Mellow Gravity





嬉しそうな、驚いたような顔をした三月の顔を見た時、あの場所を選んだことが良かったのか悪かったのか、大和にはわからなくなった。
(まぁ、親父にもおふくろにも会わせるつもりはないけど……)
カーオーディオのラジオからは、若手バンドの新曲が流れている。助手席の三月は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。ちらりと盗み見ても、後頭部しか見えない。
「スケジュール合わせたら、遅くなっちまったな」
大和と三月のスケジュールをなんとか合わせてもらえたのは、一ヶ月半後のある日だった。そのお陰で、着物の用意もできたのだが。
「ミツ、もっと早めが良かっただろ?」
「大和さんこそ、悪いな。もう次のドラマの撮影始まっちまっただろ」
「ああ、うん。でも、時間取れて良かったよ。ごめんな、お兄さんがワガママ言ったから」
ゆっくりと振り返った三月が、何とも言えない表情で振り返った。
「なんで謝るんだよ……」
――なんとなく。

無事に放送された三月の日本舞踊チャレンジは、なかなかに見応えのあるものだった。
三月が溢していた通り、小学生の男女に囲まれて稽古に励んでいる三月は、常に真剣そのものだった。女の子に囲まれている場面だと、流石に際立って男らしい。
足運びやすり足での移動、所作を学んだ後は、初心者向けの演目に向けての稽古が始まる。番組企画である短期間チャレンジのつらいところであるが、本来なら何ヶ月も稽古に励むところを、みっちりと連日詰め込まれるのだ。疲れないわけがない。
三月が最終的に踊る演目である関の小万は、父の敵討ちを胸に誓っている小万という女性が、花笠を携えて踊る演目となっている。渋紙色の着物を纏った三月が、手に持った扇を花笠に見立て、ゆったりと華やかに舞う。時折、ほわりと溢れる笑顔が愛らしい。
ほう、と見とれている間に企画の枠は終わり、大和は暫く自分の部屋で放心した。
唄にあるように、こいつは月まで笑顔になってしまいそうなものだった。

「そういえば、玉兎調べたよ」
「あ、ああ」
三月の番組内チャレンジのことを思い出しながらハンドルを握っていたので、掛けられた三月の声に反応が遅れた。
「オレに、かちかち山のうさぎになれってか?」
「そうそう、なかなかひょうきんだよな、あの演目。ミツなら似合うんじゃない?」
「おーおー、火点けるついでに、一蹴り食らわせてやるよ」
三月の呆れたような返しに、大和は思わず笑った。
「月夜の晩に餅つくのもさ、合ってんじゃん」
「そうかもなぁ……」
月夜の晩に、よく三月の練習を眺めていた。そんなに時間が経っているわけでもないのに、ひどく昔にそうしていたように感じる。
「あんたは、そんなオレを見ながら好き勝手に酒飲んでんだ?」
「いいねぇ。月見酒」
「顔面に団子餅食らわせてやる……」
かわいげがなくてかわいい。
「……大和さんさ」
「うん?」
「……なんか、オレに遠慮してる?」
キッとブレーキを踏む。三月の言葉のせいで踏んだわけではない。ただ、目の前の信号が黄色になっただけだ。
十分に間を置いて、大和は「そんなことないよ」と言った。
「なんでそんな風に思うの」
「だってさ、なんか、大人っつーか……おとなしかったじゃん」
「まぁ、見ての通り、大人のお兄さんですから」
「言ってろよ」
三月が、じっと大和の横顔を見ているのがわかる。わかるが、視線は合わせない。運転中なのもあるが、三月の目を正面から見てしまうと、抑えている何かが溢れてしまいそうだった。
「なぁ、オレ、あんた一人分くらいの話、聞けるよ。心配しなくても大丈夫だよ……」
三月の言葉で、三月の気持ちを伝えてくれる。
