Self-centered man


幽霊に出会すことがある。それも、かなりの頻度で。
大抵の場合は無視して通り過ぎれば、黒い目玉が黙ってこちらを見ているだけだ。目を合わせたって魂を取られたりはしないし、呪われたりもしない。現実の方が、余程死の呪いと隣り合わせだ。そういう呪術を使うモンスターだって山ほど存在している。それがこの現実だ。
この星には、不可思議なエネルギーが満ちている。他の星はどうだか知らない。少なくとも、この星はそうらしい。ライフストリームと、そう呼んでいる。少し前までは、この力を吸い上げて人々の生活を過度に豊かにしていた。そう、過度にだ。本当は、星の命を削るほどには必要がなかったことを、ここ数年で知った。
知人は、そのエネルギーの流れを尊いものだと言う。尊い物だと扱う。
けれど、俺からすればどうだろう。目の前に揺れる煙草の煙を見ながら思う。俺からすれば、こういうものなのかもしれない。もっと言えば、墓地を埋め尽くす泥のような、あるいはその中に住むカエルのような、そういうものかもしれないと思うことがある。
人は、死ぬとライフストリームに還るのだと言う。ならば、と思う。ならば、俺にはそれが、連なったカエルの卵にも思える。
おお、うまいこと言った。カエルは還る、ってな。いや、ちょっと寒いぞ、と。
人殺しはいくらでもやった。それ以外にも、人に忌み嫌われそうなことは山ほど。数なんて数えたこともない。数えようと思ったこともない。
だから、幽霊に出会すことがあるんだ。だからと言って、どこのどいつだかさっぱり覚えちゃいないが、そういうもんだと思って眺めている。通り過ぎる。
「こいつは、随分綺麗なカエルだぞ、と」
けれど、その日は足を止めてしまった。煙草をもみ消して放った。何故なら、珍しいオネーチャンが立ち尽くしていたからだ。
顔を上げたカエルは、街の片隅に佇んでいた。冷たい石畳の塀に寄りかかるようにして立っている。赤い髪が、炎のように揺れた。
「カエルですって?」
「ああ、こっちの話」
綺麗な顔をしている。けれど、彼女の左目には光がなく、ぽっかりと空いた闇がこちらを見ている。右目は、どうだろう――前髪の向こうには僅かに陰った瞳が覗いている――安堵して、小さく溜息を吐いた。
そこにいるカエルは、風に吹かれて時折揺らぐ。実在はしちゃいないだろうなと思う。当然だ。当の昔に死んだんだからな。
「呼び方も忘れたってわけ」
「ああ、まぁ、覚えてるぞ、と」
「それにしたって、カエル……あ、カエル……」
石畳の隅を、偶然にもアマガエルが跳んでいる。もう少ししたら雨でも降るのかもしれない。
煙草を吸いたいと思った。けど、湿気るだけなら勿体ないとも。
「カエル、じゃなくて、シスネ」
「今呼び間違えなかった?」
「気のせいだぞ、と。どうした、幽霊が応じてくるなんて珍しいもんだ」
「レノが足を止めちゃったからじゃないの?」
「……そうかもな、と」
ふと気付けば、足を止めていた。革靴を見下ろして、それからこめかみを叩く。
「こいつはしくじったぞ、と」
シスネの髪が、街灯のじりじりとした灯りを受けて赤から橙から、緑にまで光る。プリズムみたいなそれを眺めながら、死人だというのに綺麗だなと思った。一番綺麗な時に死んだんだろうな、とも。
「……じゃあ、さっさとおいとまするか。魂のひとつでも取られそうだぞ、と」
「魂のひとつやふたつ、取られたって気にしないでしょう」
「ああ、おっかないこと言うオネーチャンだな」
シスネの前を通り過ぎ、振り返れば、黒い穴になっている右目の奥で赤い何かがちかりと光った。まるでマテリアみたいだった。
