も度を過ぎると勘違いに繋がると、そういうことだな」
「そういうことを……あんたには言われたくなかった」
「ああ、だから悪い……謝って済まないと思うけど、俺も悪ノリし過ぎて……」
瞳を上げる。
「あんたにだけは、言われたくなかった」
真っ直ぐに見据えた視線の先、眼鏡の向こうで、銀八の瞳が揺れた。それを、土方は見逃さなかった。
「今言ったばかりだろ? 度を過ぎると、勘違いに繋がる」
そう言った銀八が、目を伏せた。
「……土方、そろそろ引き上げな。明日つまらねぇ遅刻なんてしても、な」
「先生」
「なに?」
「なんで、あんなこと言ったんですか」
差し込んだ夕日のせいで、目が焼け付くように痛んだ。乾燥を訴えているのかと瞬いた刹那、銀八が作り出した無表情を見た。
慌てて目を開ける。そこには、既に違う色が浮かんでいた。いつもの、何を考えているかわからない顔だ。
「なんでって……そりゃあ、お前がやたらにゴリラを甘やかして世話を焼くからだよ。目に余るっつーの」
「どうして目に余るんですか。大体、三年になって、ようやく担任になったのに……」
それまでの方が、余程からかわれていた気がする。
「……お前は、聞いてばっかりだな」
すぐ近くにあるのに、手を伸ばせない。そんな白衣の襟を、恨めしく睨んだ。
口を閉ざした銀八が、白衣のポケットから携帯灰皿と煙草の箱を取り出す。そして、短くなった一本を灰皿にねじ込み、器用に口に一本銜えて、躊躇することなくライターで火を点けた。
ふっと煙を吐き出して、呟く。
「三年なんて、そんなもんだろ。俺も忙しいし、お前らも忙しい。ぶっちゃけ、生徒一人一人捕まえて構ってらんないわけよ。わかるだろ?」
何ひとつわからない。穏やかだった心の内が、一瞬で掻き乱された。ささくれた皮を引き剥がしたように、ちくりと痛む。
土方は眉間にぐっと皺を寄せ、俯いた。
「それとも、何。先生にからかわれるのが楽しかったのかな、マヨ方くんは」
口元に手を当てて、そんな風に笑った銀八に、土方は一、二年時のことを思い出し、顔をしかめた。
「……別に」
言葉は、裏腹の気持ちを作り出してしまう。
「お前は、そう言うと思ってたよ」
そう言って、銀八は笑った。
図書準備室に入り込んできた夕日が、妙に感傷的なコントラストを生み出した。土方はふと瞬きを忘れる。
「いいからもう帰んな。試験の前に錯乱することはよくあることだ。まぁ、まさかお前さんがそんなに苦悩するとは思ってなかったけど」
そう言って、きつく握られた土方の手を銀八が取った。
「おまじない」
そう言って、ゆっくりと握り拳を解かれた。行き場を無くした指先をそっと掴まれる。握り込まれ、一定のリズムで圧迫される。早鐘を打つ鼓動が、そのリズムに支配されて、慣らされていく。
「よーし、落ち着いてきたな」
銀八の両の手が、土方の手から離れて行った。それを眺めながら、土方は、ほっと息を吐いた。
「良い報告、待ってるよ」
そう呟いて背中を向けた銀八が、ひらりと手を振る。準備室から出て行く背中を見送り、土方は掴まれていた指先を見た。
「……先生」
手が、ほんのりと汗をかいていた。緊張をしていた。
相手は担任で、学校以外ではほとんど会うこともない。それも、男で、どうやって教員免許を取ったのかも疑わしい人格の野郎で。それでも。
(あと、少しで終わるんだろう)
確かに、彼を好きだと感じている。


【三年目~冬~】

「ひーじかーたくーん」
銜え煙草でそう呼ぶ銀八を振り返る。その手には、証書を入れる筒を持っていた。
「先生、それ……俺の」
「あーそうそう。沖田くんがね。これ記念にどうぞってさ」