眩しい。隠してしまいたくなる。大和はつい眼鏡を上げて、それから笑った。
「心配はしてない……って言ったら嘘になるけどさ」
信号が青に変わる。踏んでいたブレーキを緩めて、穏やかにアクセルを踏んだ。三月が、自然とフロントガラスの方を向いた。
「俺の中の問題なんだ」
「……格好つけてる?」
「めちゃめちゃ格好つけてる。好きな子の前だから尚更だよ」
「好きな子も何も……」
三月は口を尖らせながらシートに沈み込んだ。しかし、慌てて、後部座席を振り返る。
「誰もいないだろ?」
「いるだろ」
「い……」
助手席を見なくても気配でわかる。ぎこちなく首を回した三月が、ゆっくりと大和の方を見た。それを、横目でちらりと見てやる。すぐに視線を戻した。
「お、おっさん、そういう言い方やめろよなー……いつまでやるんだよ……」
「マジか冗談かもわからなくなっちゃったのかー、三月クンは……」
「あんたのは特にわかんない」
「心外だなぁ」
真剣か冗談か、どっちに取られても、今この場でどうこうできるでもない。目的を果たすまで有耶無耶でも良いかとも思うし、正直、照れくさくて、三月を正面からなんて見られなかった。
「あのさぁ」
「何」
僅かに気まずくなった車内で、三月が呟いた。
「着物は任せろって言ったけど、着付けどうすんの? 企画の中では衣装さんが見てくれたし、オレ、自分でうまくできないんだけど……まさか、大和さんがしてくれたりする……?」
「俺がやっても良かったんだけど、そこはプロにお願いすることにしたよ。着付けが安定してないと、踊り難いだろ?」
「それもそうなんだけど……って、やっぱりあんたも着付けできんのかよ!」
ばっとシートから体を起こした三月に、大和は少しびくりとする。
「まぁ、一応……」
「はー、器用だよなぁ」
「覚えちゃえば、あとはコツと力加減だよ。八乙女もできるし」
「へぇ? そんな話したんだ?」
シートに体を落ち着け直した三月が、そりゃまたなんで? と尋ねる。
「マネージャーに着せたくて、勉強したらしいぜ」
ぶはっと三月が吹き出す。
「なんだよそれ!」
「酔っ払って口滑らせてた」
「あんなイケメンなのに、なんつーか……可愛いところあるよな……仕方ねぇ。内緒にしといてやるか……。まさかとは思うけど、おっさんも下心があってできるわけじゃねぇよなぁ?」
「まぁ、役に立たないこともなくはないけど、俺の場合は家のせいっていうか……」
「……いや、役に立たないこともなくはないけど、ってことは、役に立つタイミングがあったってことじゃねーか……。したことあるんだ? 女の子の着物直したりとか……」
「ミツのエッチー、何想像したのー」
「うるせぇよ。誤魔化したな、今」
「まぁ、いいじゃんそんなことは」
「良くねぇっつーの」
なんで良くないんだろうと思いながらニマニマ笑っていると、左の太腿を三月にバシンと叩かれた。大和は思わず声を上げた。
「いって……! っつーか危ねぇだろ!」
「大和さん、安全運転でがんばってー」
「うっわ……棒読みじゃん。やる気失せる……」
隣でへらへら笑っている三月を見て、大和は咎めることを忘れて、ふっと肩の力を抜いた。
連れ出しただけでも収穫があった。ようやく、取り留めのない時間を過ごせているような気がする。
さっきの言葉が真剣か冗談かなんて、もうお互いの中でどうでもよくなっているような気がした。……今になってみると、そうあって欲しい気持ちもあるし、それで終わってしまわないで欲しい気持ちもある。その絶妙な距離を、三月とは常に保っていたい。
(いつか、この気持ちが決壊することがあんのかな)
三月とどうにかなりたい、だとか、我慢ならなくなることがあるんだろうか――そんな曖昧な境界線を、ずっと眺めている。
