今もそこにある遠吠え


その男は、人間の形をしているくせに、俺達と酷く似た匂いがした。猫や犬や、具体的なことではなく、もっと言えば野性の匂いがする男だった。
そいつと初めて出会ったのは、アクショの廃墟でぼんやりと夜空を見上げていた時のことだった。暗い空を映しているマクロスのモニターに、月が浮かんでいる。それを見上げて、美味そうだなどと思っていた時であった。
その月を遮る人間の形をした影に気付いた。何故あんな所に人間がぶら下がっているのかと、おれは目を擦った。やがて、その影は、真っ逆様に落ちて消えて行った。
そいつは、やかましい音を立てて、歌を歌うのが好きだった。それを知ったのは、偶然にもおれが、奴の住居を見つけた時だった。ピンク色の頭をした女が、おれを見て「可愛い」と言った。どうにも不快だったものだから、おれはその女を睨み付けた。すると、そいつの肩に乗っていた毛むくじゃらの生き物が、怒ったように毛を逆立てていた。「キー」と鳴いて怒るそいつ。しかし、そいつの言葉は、俺には理解できなかった。
その女が、目の前の建物に入って行く。暫くすると、静かだった道路に、突然激しい音が聞こえてきた。おれは、ぽかんと口を開けて、その建物を見上げた。やがて音が止まった。その代わりに聞こえてきたのは、男の怒鳴る声と、女の怒鳴る声。どうやら奴らは、喧嘩をしているらしい。その間を仲介する低い男の声に、おれは「やれやれ」と頭を振った。
やがて、その建物からは、やたらにでかい女と、さっきのピンクの女が出て来た。でかい女に見下ろされ、おれは思わず目を見開き、身体を凍らせる。正直、怖かった。しかし、その女は、おれの前にしゃがんで、そっとおれの頭を撫でた。おれは、飛び上がって逃げ出した。思ったよりも優しい手の平だったと気付いたのは、逃げ出した後だった。
その建物に人気が無いのを良いことに、おれは、奴の部屋に忍び込んだ。身軽さには自身がある。誰にも気付かれずに好きな部屋に入り込むなどということは、俺にとって容易いことだった。
奴の部屋は、元々俺が住処にしていた廃墟のように床が崩れていた。けれど、問題なく雨風はしのげる。そんな場所だった。俺は、いつも遠くから眺めていたそいつが、ベッドの上で眠っているのを見て、少し拍子抜けした気持ちになったものだった。
夜、外から窓を見上げると、奴はそこから空を眺めていた。昼間はぐうたらとしているこの男が、夜になるとアコギを掻き鳴らして、静かに歌っているのを知った。小さな身体のおれは、体毛が白くても、闇に乗じるのが得意だった。だから、ひっそりと奴の挙動を眺めていたおれに、奴が気付くとも思えなかった。
見上げた窓から聞こえる穏やかな声に、おれはぴくりぴくりと耳を動かして、ひとつの音も取り溢さないようにと、奴の歌を聞く。夜の月を眺めながらその声を聞いていたおれは、いつの間にか、奴の声を聞くために夜道を行くようになっていた。
その後、おれは何度か奴の部屋に忍び込んだ。しかし、そいつは部屋にいないことが多くなっていた。だからおれは、誰もいないベッドを占領して、すやすやと眠ることを覚えた。
「お前、何してんの」
その日、迂闊にもおれは、そいつが近付いてくることにも気付かず、黙々と眠ってしまっていたのだった。
奴の緑色のタオルケットは、とても落ち付く。この部屋は、昼を過ぎるとぽかぽかとした日が差し込み、居心地が良かった。おれは、間近に聞こえた奴の声に頭を上げる。おれを見下ろす男の目。じっと見つめて来るそいつを、おれは少しだけ疎ましく思った。そいつが言う。
「お前……最近よく来てるだろ」
驚いた。まさか、いつも腑抜けた顔をしているこの男が、闇に紛れるおれの姿に、そして、誰もいない内に侵入しているおれに気付いているわけがないと思っていたからだ。
おれは、どうやって動くかもわからないそいつから、目を離すことができなかった。しかし、そんなおれの警戒心を何でもないとでも言うように、そいつは俺の隣に座った。
「まさかこっちに入って来てるとは思わなかったぜ。なんだ? 俺の歌でも聞きに来たのか?」