「いや、だから俺のなんすけど」
土方の卒業証書を勝手に持ち出して神楽とのチャンバラに使っていた沖田が戻ってきた時、既にその手に土方の証書はなかった。
先ほど激怒したばかりであったが、よく沖田と共謀していた銀八が黒い筒で首元を叩いているのを見て直感した。また余計なことを、とも思った。
「ほい」
放り投げられ、慌ててそれを拾う。
「それ、見せんの。親とかに」
「いや、別に……」
「ふーん」
「ああ、でも、兄貴には見せるかも……」
意外そうな顔をした銀八に、土方は「仏さんの」と付け加えた。そうすると、銀八はふっと微笑んで頷いた。
「そっか。そういえば、お前ら打ち上げとかやらねぇの?」
そんな言葉に、土方はむっと口を尖らせる。
「一回帰ってから、飯……行くとか言ってますけど」
「先生も行こっかなぁ」
今度こそ、土方は「は?」と首を傾げた。
「先生同士の打ち上げとかって、ないんすか」
「ん? まぁ、一応あるけど、折角だし」
訝しげな表情をしながらも、教師仲間よりも自分たちが選ばれたことが嬉しくなった。
土方は俯いて、受け取ったばかりの証書で首元を叩く。
「どこで飯食うの?」
「えっと、駅前のファミレス……」
「はー、学生らしくて結構だ。それより、個室がある所とかの方がよくね?」
そうは言われても、飲み屋でもあるまいし……と土方が口ごもる。銀八がポケットから携帯を取り出して、そっと頷いた。
「そーだ、知り合いがやってる飲み屋があんだけどさ。酒は絶対飲まないからーってことで、借りれねぇかな。オッケーだったら、誰に連絡すればいい?」
「えっ……と?」
「あ、新八にすっか。それなら、ハブられることもねぇだろ」
ニヤリと笑った銀八が、誰のことを言っているのか理解して、土方は思わず舌を打つ。確かに、沖田なんぞに連絡された暁には、土方は参加させてもらえそうにない。
「じゃ、こっちは任せて、お前は帰りなさいよ」
背中を翻し、そう言って手を振る銀八に、土方はどもった。声を掛け逃してしまった。
「……おめでとうって、言ってもらえねぇのかな」
そりゃあ、全員に向かって一度言われたけれど、折角正面で二人話したのだから、真正面から言ってくれてもいいのに。
そんな風に思いながら、近藤に銀八の言っていたことを連絡するのだった。
銀八に紹介された店は、土方が思っていた以上に敷居の高い店だった。それは土方に限らず、他のクラスメートも同じだったろう。
「お、おいトシ……ここ、本当に銀ぱっつぁんの紹介なのかなぁ……」
「さ、さぁ……」
飲み屋というよりは、小料理屋だった。
動揺する土方と近藤の隣で、新八と神楽が話している。
「ねぇ、神楽ちゃん、これってもしかして……」
「きょーじろーの店アル」
「あ、やっぱり」
ぽんと手を打った新八が、ざわつく一同より先に敷居を跨ぐ。そして、小料理屋の戸を引いて「こんにちは」と声を掛けた。
「きょーじろー!」
その後に神楽が続く。二人の知り合いがいることに安堵して一同がその背に続いた。
「おう、眼鏡。準備は出来とる。銀八はまだかいのう」
「あー、多分、銀さんはまだ来れないと思いますけど……」
「まぁ、お前らなら安心だ。入れ。今日はもう貸し切りにしたからな。安心して飲んで暴れたらええ」
片目に刃物の切り傷が入っている店主の穏やかな表情に、一同は首を傾げる。
神楽と新八と面識があるということは、銀八の知り合いで間違いはない。しかし、まさか銀八にこのような堅気には見えない知り合いがいようとは。