一方で、足首に何かが纏わり付いて離れない。そいつはまるで、泥水か、やっぱりカエルの卵のようだった。ひとつずつ孵化して、そいつらはきっと自分の髄を蝕んでいくんだろうと思っている。
シスネは、目に見えないはずのそれを左目で追っていた。
「重くないって顔してたのに」
「何が?」
「今、重そうね。すごく」
踵を擦った。
「どうだろうな」
「甘いよ」
カエルの卵は膝の上まで上がってきて、それから腰や肩口にまで絡みつく。だが、狼狽えて振り払うようなことはしない。
街灯が、じりと音を立てた。ちかちかと不安定に点滅する。灯りが消えると、シスネの左目だけが赤く光った。
「甘くなったわよ、レノ」
「生きてれば丸くもなるもんだぞ、と」
「祟り殺されるのを待つのは、丸くなるとは違うんじゃないかしら」
ぞるぞると蠢く卵の影が、シスネの影から生まれた真っ赤な炎に焼かれていく。魔法か何かかと身構えて伸ばしたロッドは役に立つ間もなく、シスネの炎はカエルの卵だけを焼き払って消えた。
「オイ、スーツ焦げてないだろうな?」
「さぁ? 後で確認したら?」
「雑だぞ、と」
「雑にしたって死にやしないでしょ」
「それもそうだ」
左手に握ってしまったロッドを見て頷いた。呆れるくらいに死ぬ気が無い。
ロッドを片付けて、揺らめく炎の女を見る。右目は静かに瞬きをして、焼けた傍から再び石畳を這うカエルの卵を見ている。
「キリはないんだぞ、と。山ほど殺しているからな」
「……死者の命が綺麗で純粋で、浄化されたものだなんて、そんなわけないものね」
「ああ、少なくとも、俺は」
――いや、俺たちは。
「そう思うぞ、と」
シスネが右目を覆って、それから静かに頷いた。
「でも、レノが引きずって歩くことない、と、思う」
「お前も十分甘いんじゃないか?」
ああ、やっぱり雨が降るんだ。前髪の間を雨水が掠める。頬を拭ってシスネを見れば、その湿気を睨んで青く光った。
「戻れよ」
声を張って、そう言ってやる。雨が弱点の身なんだろう。街灯は相変わらずジジジと音を立てて、点いたり消えたりを繰り返す。
「レノも早く帰りなさいよ」
お節介な幽霊を見送った。炎の女はしゅるりと消えていった。煙の靄だけが残る。雨水で身が削れていやしないだろうな?
「あーあ……」
幽霊と話すなんて、似合わないことをするもんじゃない。
しとしとと降る雨はスーツを濡らして、重く重く、ただでさえ可視してしまったカエルの卵が重いってのに――さっさと産まれてどっかに行きやがれ。
恐らく半永久的に閉まっている商店の軒先に潜り込んで、破けた屋根を睨む。
ポケットから出した携帯を開いて、調子を取り戻せそうな相手の連絡先を探した。こういう時、ルードは駄目だ。察しすぎるから。かと言ってイリーナは喧しいし、ティファに慰められたいとも思わない。殺されそうだしな、と――そうだ。そうだ、きっとそいつがいい。電話に出ても出なくてもいい。こんな夜更けに、まさか走り回ってはいないだろう。
「あー、俺だよ、俺」
昼間よりは余程通じる電話に向かって、あえて馴れ馴れしく話しかける。運が悪ければこのまま切られるが、それはそれだ。
『……切る』
「だー……待てって! 待った! ストップだぞ、と、クラウド!」
幸いにも、一言あってからの切断だった。つまりは切られないってことだ――甘いんだぞ、と。
『要件はなんだ』
「お前、今どこにいる? 仕事の、そうだ、依頼をしたい」
『何故セブンスヘブンに掛けない……』
「察しの良いオネーチャンがいるからだぞ、と」
つまりは、察しの悪いお前が都合が良いってことだ。
『きな臭い。切る』
「だからどこにいるのか聞いてるだろ。質問には答えるもんだ」
