朔に触れる


月は、見え方、場所、寄り添う季節や気候、時代によって、数多の形と呼び名を持つ。それはもう記憶しきれないほどの名を。
 
「おまえ、月が見えないのが怖いのかい?」
髭切がそう尋ねると、膝丸は「怖いという話ではなくて、闇が深ければ警戒するのは当然だろう」と呟いた。
早口で呟いたのは、兄からの言葉に自身が思わず動じたから他ならないのだが、大切な兄に対してあからさまに無礼な態度を取った自覚はある。少しだけ俯く。
そして、顔を上げて一呼吸置いた。
「すまない、兄者」
「何がだい?」
「俺は今、兄者に冷たい物言いをした」
「そうかな? そうは感じなかったよ。それに、おまえは当然のことを言っているね。今は、ほら、こんな穏やかな縁側にいるものだから、僕も安心しきってしまっていたなぁ」
それに、と髭切は続ける。
「ここには、おまえもいるしね」
兄の言葉に、膝丸は背筋が伸びる思いがした。ああ、この強く美しい兄に信頼されているのだ、という自信が膝丸の胸の内を満たしていく。
ついと視線を上げれば、そこにはやはり月はなかった。新月の夜なのだ。それで当然であるが、それでも、膝丸の隣にはまごうことなき美しい月がある。——膝丸にとって、それは髭切に違いない。
月がないのは、怖い。否、切ない。
「弟」
「どうした、兄者」
膝丸がぼんやりと髭切を見ていると、髭切がゆっくりと瞬きをした。琥珀色の瞳が、宵闇の中の限りある光をありったけ吸い込んだかのように不思議に輝く。
「僕はね」
「ああ」
嗚呼と思い、膝丸は自分の頬を撫でる。自分にも、確かにこの琥珀色が存在しているのだ。人の形をした顔面の皮の内、頭蓋に嵌る形で、兄と同じだろう琥珀色が収まっている。
「おまえの黒い着物、好きだなぁ」
同じ、だけれど違うもの。
「突然どうした」
「新月の夜は暗いし危ういけれど、おまえのその黒い着物はとっても似合っているし、ちっとも恐ろしくない」
「そうか?」
有り難きしあわせ、である。兄が褒めるのなら、きっと似合っているのだろう。
「それに、知ってるかい? 黒というのは、お天道様の光をよく吸い込むんだって」
そう言って、髭切は膝丸に向き直る。水面を掻き分けるかのようにゆったりと腕を伸ばし、そうして膝丸の肩口に触れた。着物の布地を撫でて、それからふふっと笑う。
琥珀色が、ゆるりと細くなった。
「おまえは、あたたかいね」
思わず目を見開いた。自身に触れる髭切の手に手を重ねれば、少しひんやりとしている。
「兄者、中に入ろう。風が冷えてきた」
「うん、そうだね。月のない月見も、そろそろやめにしようか」
そんなことを言って湯呑みを持ち上げた兄の顔を覗き込む。少し子供染みた挙動かもしれないが、膝丸の方がほんの僅かに背が高い。こうする他なかった。
「こちらから見えなくとも、月はいつでも見守っていてくれる。俺は、そう思う」
そう言って微笑む。兄のように綺麗に微笑むことができたかどうかはわからない。
けれど、髭切は膝丸の言葉ににこりと笑って頷いた。だから、恐らくうまく笑えていたのだと思う。