「わしはこの店任されとる京次郎っちゅうもんだ。お前等、銀八の生徒らしいな。わしも、奴には世話になったからのう。好きにくつろげ」
そう言われ、一同はすごすごと敷居を跨いだ。神楽はカウンターの正面に座り、料理が出てくるのをわくわくと待っている。
「わしはええと思うんじゃが、先生様が飲酒は禁止しとる。申し訳ないが、酒は出ねぇぞ」
そう言って笑った京次郎に、3Z一同は「はーい」と返事を返すのだった。
神楽と沖田を中心に、好きに飲み食いを繰り広げる3Zメンバーの間を縫って銀八がカウンターの席に座ったのは、開始一時間を過ぎた頃だった。
暴れ回る一同を肩越しに見て、銀八は溜息を吐いた。
「完全に出来上がってやがる……悪いな、京次郎。酔っ払いより性質悪いわ……」
「貸し切りにして正解じゃったのう……将来が楽しみだな」
「違ぇねぇんだけどさ」
くすりと銀八が笑う。土方は、盗み見ていたそんな横顔にどきりとした。
(どういう関係なんだか)
そんな風に聞く権利もない気がして、持っていたコップをぼうと眺めた。銀八は当然のように酒の入ったコップを持っているし、その相手をし始めた京次郎も同じだった。


【四年目~夏~】

卒業まで何の音沙汰もなかった教師からの連絡が、まさか教えてもいない携帯への留守番電話だとは思いもしなかった。
「おいコラ多串。俺が誰かわかるか。わかったら、おとなしく卒業アルバムを取りに来ること。勿論、場所は学校な。お前以外はもう取りに来たから。ったく、あのゴリラ、お前にも連絡入れろって言ったのに、いつまでもトロいから、仕方なく俺が沖田くんに聞い」
そこで、ぷつりと音が切れた。録音時間を越えたことに気付き、土方は我に返る。
一生懸命に元担任の声に耳を傾けていた。つい赤面した。まだ卒業してそれほど時間も経っていないというのに、それでも毎日聞いていた声だ。随分と懐かしい気がした。
「……卒業アルバム……」
近藤とメールのやりとりはしていたが、そんな話題は一切出なかった。
もしかしたら、実家には受け取りの通知書が来ていたのかもしれない。
春から一人暮らしを始めて、てんやわんやしていた。一息吐いたところで、まさか更なるてんやわんやが飛び込んでくるなど、思いもしなかった。
「……途中で切れてんじゃねぇか」
大方、沖田に土方の連絡先を聞いたのだろう。沖田が銀八の連絡先を知っているのも何か癪だったが、そのお陰で土方の元に直接連絡が来たのだから、そこについては目を瞑ろう。
勝ち誇った顔の沖田のピースサインが頭に浮かんだ。
「……もう一回聞こう……」
それを掻き消し、土方はもう一度留守電の再生を始めるのだった。
当たり前のことだが、卒業式で土方の名前を呼んだ声と何ら変わらない銀八の声。
目を伏せれば、薄汚れた白衣が瞼の裏に映るような気がした。
もう終わると思っていた気持ちも、今の内だと思う。会わなくなれば、尚更に気持ちは離れて行く。気の迷いだったんだと思い知る。
(結局、卒業式の日は、あのまま何も喋れなかった)
バイトをして一人暮らしを支えるのに必死になれば、その気持ちもやがて薄れて行くと信じていたのに。
地元に戻り、実家を経由して高校へ向かう。その途中で、思っていた以上に高揚している自分に気付いた。
(……先公だもんな。いないってことはないと思うが……)
そんな気持ちで職員室のドアを叩いた。
ばーん、と出て来たのは、金髪の教師だった。
「え……」
「なんじゃ、ぬしは。私服登校とは偉そうに……成程、卒業生か? 担任は誰じゃ。言いなんし」
妙な口調にどぎまぎとしながら「銀八先生ッスけど……」と答える。すると、女教師は突然目の色を変えた。
