仄か背中に


背中にぼやっとした体温を感じて、嗚呼これってなんだっけ、なんだか懐かしいなこの感じ、って思った辺りで目が覚めた。だからその体温が誰のものかなんて、わかりやしなかった。
思い当たるその人は煙草の匂いなんてしやしなかったし、自分も煙草なんて吸っちゃいなかったから、その匂いだけが糸口であって、でも匂いなんてのは恐らく温度よりも曖昧なものなんじゃないかなって、その時思った。
背中を合わせてくれていたあの人は、どんな匂いだったっけ。そんなことももう思い出せないから、その体温の出所があの人でない証拠を見付けだせない。
そんなのは屁理屈で、あの人はもうここにはいないんだけどな。
銀時は伸びをした。そもそも、椅子に座ってうたた寝をしていたのだから、背中を合わせていた人間さえ実際にはいなかった。どうやって銀時の背中と背もたれの間に入り込める体温があろうか。あるとしたら、彼の体温を奪った椅子の背もたれだ。
結局、自分の背に触れたのは自分の体温だったのか。
その事実に少しだけ寂しくなったが、笑って鼻を鳴らすに留めた。
「なんだそりゃあ、人肌が恋しいってことかね」
独り言は万事屋の居間に響くことなく床に落ち、そして、やがて自分が放った言葉だということも忘れてしまう。その程度の呟きだった。
「銀ちゃん、ただいまヨー」
そんな居間に、神楽のぺたぺたという足音が聞こえて来る。銀時はふわぁと欠伸をしながら「おかえり」と頷いた。
「外ポカポカアル。背中があっつくなっちゃった」
「お前、ちゃんと傘差してただろうな」
「うん」
けろっとした様子で言う神楽に、銀時は一先ず安心した。春先の日差しは夏のそれよりも紫外線が多く含まれていると聞いたことがある。ただでさえ夜兎という種族は日光に弱い。こんな時期から熱中症になられたら困る。
「お前、赤い服だからまだいいだろ。黒い着物なんて着ててみろ、太陽の光吸収してあっついったらないぜ」
「太陽の光、吸収するアルか! 溜めたらビームとか出る?」
「出ねーよ……」
兵器と一緒にするな、とぼやきながら、銀時は自分の背中を撫でる。
「あんまり日に当たるなよ」
「合点ヨー」
窓からちらちらと外を覗く神楽に説教しながら、銀時は思った。黒い着物なんて、暑苦しくて敵わない。だのに好き好んで着る輩がいるのだから、果ては奴ら頭がおかしいのかもしれない。
「……この時期なら、まだポカポカで済むのかもなー」
夏が来たら近付くのも嫌だけど、この春の日和ならばまだ暖かいで済むのかもしれない。そういうぬくみは、少し恋しい。
「風はまだひやっとするアルな」
「だな」
干していた布団を仕舞いながら神楽が言う。まだ日が出ていない日は肌寒く感じるものだ。こういう時期に風邪をひきやすいんだよなと思うと、つい足を足で擦ってしまった。今年こそ気を付けようと思えた。
「神楽、窓閉めておけよ」
「アイアイサー」
ぱたん、と閉められた窓から、神楽はやはり外を眺めている。もう少し遊んできたいのに、と言ったところだろうか。そんな彼女の姿を見ながら、銀時はふっと笑った。
「神楽」
「うん?」
「今度は俺が散歩行ってきてもいいかね」
「私も行きたい」
神楽の声に、畳の上でごろごろしていた定春が起き上がる。そしてするすると銀時に絡んできたものだから、恐らく定春と神楽の思惑は同じことだろう。
とあれば、三人で散歩に出れば良い。
定春のリードを引きながら歩く神楽が傘をしっかりさして歩いているのを眺めながら、銀時はぼんやりと歩く。道に植えられた桜の木は、すっかり葉桜になってしまっている。夏に、あるいは梅雨に向かう時期なのだと噛み締めるには十分すぎる景色だった。
「確かにあったけーや」
「でしょ」
振り返ってニカリと笑った神楽に、定春が「あおん」と吠えて答える。たたたっと走っていく神楽と定春を見やって、銀時はやれやれと肩を落とした。
「元気だねぇ」
「ですねぇ」
隣から聞こえた声に銀時が振り返り、そしてぽかんと口を開ける。
「ジミーじゃん」
「山崎です。旦那たちは、定春くんの散歩ですか?」