時々その線を踏んで爪先だけ覗かせてみたり、またある時は、勝手に境界線を増やしてみたりしているが、けれど、何をしても、三月はあまり咎めるようなことはしない。
(いつも、スルーされるか、受け止めてもらえんのに)
そういう言い方をやめろと言われた。――嫌、だったかな。
「着いたよ、ミツ」
「お、おう」
二階堂家の門を見て、三月の表情が緊張を帯びる。
「ははっ、なんて顔してんの」
「いや、流石に緊張するしさぁ……」
「誰もいないよ」
「え?」
「頼むから出掛けてくれ、部屋貸してくれって言っといた。まぁ、これから呉服屋さんが来るけど、親父もおふくろもいないから、気、楽にして」
大和がそう言うと、三月ははたはたと瞬きをして、それから妙な顔をした。何かを言い難そうにする複雑な表情だった。
「とりあえず俺、車庫に車置いてくるからさ」
「お、おう」
車庫に車を入れて、三月の元に戻る。表情の複雑さは解けていたが、それでもどこかよそよそしい。
「着付けのプロって、呉服屋さん?」
「うん」
門をくぐって、玄関から家の中に入る。やはり事前に人払いをしておいて良かった。三月を連れて大和が帰ったとあれば、父親がいそいそと何度も様子を見に来たに違いない。
折角三月と二人になりたかったというのに、それでは――それでは? と、振り返る。玄関で靴を揃えている三月と目が合った。
(……お兄さん、下心とか、無いからね?)
そう口を突いて出そうになったが、そんなの墓穴を掘るようなものだ。大和は無理矢理むっと口を結んで、三月の反応を待つ。
「呉服屋さんにまで知り合いがいんのかよ」
「親父の知り合いだよ」
「ああ、なるほどな」
考えてみたら、だ。好きな子呼ばわりしておいて、両親のいない自宅に上げるなんて、中高生だったらもう確実に「そう」ではないか? お互い成人済みのいい大人ではあるが、シチュエーション的に、確実に「そう」なのではないか?
先程の三月の複雑な表情を思い出す。
「あ、ミツ……マジであの、気使わないで、気軽に上がってくれていいから……」
「いや、こんな立派な家で気軽にって方が無理じゃねぇの……?」
「や、それは、あの……ごめん」
無駄にでっかい家でごめん……と肩を小さくしながら言うと、三月にぽんぽんと背中を叩かれた。
「いや、やっと来れて、嬉しい……よ?」
そのおずおずとした三月の言葉に、大和は思わずその場で蹲りそうになった。が、壁に手を突いてなんとか耐えた。
「いや、マジで、今まで色々ごめん……」
以前の誤魔化しややらかしが、いくつか頭の中を過ぎる。
「おーい、変なスイッチ入ってんぞ、おっさん……おーい、起きろ起きろ」
虚無を見ている大和の肩を、三月がぽんぽんと何度も叩く。そんな中、今大和と三月がくぐったばかりの戸が開いた。二人は、慌てて姿勢を正す。
「御免下さいませ」
そこには、中年の女性が、荷物を携えて立っていた。
「お着物お持ちしましたが、坊ちゃん、よろしかったかしら?」
坊ちゃん……と呟いて、三月がゆっくりと大和の顔を見上げた。あまりにも照れくさい呼び方に、大和は無言で眼鏡を上げることしかできなかった。

客間で三月の着替えを任せている間に、大和は台所でお茶を淹れている。おもむろに開けた冷蔵庫の中には、切り分けられたメロンがあった。そっと閉めておいた。
(折角だから食うけどさ……)
呉服屋の女将さんに出すお茶を盆に乗せて、客間に戻る。
「失礼します」
襖を開けると、ほとんど着付けを終えて、手直しを受けている三月と目が合った。
「お、可愛い~」
淡い橙の地に小花の柄をあしらった着物を纏った三月が、困ったような顔をしながら大和を見た。帯は渋柿色を締めてもらうことにした。鶯色でも良かったなぁとふと思う。