おれを見下ろし、そいつは目を細めた。確かに、夜はこいつの歌を聞きに来ていたかもしれない。しかし、今おれがここにいるのは、心地の良い寝床を確保するためである。断じてお前の歌を聞きに来たわけではない。俺は、奴の言葉を否定するために目を逸らした。
「なんだ、違うのか……」
すると、そいつは少しがっかりしたような声で呟いた。しかし、すぐおもむろに立ち上がり、ギターを抱えておれの元へ戻って来た。何事かと顔を上げる。男は、にっと笑ってギターを鳴らし始めた。
「まぁ、聞いていけよ。どうせ暇なんだろ?」
「失敬な奴だな」と思った。暇なのは、お前の方だろう、とも。
「夜、お前のその目が光ってるんだ。だから、金色の目をしてるんだと思ってた。けど、綺麗な青い色だったんだな」
そう言ったそいつの目は、奴の言う金色だった。月のような色をしていて、綺麗だと思う。けれど、緑色の丸いサングラスがその目を隠すものだから、おれはサングラスに手を伸ばす。すると、奴はぐっと顔を引いた。
「丸いもんが気になるのかな……」
そんなに単純にはできていない。ただ、丸い物は嫌いではないけれど。
男は、弦の調子を一通り確かめると、俺が頼んでもいないのに、そのギターの音に合わせて歌い出した。
ずっと遠くから聞いていた音が、すぐ側で鳴っている。目を伏せて歌うそいつの声に聞き入りながら、おれは、おれの中で不思議な音が聞こえてくるのを感じていた。
それは、俺の心臓の音だった。不思議な気持ちだった。俺の心臓は、どんどんと音を立てていた。まるで、男の声に反応するかのように。
「バーサーラー! バサラってばー!」
そんな穏やかな空間を妨害する声に、男はギターを弾く手を止めてしまった。そこで、おれは、ふっと我に返る。いつの間にか、ちゃんと座り込んで聞いてしまっていたことに気付き、少しだけ焦った。そんな俺の気持ちも知らず、男はおれの頭をガシガシと撫でた。
「ごめんな。続きは今夜だ」
そう言って、男はギターを掴んだまま部屋を出て行った。
「うるせぇぞ、ミレーヌ!」
「うるさいとは何よー!」
姿は見えないが、あのピンク色の女がここにやって来たのだと悟った。そろそろ低い声の持ち主も姿を現す頃だろう。バンドのセッションが始まるのだと思う。
いつの間にか……そう、あの男に近付こうとすると、自然と奴の周りの事が知れてくる。おれは、ごしごしと自分の顔を拭った。
バサラ、というのが奴の名前だった。バサラは、おれの姿を見ると、「よう」と声を掛けて来るようになった。最初こそ無視をしていたのだが、おれは、いつの間にか奴の挨拶に応じるようになっていた。「よう」とか、「おお」とか言うバサラに、おれも「おお」と声を上げる。きっと、奴には「なあ」としか聞こえないのだろうが、それでもおれは、おれたちには十分だった。
ミレーヌという女は、おれとバサラのそのやり取りを見て「かわいい」だとか「バサラばっかりずるい!」と喚いていた。やかましいから、ミレーヌにも尻尾くらいは振ってやるようにした。
バサラの部屋の窓からは、赤い兵器が見える。この部屋の家主は、そいつに乗って頻繁にどこかしらへと出掛けていた。俺は、いつもそれを見送っていた。
ある時、バサラが兵器のコクピットから俺を見つめて、「来いよ」と叫んだ。俺は、空を飛びたいと思ったことはなかったけれど、こいつと一緒なら悪くないと思った。だから、窓から兵器に飛び乗る。バサラの膝に腰を下ろし、そうして、舞い上がる兵器に身体を預けた。
ギターは、コクピットの中にまであった。ギターと自分の身体の間に俺を収め、バサラは口角を上げた。こいつが、何故いつもこの兵器で出掛けて行くのか。それは、俺のささやかな疑問であったが、そんな顔を見た瞬間に、全て合点がいった。
こいつは、歌いに行くのだと気付いたからだ。
「宇宙に出る猫ってのは、お前くらいのもんだろうな」
バサラが、笑っておれを見下ろした。おれは、コクピっとから辺りを見回し、宇宙という場所がどんな場所かを知る。真っ暗の背景に、所々ぼんやりと浮かぶ星達に、おれは瞬きを忘れた。