「わっちも今あいつを探している所じゃ! ぬしも探せ!」
「はぁぁ……?」
登校していきなり面倒を押し付けられた。普通なら「探してくるから職員室で待っていなさい」くらいの言葉を掛けてもらってもいいところじゃないのか。そんなことを思いながら、土方は首を傾げた。
「確か……研修で来てた……」
それがさっきの教師だ。面識がなかったからほとんど記憶にはなかった。
生徒たちがあらかた帰ったであろう夕方を見計らって来た。スリッパでぺたぺたと廊下を歩いていても、生徒とは碌にすれ違わない。それどころか、教師とも会わない。できれば会いたくない。この学校の教師は、面倒な奴ばかりだ。
少し前に卒業したはずなのに、廊下を歩きながら教室を覗くのが随分と久し振りのような気がして、つい足を止める。
3年Z組。アホ共と一緒に一年を過ごした教室である。夕日の入り込んでいる教室を見て、今はもう違う人間が使っているのだということを知る。
土方は教室の中に足を踏み入れ、あいつがどこだった、どいつがここだった、そんなことを思い出していた。
「俺は……」
机に座る。ほんの少し前まで愛用していたままの机に、ほっと安堵した。しかし、机の中は必要以上に教科書やノートが詰め込まれている。ここは、最早自分の席ではないのだ。
がたん、と音がした。入り口を見る。そこには、薄汚れた白衣を着た教師が立っていた。
「……土方くんだ」
教師に名前を呼ばれ、思わず席を立つ。脛を打った気がするが、それどころではなかった。
口を結んだまま立ち尽くしていると、銀八が眼鏡の向こうでふわりと笑った。
「タイムスリップしたのかと思ったぜ」
「……はっ?」
「いや……つい最近のことなのにな。なんか、懐かしいわ」
そう言って、銀八は教壇の上に立った。教卓を軽く叩いて、眼鏡を上げる。懐から取り出した煙草を一本銜えて笑った。
「先生、やっぱりそれ、煙草じゃないッスか」
喫煙教師によく噛み付いていた自分を思い出し、土方もそっと息を吐き出した。
「煙草じゃないよ。レロレロキャンディ」
「今、銜えたじゃねぇか……」
「でも、レロレロキャンディなんだよ」
そう言って、煙を吐き出した教師は笑った。
卒業アルバムを受け取るついで、職員室についていくと、そこには先程銀八を探していると言っていた女教師がいた。
土方は軽く会釈をする。気の強そうな女に見えるが、どうやらその通りの性格らしい。
「銀八! ぬしはどこにいたのだ! わっちがどれほど探したか……!」
「いや、俺、秘密の場所で昼寝してただけだし」
「秘密の場所? 屋上か? いや、しかし屋上は探しに行ったはずだが……」
女教師の言及に、銀八がそっと土方に目配せをする。そして人差し指を口の前に立てて「秘密」と言った。
それで、どこだかわかってしまった。銀八がいたのは、多分図書準備室だ。
(……覚えててくれたのか)
「まったく、失礼な奴じゃ……」
ぼやきながら去って行く月詠を指差し、銀八がこっそりと教えてくれた。
「あれ、赴任してきた月詠。まぁ、前年度も実はいたんだけどね。卒業生はあんまり会ってないわな」
土方は軽く首を傾げ、それにしては随分と仲が良さそうだと思った。
胸の辺りが、ちくりと痛んだ。
「そうそう、卒アルなー」
自分の机の上をゴソゴソと探す銀八が、厚い冊子を土方にずいと差し出す。
「そう言えば、お前、今一人暮らししてるんだっけ」
「なんで知ってんすか……」
「ゴリラ情報~」
「……近藤さんな」
そうそうと相槌を打つ銀八が、しゅるりとネクタイを緩めた。そして白衣を放る。
これで仕事は終いかと、土方が会釈して背中を翻そうとした時だった。銀八が、土方のシャツの襟を掴んだ。