そこにいたのは、真選組の監察方である山崎だった。
「ああ、良かった。沖田隊長が一緒じゃなくて」
そんな風に溢して溜息を吐いた山崎が、神楽と沖田の抗争を案じていたのは目にも明らかだった。確かに、あの二人が出くわすと碌なことが起きないからなぁ、と銀時が呟けば、山崎は何度か頷いた。
「あ、今の話、隊長には秘密ですよ」
「あー、覚えてたら……」
別に山崎が沖田にいびられようがいじられようが、銀時には関係のない話だった。だから、覚えていたら言ってやろう。語尾だけを胸に秘めて、銀時は頷く。
「ジミーくん、一人? 仕事中か?」
「はぁ、まぁ、そんなところです」
へらと笑った山崎に密かに「そんな調子で良いのか」と思いはしたが、あえて口には出さなかった。
それより、山崎の隊服に目が行った。
「暑そうだな」
「この日差しだと、上着はいらないかなって思っちゃいますよねぇ」
「夏は地獄だろう」
「ええ」
肩を落として頷く山崎の心中を察しながら、銀時はぽんと足を踏み出した。
「隊服、白に変えてもらえば」
「見回り組みたいじゃないですか。勘弁してくださいよー……それに、似合わないっすよ、俺ら」
「……だな」
前に一度白い見回り組の隊服を着た輩を目にしたが、確かにキザったらしくて似合わないったらない。外見はともかく、チンピラ警官にはちょっとばかりお上品過ぎる。あんな色では、すぐに泥だらけの血まみれにしてしまって洗濯の手間が大変だろう。
そんなことを考えると、つい吹き出してしまっていけない。
「そんなに似合いません……?」
「いや、何、おたくの、ほら、鬼のなんたら思い出してさ。つい」
「鬼のなんたらとはなんだコラ……」
わかってはいたけれど、その上でフラグを立ててみたらこのザマだ。銀時は、容易に引っ掛かる魚だと思いながら振り返る。
「おいおい、部下は我慢してるってぇのに、上司はさっさと脱いでやがんのかよ」
現れたのは鬼のなんたら、もとい鬼の副長、土方だった。ジャケットに袖を通したままの山崎とは違い、土方は片手にジャケットを持っていた。シャツにベスト姿で、あまつさえ腕まくりまでしている。
「うるせぇな。俺がどんな格好しようがテメェに関係ねぇだろうが」
「それもそうだけど、ジミー可哀想」
「わぁ、ありがてぇ……けど山崎です、旦那」
苦笑いも程々に、山崎が土方にメモを渡す。それを覗き込んだ土方が、銜えていた煙草を指に挟んで、いかにも面倒くさそうにけむを吐いた。
「捕り物か」
「関係ねぇだろ」
ぴしゃりと言い放たれ、銀時はつんと口を尖らせる。考えてみればその通りなのだが、何とも不躾な物言いである。腹も立つというものだ。
「それもそうですね……」
嫌みったらしく敬語で返事をした銀時が、ふらっと歩き出す。その背中に山崎が「あ、旦那」と声を上げた。一応、ひらりと手を振っておくことにして手を上げた。
その時だった。
「山崎ーー! そっち行ったぜィ!」
「あ、了解ー!」
「は?」
聞こえたのは沖田の声だった。
屋根の上から飛び降りてきた沖田が、銀時の肩を叩く。
「あ、旦那こんちは!」
流石に取り物の途中とあって、沖田はにこりとだけ笑うに留め、すぐに逃げて行った浪人を追い駆ける。その後に、先日出会ったばかりの斎藤が続き、銀時に会釈をした。
「隊長、俺裏回りますからねー!」
山崎はどうやら別行動らしい。山崎を追い越して走って行った土方とは別の方から駆けて行った。
「くそ、総悟の野郎、遊んでんじゃねぇっつーの!」
そう怒鳴り声が聞こえたかと思えば、銀時の頭に、ぼすっと音が聞こえた。何の音かと振り返る間も無く、銀時の視界は真っ暗になる。
何のせいか。顔を覆っているそれを剥いでみると、そこには真選組のジャケットがあった。
「お、おい!」
「持ってろ!」
指差しで言い付けられ、銀時はぽかんと口を開けたまま立ち尽くした。真選組のアホ共は浪人を追い駆けるのに必死で、もう銀時の方は振り返らなかった。
神楽が曲がり角を曲がっていて、沖田と出くわさなかったのは幸いだったかもしれない。が、銀時の手元のこのジャケットはどうしたものか。