「この先には、銀河っていうとんでもなくでかいもんがある。俺は、またいつかそこに行きたい。そこで歌いたい。いや、銀河に歌いたいんだ……! もっと、もっと、俺は俺の歌を歌いたい!」
夢を語るように歌うバサラは、真っ暗な宇宙の中でも眩しくて、おれはまんまるの目で、そいつの楽しそうな顔を眺めることしかできなかった。その間も、やはりおれの心臓は、どくどくと音を鳴らした。この男の歌に共感するかのように。
宇宙に飛び立っていくバサラを見送るのは、やはりおれの日課だった。バルキリーという兵器が飛び出していく音は、どんなに深く眠っていても聞き逃さない。けれどある日、おれの耳にその音が届かなかったのだ。その音だけじゃない。おれの世界の音が、擦り切れ始めたのだ。
悲しそうな顔をして、おれを持ち上げていたミレーヌが呟いた言葉は、おれの耳に上手く届かなかったけれど、一緒にいた男の声は、偶然にもはっきりと聞こえた。
「青い目をした白い猫は、生まれ付き耳を悪くしやすいそうなんですよ……もしかしたら、その影響なのかもしれませんね……」
それを聞いたミレーヌが、尚更悲しそうな顔をしていた。けれど、実際に泣きたいのは、おれの方だった。
なんてことだ。毛色と目の色だけで、何故おれがそんな目に遭わなければならないのか。おれは一人、憤りを抱えたまま、日々を過ごすようになった。
その頃バサラは、新しい歌をいくつか歌っていた。おれは、聞こえにくくなっていく耳で、その歌ひとつひとつを聞くことに必死になっていた。
そんなバサラが、またもやおれを宇宙に連れ出した。おれは、喜んでバルキリーに飛び乗った。
「まだ誰にも聞かせてないんだ。だから、知ってるのはお前だけ」
そう言って笑ったバサラの表情は、とても優しかった。天使のようなバサラの声が、力強く歌う歌。おれに向けられているわけではなくとも、心の中に響く天使の声。おれは、その歌がぶつぶつと途切れるのが悔しくて、少し泣いた。青い月のような俺の目玉から零れる涙が、顔をしっとりと濡らしていく。歌を歌うバサラの姿までがぼやけてしまうのが嫌で、おれは、バサラのシャツで顔を拭った。
耳を澄ませば、いつも聞こえるだろうと歌う曲の最後の歌詞。その言葉に、おれは眉を寄せた。
歌い終えたバサラが、「どうしたんだよ」と俺の顔を拭ってくれる傍ら、おれは自分の耳が着実に悪くなっていることを悟っていた。バサラは、そんなおれの耳を指先で優しく撫でて、息を吐いた。
「……お前、耳が悪いんだってな。ミレーヌとガムリンが言ってた」
ついに、バサラにまでおれの耳が悪くなっていることが伝わってしまった。思わず項垂れる。けれど、バサラの手は、それに構うことなく、がしがしと頭を撫でてくれていた。
「もしも……お前の世界から音がなくなったとしても、お前の心から音を奪うことは誰にもできない。だから、今の内に聞いておいて欲しいんだ。お前が忘れないように、俺の歌を聞いて欲しいんだ」
そう言って笑ったバサラの笑顔は、少し苦しそうで、だから俺は何度も頷きながら、「うん」と返事をした。
「よっしゃ! そうと決まれば、久しぶりにいくぜ! 突撃ラブハート!」
叫んだ声が、俺とバサラ以外に誰もいない宇宙へと響いた。
バサラがいつか見たと言う銀河には、程遠いものであっても、奴の歌を聞いていたあの空間は、俺にとって銀河以上の意味があった。あいつの歌がある世界は、とても尊いものだった。
「バサラったら、猫ちゃんまで置いて行っちゃったんだから……帰ってきたら、引っ掻いてやるくらいしなくちゃね」
ミレーヌが、不貞腐れたような態度でおれに言った言葉は、音として伝わることはなかった。けれど、口の動きから、こんなことを言っているのではないかと感じることができた。
ミレーヌの声だけではない。今、おれの世界からは完全に音が消えてしまった。けれど、おれの心から奴の歌を奪うことは、何者にもできない。そう言った奴は、誰にも知られない内に、またふらりと姿を消してしまったけれど、今日もおれの心の中には、あの声が響いている。
おれは、残された緑色のタオルケットの上に伏せって、鼻を鳴らした。今も奴の声はおれに響いているが、しかし、一発くらいは引っ掻いてやらねばなるまいな、と笑った。