暗闇の中、ざらざらと地を掻く爪の音。獰猛な息遣い。そして、この空間に木霊する遠吠え。
顔を上げて耳を澄ます。大したモンスターではない。精々血に飢えた猛獣か、あるいは——あるいは、
一閃、空を切った音がする。すっと目を開け、手応えを逃したその先を見る。
視界に映ったのは、壁を背にして貼り付いている猛獣。
違う。それは、まるで犬だった。
「あっ、ぶねぇ……」
セフィロスが突き付けていた刀身を引いてやれば、目の前の犬、もといザックスの前髪から、はらりと数本髪の毛が落ちる。それを瞳でゆっくりと追ってから、ザックスはようやく飛び上がって姿勢を直した。
「……動物の気配がしたと思えば」
「ど、動物ってなんだよ! 失礼だな!」
「何の用だ?」
「用事がなきゃ近付いちゃいけないわけ?」
「理由に寄るだろうな」
セフィロスは、首を振って長い髪を払った。
どうやら、少し寝入ったらしい。敵になる者も、彼に敵う者もない場所とは言え、自分の迂闊さを僅かに省みる。
「バレないまま、アンタにどこまで近付けるかと思ってさ」
「……残念な結果に終わったようだな」
生憎と、獣の気配はずっと感じていた。いくら眠っていても、意識より先に身体が動く。
「ああ、死ぬかと思った……二度とやらないよ」
「肝に銘じておけ」
「そーする……」
肩をすくめてつまらなそうな顔をしたザックスが、小さく呟いた。
「それにしても、動物って……」
「ガードハウンド程度かと思ったが、それよりは骨があったな」
ガードハウンド如きの器では、先程の一太刀で喉笛を掻き切っていただろう。どうやら、それよりは余程骨があるらしい。状況が状況だ。そうでなくては困る。
「げぇ、あんなのと比べるなよなぁ……」
「それよりはマシだと言っただろう」
「そもそも比べられたくないんだけど?」
セフィロスは刀身を納め、コートを翻して通路を歩き出した。ザックスが自身の背後から付いてくる気配を感じ、静かに足を止める。——背後で身構える気配がする。それが、どこかおかしかった。
「何故ついてくる」
「偶然行く方が同じだけだって」
ガードハウンドなんてものに例えたが、他人について歩く様はやはり——犬。血に飢えた猛獣からは遠い、犬だ。
頭の中を、親友の顔が過る。成程、それも彼には大層従順な犬と来ている。
「道理で、遠吠えが聞こえたわけだ」
「ん? 遠吠え?」
首を傾げたザックスが、目を丸々とさせてこちらを見ている。終いには、自分の耳に手を当てて遠くの音を聞こうとしているようだった。……何をしているんだか。セフィロスは思わず首を横に振る。先の戦々恐々とした警戒心は、最早ゼロに違い。
(迂闊な奴め)
そんなことを考えていると、ザックスが懐から携帯電話を取り出した。手の中のバイブ音に片眉を上げてこちらを見る。
「出たらどうだ」
「あー、そうだな」
ザックスが携帯電話で通話を始めた瞬間に、セフィロスは背中を向ける。やっと解放される、そんな気持ちだった。なのに、なのにだ。その背後からは、いかにも残念そうな「あ!」という声が聞こえた。けれど、すぐに通話相手に集中が向く。
その通りだろう。その通りだ。
「今大事なとこだったんだぞ……」
何が大事なところだったかは知らないが、ここでついてきたとしても面白いものもないだろう。注意が逸れても仕方のないことだ。
——仕方が、ない?
はたと首を傾げた。仕方がないとは、なんだ。何故。
振り返れば、ザックスはセフィロスに背中を向けて、電話で——友人か、あるいは同僚か——話している。
やはり迂闊だ。警戒などもう忘れてしまったかのようだった。
(さて、今)
さて、今忍び寄れば、あの生き物の喉笛に手を掛けることができるだろうか?