暫く呆けていた銀時だったが、十二分に太陽光を吸収したジャケットの暖かみで我に返る。
「ハァ?」
これってもしかして、取りにくるとか、まさか持って来いなんてことはなかろうな。
「おいコラ! そんな面倒は御免だぞクソ!」
銀時はジャケットの袖と袖を腰で結んで、慌てて土方を、否、真選組の輩を追い駆けた。
(……あったけぇな、これ)
腰の辺りが、背中がぬくい。確かにこんなものを着て走るのは難儀だろう。少しだけ同情の念が湧いた。
遠くで、神楽が「銀ちゃーん?」と叫んでいるような気がしたが、彼女のことだすぐに追い駆けてくるだろう。



浪人はあっけなく捕獲された。沖田が遊んでいるとはこのことだったのだなと納得しながら、銀時はお縄にかかった浪人がパトカーで連行されるのを眺めていた。
「おい、おまっ!」
その声で我に返る。銀時の腰のジャケットを見ながら、土方が実に渋い顔をしていた。
「それやめろって言ったろうが!」
そういえば、身体は入れ替わった時にも同じように腰に巻いていたことを思い出す。その時も、袖が皺になったとか何だとか、女々しいことを言われたような気がする。
銀時は腰からジャケットを解いて、そして土方に投げ付けた。
「じゃあ俺に渡すんじゃねぇよ。折角持ってきてやったのに!」
「だから、皺になんだろうが!」
「女々しいこと言うなっつーの! アイロンかけりゃあいいだろうが! それが嫌なら寝押ししろ! ていうかクリーニングに出せや、高給取りが!」
「お前に言われるまでもねぇわ! ていうかテメェがクリーニング出せ! 弁償しろ、弁償!」
ぴーぴーと言い合いをしていると、定春に乗って追い駆けてきた神楽が、「なーんだ」と呟いた。
「クソ野郎どもアル」
「クソチャイナに言われたくねぇー」
「出やがったなクソサド野郎!」
これではお決まりのいつものパターンだ。銀時は二人の間に割って入って「はいはいはいはい」と手を叩くと、神楽の襟刳りを掴んで引き寄せた。
「はい帰りますよ、神楽ちゃん。ごめんね、銀さんが寄り道しちゃって。それが悪かったわ。ジャケットなんて捨てておけばよかったわホントに」
「死ねクソ天パ」
「死ねクソニコチン野郎。アイロンで焼け死ね」
「テメェが焼け死ねボケ」
「誰が焼け死ぬか、俺のアイロンテクなめんなコラ」
「言ったなオラ、やって見せろや」
「あーいいよ! やってや……」
ぽすんと手の中にジャケットを渡された。銀時はそこで我に返る。隣の神楽と視線を合わせると「やれやれ」と首を横に振られた。
「やっちまったアルな」
ついで、にやあと笑った土方が煙草の煙を吐き出しながら言った。
「届け先は真選組屯所で頼むわ」
「てめ……っ!」
「期待してんぞ、アイロンテク」
自分で言っておきながら、それはないわと銀時は手元のジャケットを振った。
パトカーの中から山崎が土方を呼ぶ。
「おう、今行く!」
神楽とメンチを切り合っていた沖田も他のパトカーに乗り込み、そして、真選組はさっさとその場から撤収してしまった。
「銀ちゃん、そろそろ夕方アル」
「……だな」
銀時は腕の中にあるジャケットに残ったほのかな温度を搾取するべくぎりぎりと締めつける。そして、片腕に丸めて抱え、首を振った。
「切り刻んでくれようか」
「好きにすればいいネ」
素っ気なく言った神楽が定春に跨って、それから万事屋への道を行く。銀時は大股でそれを追った。
「面倒くせぇなぁ」
「寝押しすればいいアル」
間の抜けた風に言った神楽は恐らく、先程の銀時の言葉を真似ているのだろう。
「誰が……背中に敷いて寝れるもんかよ……」
広げたジャケットからは煙草の匂いがして、間違いなく持ち主を連想させた。
照れ臭いだとか恥ずかしいだとか、そんな気持ちを持ってしまうこと自体が汚点であり、後悔だった。どうしたって背中に欲しいなんて思えないものを、さてどうやって処理してくれようか。
「……やれやれ」
銀時は早々に家に戻って、アイロン台を出すことに決めたのだった。