『貴様に言う筋合いがない』
「……それもそうだぞ、と」
はーあと思って、軒下にしゃがみ込んだ。湿気ても気にしない。携帯電話を持った別の手で煙草の箱を掴んで、唇に一本挟んで引き抜いた。ジッポライターで火を灯して、長く長く吸った。その代わりに、ゆるく煙を吐き出す。
まるで深呼吸だった。
『お前の方こそ、どこにいるんだ……?』
「どこだと思う?」
『ふざけてるのか』
「……あー、墓場みたいなトコだぞ、と。さっき幽霊にも会った」
『幽霊? モンスターか?』
「似たようなモンだぞ、と。スーツを焦がされたみたいだ」
「……バカなのか」
「ははは」
バカだと思う。少し落ち着いてきているこの状況は、心のそこから馬鹿らしい。
『何がおかしい……』
「あー……俺?」
石畳に雨粒が弾けて、カエルの卵が地を這っているのが見える。見えるわけじゃない。見えていないとならない。そう戒めている。だから、あるものとしているだけだ。
シスネの「甘いよ」という言葉が頭の中に木霊する。
『お前、酔っ払ってるのか……?』
「酔ってお前に連絡すると思うか?」
相手が言葉に詰まる。何を言っても地雷になることに気付いたんだろうと思う。ニヤニヤとする。煙草を指の間に挟んで、頭を擦った。
『……レノ』
十分に考えただろうクラウドの声が鼓膜に届いた。
『お前、死ぬのか……?』
息が止まった。
こいつは傑作だ。死ぬ直前に、何度戦っても勝てなかった相手に電話する? 声を聞く? なんて三文小説だろう。まぁ、小説なんて読まないが。
「あー……」
だが、クラウドが考えたストーリーにしちゃあ可愛らしいもんじゃないか? 上出来だ。
「で、お前、今どこ?」
雨の音が強くなる。持ち上げた煙草は随分短くなって、湿気って煙だけが上がっていた。耳元で、固唾を飲む音がする。ああ、ヤケにエロいなこれは、なんて考える余裕がある。
『俺、は』
「……あー……いや、もう限界みたいだぞ、と」
『レノ……?』
「良い夢見ろよクラウド」
『何を言って……お前のせいで、最悪の夢見になりそうなところだ』
「そいつは嬉しいな」
『おい、ふざけてるのか……! レノ……?』
「じゃあな。また連絡するぞ、と」
歯を噛み締めて口角を吊り上げた。なんだ、最高に愉快な気分ってヤツだな。そうそう、俺っていうのはこういうもんだ。
「次に顔を合わせたら、殺されそうだぞ、と?」
全力で殴り掛かってくるも良い、斬り掛かってくるも良い。冷えた体の内側で、背骨がゾクゾクとする。感電したように、喉奥からくくっと笑いが漏れた。
雨水の中を這っていたカエルの卵が、ぞるぞると散っていく。
「ああ待てよ。もう少し付き合ってもいいだろ?」
罪悪よりも勝る狂気。仕方ない。今は、オフだからな。
湿気った煙草を放って立ち上がる。もう声のしない電話口に改めて唇を寄せた。途端に、画面が光ってバイブする。
「ははっ」
珍しいこともあるもんだ。掛け直してくるなんて。
出るか出ないか悩んで、そのまま携帯をポケットにねじ込んだ。もう少し、相手の考えたストーリーに乗ってやりたい。いや、やりたい放題してやる気持ちになったし、何より――
「……先に、スーツが焦げてないか確認しないとな」
雨の中革靴を踏み出したところで、カエルの卵はついては来なかった。目を細める。見ろよシスネ、俺は全然甘くなんてなってない。
「結局は、自分本位ってことだぞ、と」
取り殺されるより先に、あの仏頂面に睨み殺されたいなんて(大人しく殺されてやる気もないんだぞ、と)、雨の中、甘ったるい殺意に身を焦がす。
ああ、だから、スーツが焦げてないか確認するんだったな。