(お前も、そんなことを思ったのかもしれないな)
とても自分と似付きはしないが、刹那的にそんな思惑を持ったのかもしれない。悪戯心? 果たしてそんなに温いものだろうか。
「あー、わかった! 今から行けばいいんだろ! まったく!」
どうやら話は付いたらしい。
ザックスの喉笛に手を掛けることも離れることもせず、ただ彼を見ていたセフィロスに、ザックスははたはたと瞬きをした。
「不思議そうな顔だな」
「だって、不思議だ。待っててくれたなんて」
「待ってたわけじゃないさ」
「じゃあなんで?」
素直に言うべきか。油断に塗れたお前の喉を、もう一度狙ってみてやろうかと思ったのだと。
「わかった! 俺のこと、ちょっと気になってきたとか!」
「ふっ……」
あまりに楽天的なザックスの答えに、思わず笑いが込み上げる。そっと手を口元に当てた。喉の奥が震える。こんなに笑いたくなることもあまりない。――前言撤回だ。この男は俺の喉笛など狙っちゃいない。
「え、違うの……?」
「いや」
「じゃあなんだよ……」
セフィロスは、自分の口に当てていた指で、通路先を指さす。
それを見てザックスは不思議そうに首を傾げ、その指先を視線で追った。
「いいのか? 今の電話は」
「あっ! そうだった!」
だっだっだっと、ブーツを鳴らして走り出す。――嗚呼、また俺への注意など消え失せて、後から後から迂闊なことだ。
そんな男が、突然声を上げて振り返った。そして、通路の向こうでばっと手を上げる。
「セフィロス、今日は話してくれてありがとう。またな!」
——またな、とは。
手を上げて振り返してやりたい気持ちも湧いたが、やめておいた。何せ、ザックスはもうセフィロスの方など向いていないのだから。
次から次へと迂闊な奴だ。しかし、それに振り回された自分も、今日に限ってはどんなに迂闊だったことだろう。
「随分素早く反応できるようになったものだ。ブージャムでも狩れそうだな」
「……ブージャム?」
不思議そうな顔をして小首を傾げる。そんなザックスに、セフィロスは僅かに目を細めた。
「昔の童話に出てくる架空のモンスターだ。とても俊敏らしい」
「アンタから童話の話が出てくるなんて意外だ……」
「……ここ暫くで、随分と本を読んだからな」
「ふーん……」
ぶーじゃむ……耳慣れしない言葉をたどたどしく呟く。名前からは姿形の想像もできない。どんな生物なのかもわからない。神羅の持つモンスターの資料を確認したとて、そのような名称のモンスターは出てこないだろう。
「じゃ、なくて! アンタが訓練相手してくれるって言うから来たのに、俺がシュミレーションしてるばっかりじゃないか……! 監督はもう十分だって!」
「ああ、お前が……」
目を伏せてしまったセフィロスに、ザックスは口を尖らせた。
自分に何の問題があるというのか。素早く反応できるようになったという評価は有り難いが、それが目の前の英雄に有効かどうか、ザックスの疑問と好奇心はその一点に向いている。
「お前があまりにも楽しそうに戦うものだから」
「シュミレーションなんて、ちっとも面白くないね……」
「それだけ力が付いたんだろう」
「アンタはどうなんだ? やっぱり、俺がやってるレベルくらいじゃ楽勝?」
セフィロスの得物を一瞥して、ザックスが言う。
「寝てる時でも反応できるくらいだから、楽勝なんだろうな」
「根に持っていたのか」
「別に」
ザックスは、ふいと視線を逸らす。そして、シュミレーターのパネルへ向き直ると、それを操作しながら、「ぶーじゃむ……ぶーじゃむ……」と呟いた。モンスターの一覧から探しているが、やはりそんな生き物は存在しない。
「スナークだ」
「なんだって?」
「ブージャムは、スナークという種に属す怪物だ。ただし、本来のスナークよりも凶暴とされる」
「そりゃまた……随分と風変わりな名前なんだな?」
すなぁく? と呟きながら、やはりそのモンスターの名を探しているザックスの背中に向かって、セフィロスが歩み寄る。
「駄目だ。出てこない」
「職も能力も異なる何人もの人間がスナークを狩ろうとしたが、誰一人として捕らえることができない。しかし、仲間は別の怪物や、あるいは、ブージャムから襲撃を受けて被害を被る。目的は一向に果たせない」
「……それで?」