「なぁ大和さん、これって……その……」
「悪いけど女物だよ。男物だと、どうにも華がなくてさ。ミツはぱっとした色の方が似合うんだもん」
そう言うと、呉服屋の女将の手前、嫌な顔はできないが、それでも複雑そうな顔をする三月に、大和はせめて先に伝えてやれば良かったな……と少し後悔する。
けれど、女将がにこやかに笑って三月の背中をぽんと撫でた。
「近頃は、華やかな柄を求めて女物を着用なさる男性も多いんですよ」
「そうアドバイスもらってさ……一から仕立ててもらっても良かったんだけど、ちょっと時間が足りなくて」
大和が、そっと女将にお茶を出す。
「七人分、お仕立てのお話頂くのを楽しみにしてましてね」
「あはは……社長次第ですけど、頼むこともあるかもです」
慣れない家と着付けてもらった着物に、三月はそわそわとして落ち着けないでいる。
そんな三月にスマホを向けて、大和は「撮ってやろっか」と笑った。
「お、おう。どんなか見たい」
「よっしゃ」
女将が道具を片付けながら、その様子を微笑ましげに見ている。
「坊ちゃんに着流しでもあればねぇ、一緒に撮って差し上げるのに」
「そ、それはちょっと恥ずかしいんで……」
「いや、今オレの前でそれ言うか?」
「まぁまぁ」
そんなこと言ったって、やってくれると言ったのは三月なのだ。大和は、精一杯舞台を整えているに過ぎない。いや、自身の趣味が多分に漏れてしまっているが。
スマホで撮った写真を三月に見せると、「確かに、見慣れた色かも」と笑った。
「だから、お前さんに合う色が、男物だとあんまりだったからさぁ」
「それにしたって、せめて事前に言っとけっての……」
「それは思った……悪い」
驚いたのに違いはないだろうが、何だかんだ気に入ったようで、大和がついでに淹れた三月の分のお茶を口に含んで落ち着き出している。
「緊張したら喉渇いたわ……」
「緊張しなくていいのに」
「するだろ、キンチョー……なんだったら、本番より緊張するわ……」
そんな三月の言葉に、女将は口に手を当てて微笑んだ。
「皆さん頑張っていらっしゃるのを、いつも拝見してますわ」
「ありがとうございます!」
大和と三月の感謝の声が重なる。顔を見合わせ笑った。
女将はお茶を一服すると、「お暇します」と二階堂の家を出て行った。着物は後々、大和が呉服屋にお返しする約束にしてある。
女将を玄関で見送った後、三月がぽそりと大和を呼んだ。
「なぁ、大和さん」
借りている着物の袖を摘まみながら、静かに尋ねる。
「仕立ててもらうつもりだったって、マジ?」
「ん? そうそう。だって、男物の着物に気に入る柄がなかったんだもん」
「大和さんが気に入る柄?」
「そう。ミツに似合いそうな可愛いやつ」
シンプルな男物の着物の色合いや柄でも良かったのだが、折角三月を好きに着せ替えできるのであれば……と、女将に生地の柄について相談して正解だった。やっぱり華やかな方が可愛い。
「かっこいいやつの発想はなかったのかよ……」
「あるけど、どうせなら可愛くなると嬉しいなぁって思って」
「おっさんよー……」
「今日は、俺のお願い聞いてくれる日だろ。レンタル代も俺が出してるんだから、いいじゃん。柄、好きに選ぶくらい」
そう言えば、三月は口を尖らせながらもそれ以上の反発はしなかった。
玄関から客間に戻る廊下の途中で、大和はぐいっと三月の腰を抱き寄せる。
「うおっ……」
よろめいた三月が、大和に寄り掛かった。一息吐いてから、肘で大和の腹をつつく。
「……ったく、このエロジジイ……」
「エロいことしてないじゃん」
「手付きがエロいし、着物が乱れるだろうが」
ぺしんと手を叩き落とされた。思わず、ちっと舌を鳴らす。
「そりゃあ、お前が暴れん坊だからだろうが……」