「わざわざ帰ってきたんだろ? ラーメンくらい奢らせな」
そう言って笑った顔に、「結構です」とは言えなかった。

◆ ◆ ◆

「つーか、お前さ、何、バイト詰めなわけ? 大学生って言ったら一に飲み、二に飲み、三に飲みだろ。朝まで飲み続けて授業遅れて単位落とすんだろ。それが大学生ってもんだろ」
「あんたがそういう学生だったことは、よーくわかった……」
レンゲを片手にラーメンを啜る銀八が、口を尖らせた。そしてレンゲの持ち手の角で土方のこめかみを叩く。
「お前さ、もっと余裕持った方がいいよ。大学で彼女できなかったら、そりゃもう絶望的よ」
「そういうアンタはできたのかよ……」
そう言うと、もう一度レンゲの角で叩かれた。
「って」
「先生のことはいいんだよ! 蒸し返すんじゃない!」
「……そういう奴に言われる筋合いはねぇ」
メンマを口に放りこんで、目を伏せた。
バイトに躍起になって気を散らせば、なくなるもんだと思ってた。大学でサークルでも入れば、消えてなくなるもんだと思っていた。
(サークルは、結局忙しくてやめちまったけど)
肩が触れた。そこに熱がこもる。
そんなもんだ。わずかに残れば残る程、そこだけ熱くなって忘れられないような火傷を残す。
土方は、ふっと眉を寄せた。
「でも、朝まで遊んでられるのなんて大学生までだぜ? 今の内にやっておきなさいって」
そう言って箸を鳴らした銀八を振り返り、土方は溜息を吐いた。
きっと、この人にはわからないんだろう。どんなに苦労をしているかなんてことが。
土方は、丼の中のスープを飲み干して、それから呟いた。
「じゃあ、先生」
「んー?」
「俺と、朝まで遊べよ」
「ん……?」
箸を銜えた銀八が、ぐるりと振り返った。無表情のままで首を傾げた銀八が、暫くして言った。
「いや、俺、明日、仕事」
「朝まで遊べるのなんて、今の内なんだろ。けしかけたんだ。付き合えよ」
銀八は天井を見上げ、それから何度か瞬きをした。黙り込んだままの銀八に、土方は唇を噛む。
相手は大人だ。ダメに決まってる。そう思っているのに、「もういい」と言い出すことができない。
ここで引いたら終わりだと思った。本当の終わりだ。
「……いいよ」
「わかってる。言ってみただ……え?」
「いいよ。ちょっとだけなら、原チャ走らせてやるよ」
そう言って笑った銀八が、少しだけ悲しそうに見えた。
ラーメン屋の暖簾をくぐり、銀八の原チャリに跨る。少し迷って、ジャケットの裾を握った。ヘルメットを寄越してくる銀八が、何故か笑っていた。
「しっかり掴んでろよ。しっかりな」
走り出した原チャリが、夜の光彩の中を走る。けれど、見えるのは銀八の背中ばかりだった。普段白衣を着ている背中より、余程華奢に見えた。
しっかり、と言われた。そろりと手を伸ばす。腰を抱いて、口を結んだ。
「昔はよく、こうやって新八と走ったんだけどなー」
「新八って、志村の……?」
「そー! 俺、あいつと神楽がちっさい時、一緒に住んでてさー」
「……へぇ」
確かに、ただの教師と生徒にしては、やけに仲が良いとは思っていたが、まさか、そんな過去があったとは思わなかった。
(正直、ちょっと良いななんて)
やはり、三年になってから何となく遠ざけられていたような気がする。だから、尚更、仲の良い三人を見ていると妬けたりもしたのだ。
そんな銀八と、夜の道を走っている。そんな現実が、あまりに現実離れしていた。思わず、腕に力がこもった。
「ほい、着いた」
暫く走ってきた所で、銀八が原チャリを止める。土方のヘルメットを外し、銀八は目の前にあるものを顎でしゃくった。