「最後に「ついにスナークを見つけた」と叫んだ男は、駆けつけた仲間たちの目の前から姿を消した。そこで童話は終わる」
「……そいつも、その……ブーなんとかに襲われたってことか? それとも、スナークって奴に攫われた……?」
「……別の説がある。仲間の中に、ブージャムと等しく危険な者が存在していたのではないかという説だ」
「……それで油断して消された、か。なんだか不気味な話だ」
特に、今自分たちの置かれている状況の中では、殊更セフィロスの話は悪趣味に思えた。だからこそ、彼もそんなおとぎ話を読んでいたのかもしれない。
実は怪物だった者が仲間を呼び寄せ、その後どうなるかなんて、物語の相場は決まっている。そこで話が終わるというなら尚更だ。
「今はあんまり読みたくない話だな……」
現実にだって、消えてしまった男がいる。ザックスは、僅かに眉根を寄せた。
溜息を吐いて、自身の真後ろに立っているセフィロスを振り返る。童話のモンスターなんて調べずとも、もっと調べるべきものがある。
「俺たちも、その消された奴になるかもしれないってことか? それとも、ブージャムのような者に……?」
「お前はどう思う?」
「言わせるなよ。そんなわけないだろ。絶対に有り得ない」
これ以上は御免だ。
セフィロスの目が、ぎらと煌めく。残ったソルジャー・クラスファーストは、ザックスを除けば彼だけだ。――絶対に有り得ない。ザックスは確かめるように頷く。
「お前が言うと、そんな気がしてくる。根拠も何も無くてもな」
「だろ? 大船に乗った気でいろよ」
どんと胸を叩いてみた。それで様子のおかしい英雄に何か報いることができるなら、いくらでも強く胸を叩いてやろうと思う。
長い前髪の向こうで目を丸くしたセフィロスに、ザックスはわざとらしく見せ過ぎたろうかと僅かに不安を覚えたが、何ということはなかった。
「……今のお前なら、眠っている俺に近付くくらいはできるだろう」
そんなことを言われて、嬉しくならないわけがないのだ。ザックスは飛び上がりそうになるのを抑えて、口角を上げて見せる。
「マジ? 意外だ! セフィロスがそんなこと言うなんて」
噛み締めれば噛み締める程、体の内側から力が湧いてくるような気がした。
「……そうだな。でも、今はアンタの寝込みに何かしようって気にはならないかも」
――あの時、俺は何をしたくて貴方に近付いたんだったか。
「うん……精々、名前でも呼んで起こしてやるくらいだ」
「……名前を呼んで……? されたことがないな」
不思議そうに言うセフィロスに、ザックスは逆に首を傾げる羽目になる。
いやいや、俺なんてお寝坊の達人だったケド……なんて、今は言わない。過去の話だ。過去の。
「起こされる必要が今までなかったってことかぁ? 一度も? なんだよ、お利口さんだなぁ……」
「お前はどうなんだ」
「お、俺のことはいいんだよ……!」
とてもではないが、お寝坊の達人なんて言えない。
しかし、だ。他人に起こされたことがないなんて、尚のこと興味が湧く。一番乗りってやつになれるのかもしれない。一番は好きだ。
「……そう、だな。やってみたいな。おい、起きろよセフィロス、寝冷えするぜ、ってさ」
それが、敬愛する相手の一番なら尚更だ。
「……機会があればやってみろ。楽しみにしている」
ザックスの気持ちを知ってか知らずか、セフィロスは涼しい顔をしてそんなことを言った。
「ちぇ、なんだよ。余裕だな……」
――楽しみにしてるだなんて、言ってくれるぜ。
「見てろよ、絶対起こさないように近付いてやる。俺がアンタを起こす第一号になってやるんだ。急に声掛けられて驚くなよ?」
勝ち気にそう伝えれば、目の前の涼しげな表情が静かに微笑んだ。
その微笑みに報いたい。ザックスは確かにそう思った。
【 to be continued 】
暗闇の中、目に映るのは不気味な機械のサインと魔晄の光。どくどくと血脈を送る早鐘。これは、自分の心臓の音だ。他には何も聞こえない。 正面に立つ。まるで夢を見ているようだ。あってはならない、まるで、夢のような――目を覚ましたくなるような現実。絶対に有り得ない。俺は、こんな場面なんて望んじゃいなかった。 「セフィロス!」 ――お前、どうしちまったんだよ。 そう名前を呼んだ先、彼は、目覚めの挨拶の約束を覚えていただろうか。