「んなことねぇよ、失礼だな……」
客間に戻って、自分の荷物の中から扇子を取り出した三月が、「やるならさっさとやっちまうぞ」と腕を回す。
「三月さん、それ、日本舞踊の動きじゃないんですけど……」
「うるせぇな。やってやろうっていうオレの意気込みだよ。意気込み!」
何故か柔軟体操の動きをしている三月に、大和はつい吹き出す。
「折角綺麗な着物着せてんのに。これじゃあ、本当に七五三じゃん」
少しずれた合わせをそっと指先で直してやって、とんと三月の胸を叩く。
「暴れん坊め」
「悪いかよ……いや、着物乱れたのは悪いか……」
「まぁ、いいんじゃない? ミツらしくて」
胸に当てていた指先で、三月の額の前髪をそっと払ってやる。
目を閉じた三月の顔が、とても愛らしかった。瞬いたら音のしそうな長い睫に、幼さの残る顔立ち。けれど、すっと通った鼻筋が、彼が大人であることをどことなく感じさせる。
胸が騒ぐ。
庭先で、チチッと小鳥が鳴き声を上げた。その声で、はっと我に返る。目を開けた三月に笑って言った。
「始めるか」
「おう」
スマホに演目曲を入れていた三月が、大和に操作を頼んで渡す。そして、客間の真ん中に立った。
大和は部屋の隅に座る。「正面で見れば良いのに」と笑われたが、とてもではないが正面で迎えられる気はしなかった。
「大和さん一人しかお客さんいないんだから、来てよ」
「大丈夫かよ。足とか飛んできそうじゃん」
「飛ばさないように努力するわ」
そんなことしねぇよと言わないところに茶目っ気を感じて、大和は思わず苦笑した。
仕方なく、三月に呼ばれるまま、正面に座り直す。
お互いに一息つくと、三月がうんと頷いた。「始めよう」の意だろう。
三月は、その場に膝をついて正座すると、深々とお辞儀をする。扇子を開いて目の前に置いた後、立ち上がった三月の呼吸が整った頃合いを見計らって、大和は曲の再生ボタンを押した。
ゆったりとした調子の三味線の音と、女性の唄声が流れ出す。長唄・関の小万。
腰を低くしたまま掌をひらりひらりと返し、曲に合わせて足を捌く三月。一度、液晶の画面越しに見たものが、今は目の前で振る舞われている。
曲の中頃から、足下に置いていた扇子を持ち上げ、それを花笠に見立てて舞う。花笠に視線を向けさせつつも、真剣な表情が見る者の視線を絡め取っていく。
(女踊りとは言え、男が踊っても様になるもんだな……)
父の仇討ちを胸に秘めた小万の華やかさと、鬼気迫る何かを感じさせる舞に、大和は忘れていた呼吸を思い出し、息を吸った。吸った息を薄く吐く。漏れたのは、間違いなく感嘆であった。
客は一人しかいない。三月の視線は、必ず大和に向く。当然ながら、胸にくるものがある。
あっという間の数分感だった。曲の終わりに、大和は思わず拍手をする。
三月はと言えば、そっとまた膝を折り、正座をすると、深々と頭を下げた。
「……はー緊張した!」
顔を上げた三月は、いつもの三月に戻っていた。
「良かったぞ、ミツ! テレビでも見たけど、良い物見せてもらったわ」
「へへ……面と向かって言われると、流石に照れるな」
うっすら汗をかいているのか、手の甲で額を拭う。
「タオル持ってこようか?」
「荷物に入ってるから大丈夫」
三月はよっこいせと立ち上がると、自分のバッグの中からスポーツタオルを引っ張り出す。
「脱がすの勿体ないなー、思ってた以上に似合ってるし」
大和が何の気なしにそう呟くと、三月の肩が僅かに強張った。
どうしたんだろうと思いながら、戸惑いがちに振り返る三月を見ている。少し、耳が赤い。
「オレ、脱がされるんだ……?」
「そうそう、脱がしたら、そのまま帰りに呉服屋寄って返すからって言ってあ……」