「歩道橋……?」
「とりあえず上ろうよ」
「何のために?」
「だから、そういうのやめろって」
カラカラと笑いながら、銀八が階段を上っていく。その後を慌てて追った。
歩道橋の上は、地上を走り抜けるカーライトが光の波を作っていた。素直に、綺麗だと思った。
「座ろうか」
「は?」
「いいから」
そう言って歩道橋に座り込んだ銀八が、土方の袖を引く。周りには、他に歩行者もない。ただ、走り回る車の音だけが響いていた。
土方は、そっと銀八の隣に座った。煙草を銜えて火を点ける銀八の横顔を見て、わけもわからず息を吐いた。
「土方くん、さ」
「あんだよ」
「彼女できた?」
「はぁ? 忙しいのにそんな暇……」
「新しく好きな子、作りなよ」
言葉を失った。何かを言おうと口を開いたのだが、上手い言葉が見つからず、土方は俯く。
「なんで、あんたにそんなこと言われなきゃなんねぇんだよ……」
そう言えば、銀八はふーっと煙草の煙を吐いた。
「いや、何、なんとなく、かな」
「いつ頃から……?」
問い掛けて顔を上げれば、銀八が煙草を挟んだその手で、ついと唇を拭っていた。
「貸し借りが、なくなった時」
相手は、土方のことなどおもちゃのひとつ程度にしか見ていなかっただろうに。まさか、あんな動揺を覚えていたとは、意外だった。
けれど、ぬか喜びはそこまでだった。
「時間は、刻一刻と過ぎてくんだ。ありえない方を向いてる間に、世の中はみんな流れてく」
銀八の声が、すぐ近くで聞こえる。それなのに、心がすぅっと温度を失っていく。それを、リアルに感じていた。
「……ありえないのか」
「ありえないっしょ」
迷うことなく返された言葉が、遠まわしに土方の頭に突き刺さる。
「ありえないよ、土方」
肩を叩かれた。暖かく見えるその感触。なのに、何故だか突き放されたような感覚を呼び起こす。静かに笑う。その表情を見上げることすらできなかった。
ありえないんだ。ありえない気持ちなんだ。そんなの、自分ですらわかっているのに。
「……わかってんだよ、そんなのは」
口から溢れていた。それを、銀八が拾う。
「わかったつもりになってるだけなんじゃねぇかな。現実はさ、もっと辛いよ」
逃げ出したい。走り出したい。ここからいなくなってしまいたい。そう思うのに、身体が凍りついて動かない。土方は額に手を当てて、そのまま俯いた。コンクリートが、醜く歪んだ。
「高校の教師なんて、所詮これからのお前らがどうなろうと興味ないの。興味無いからさ、いくらだって遊んでやるって気持ちもあんのさ。でもな……」
遊ぶ、という言葉に、顔を上げられなかった。所詮遊びにしかならないのだと突き付けられた気分だった。
「土方は、ダメだよ。しゃんとしてろよ」
顔を上げた。驚いて、上げられずにはいられなかった。
銀八の顔を見れば、穏やかに笑っている。
「先生からのお願いデス」
くしゃくしゃと髪を掻き混ぜられ、土方は思わず立ち上がった。
冗談じゃない。もうお前なんて、俺の先生じゃないくせに。本当は、どうでもいいくせに。そうして、呪詛を心の中に吐き捨てる。
けれど、こいつはそうじゃない。だからだ。だから忘れられないでいる。
「先生」
「おう」
頬を拭った。
ありえないラインなんだとわかったからこそ、いっそ清々しい。土方はぎりりと歯を噛み締め、そして覚悟を決めた。
勿論、真っ向から負ける覚悟を。
「あんたのこと、好きでした」
明日からはきっと違う。
笑顔の先生は応える。「ありがとう」と、「ごめんよ」と。
それは、立派に終わりの言葉の役目を果たしていた。