肩口に振り返っている、そのうなじが色っぽいなぁ、なんて思っていた時だった。するすると自分の口から出ている言葉の、その違和感に気付いたのは。
「……いや、その」
いつもみたいに軽口で誤魔化せばいいのに、そう思うのに、ついどもっていた。
気が付けば、耳の奥でドクドクと心臓の音が響いている。早鐘を打つその音に、ふらりと視線を逸らす。
「……それじゃ、脱がしてもらおっかな!」
妙な緊張感が一気に霧散する。
袖を摘まんで、三月がぱっと両手を横に広げたのだ。大和は、ずるりと下がった眼鏡を持ち上げた。
「下心、ねぇんだもんな?」
ニヤリ、三月が笑う。挑戦的なその表情に、大和は思わず、口元をひくりとさせた。
「色気ねぇなぁ!」
「うるせぇよ。ぼーっと見とれてたくせに」
「ぜっ、全然見とれてねーし……冷蔵庫にあったメロンのこと考えてただけだし?」
「うっわ、なんだ、メロン用意してもらってたんだ? 良かったねー、大和くん。メロン大好きだもんな~」
「く、クッソ……! テメェ、後で覚えてろよ!」
背中の帯を見せながら、三月が「早く」と爪先立ちをした。ぴょこんとした仕草が可愛らしい。背後から見ても、やはり大和の見立て通り、とてもよく似合っていた。
「……あっと言う間に見納めかぁ。勿体ないなー……やっぱり仕立ててもらおうかなぁ……」
「いや、着物って高いじゃん……オレ、そんなの貰えないって……」
帯を解きながら、つい笑みが溢れた。なるほど、脱がすのもやはり乙なものではある。さっきからかってくれた仕返し、もといお返しに、大和は三月の耳元で囁いた。
「重い?」
三月が、ぎょっと肩を震わせる。
「そ、そりゃあ……流石に気が引けるよ」
帯を緩めて下ろしてやって、その下の腰帯を外す。背後から着物の合わせに手を掛けた。必然的に、後ろから抱き締める形になる。
「だからさ、俺から離れられなくなるだろ?」
三月が、はっと息を吸ったのがわかった。身動きの取れない状態でいる三月を抱き締めたまま、少し屈んで頬を擦り寄せる。
腕の中の三月の体温が熱い。長唄を一つ踊ったばかりだ。体温が上がっていてもおかしくはない。
三月が返事も反抗もしないのを良いことに、大和は黙ってそのままでいる。
――ちょっとくらい、わかればいいんだ。俺が、わりかし本気だってことを。単なる軽口や、冗談じゃないってことを。少しくらい、ミツもわかればいいんだ。
「……あのなぁ」
暫く黙っていた三月が、ようやく口を開いた。離せと言われるかもしれない。押し退けられるかもしれない。大和の手が僅かに緊張する。
「そんなもん貰わなくたって、離れたりしねぇよ」
「へ……」
三月の肩に乗るくらい近付けていた頭を、わしわしと撫でられた。
「今日さ、たくさん大和さんと話せて楽しかった。ごめんな、寮のこともしてもらって、構ってもやれなくて。寂しかったんだろ?」
わしわしと、やわい手付きで撫でられる。
大和は思わずぱちぱちと瞬きをした。
「気付くのが遅れて、ごめんな」
そう呟く三月に、大和は何故だか泣きそうになった。
茶化されているわけでもなく、ストレートにただ甘えていると取られているのだろうか。撫でてくる三月の手は、どうしようもなく優しい。
「……寂しかった」
「うん。帰ったら、大和さんの好物作ってやるからさ。買い物して帰ろうな」
「うん……」
ここまでしても伝わらないのかなという気持ちと、でも、これが和泉三月だもんな、という気持ちで心の中が綯い交ぜになる。
「あ、でもその前に、用意してもらったメロン食べないと」
綯い交ぜになった濁流のような感情に、押し流されそうだった。大和には、「うん」という単純な返事しか出来なかった。
抱き締めていた腕を緩めて、着物の袖から三月の腕を抜かせる。襦袢は自分で脱いだ三月が、さっさと着てきた洋服に着替え出した。大和は、三月に背中を向けて、着物一式を畳んでいる。
「……あのさぁ、大和さん」
シャツに袖を通した三月が、畳んでいる着物に視線を落としている大和の隣にしゃがみ込んだ。
「ん……?」
大和は、精一杯平静を装って三月の方を向く。表情には出ていない。きっと大丈夫だろう。
「もし、オレの勘違いだったら、その、なんて言うか、申し訳ないんだけど、さ……」
 じっと、三月を見つめる。申し訳なさそうに笑う三月が何を言おうとしているのかわからないまま、大和は首を傾げた。
「嫌だったら、メロンで口直ししてもらうってことで……」
「口直し?」
何をだろう。三月の料理をということなら、何が出てきたって口直しなんて必要ないのに。
「何を」と言い掛けた大和の肩に、三月がそっと手を置いた。なんだろうと思っている内に、唇の端に柔らかい感触が落ちてくる。
ゆっくりと離れていくその感触と、瞼を伏せていた三月の表情に、大和の頭は、じわりじわりと状況を理解していく。持ち上がっていく三月の瞼の奥には、ふらりと揺れる大きな瞳があった。目が、合う。
「……ミツ?」
「えーっと! ごめん! トイレ! トイレどこ?」
明らかな動揺。跳ねるように立ち上がった三月が、そのままの勢いで廊下に飛び出す。大和は反射的に、「廊下突き当たったとこ!」と返したが、呂律がうまく回らなかった。
さーっと走っていく三月に、人の家の中走るなとか、逃げんなとか、今の何、だとか、言ってやりたいことは沢山あったが、今の大和にはどれもこれも言えないまま、ただ、一人になった客間ですとんと肩を落とした。
思わず、唇を押さえる。急に汗が噴き出して、頭全体がぼっと発熱したようだった。

「人んちで迷子になるか普通……」
「だって、広いんだもん……」
結局、あのまま二階堂の家の中を走っていった三月は、あろうことか家の中で迷子になった。それを回収し、二人共無言のまま、切り分けられていたメロンを食べて車に乗り込んだ。
ようやく発した言葉が、先程の一言だった。
「広いったって、お前さんさぁ……」
「うるせぇな。仕方ねぇだろ!」
――仕方ない。仕方ない、ね。
思い出すと、ついニヤけそうになる。しかし、ここでニヤけようものなら、即刻鉄拳が飛んで来そうだった。
「メロンで口直しできたんだから、文句ねぇだろ……」
「お兄さん的には、口直ししちゃうの勿体なかったんだけど」
「よく言うよ。黙々とメロン食べてたくせに……」
「そりゃあ、メロンだし……?」
三月の言う通り、好物なので仕方ない。そう、仕方ないのだ。
「だから、もう一回して欲しいな、なんて」
「調子に乗るなよ、おっさん……」
「なんで! なんで拳準備してんの? ミツがしてきたんだろ!」
それはそうなんだけどさぁ……と小さくなる三月を心底可愛く思いながら、大和はついにニヤニヤするのを抑えられなくなってしまった。
「ニヤけんなよ! キモい!」
「ひっでぇ……」
「あんたにはわかんないだろうけど、あんな風に抱き締められたら、心臓ドキドキして、やばくて……これで、あんたから冗談だったのにとか言われたらどうしようかと思った……」
口元を手で覆って窓の外を見ている三月に、大和ははぁっと溜息を吐いた。
「あのなぁ、言っとくけど、俺だってめちゃくちゃドキドキしてたからな……」
「自分の心臓の音しかわかんねーよ! なんでも涼しげにこなしやがって!」
「お前……俺の気も知らないで……」
大和の方を見てくれない三月の後頭部をちらちらと確認しながら、ハンドルを切る。
呉服屋には着物を返したので、事務所の駐車場に車を返して、次はスーパーで買い物だ。地元の小さいスーパーなら顔なじみだから、多少目立っても騒ぎにならない。
「……なぁ」
「ん?」
助手席で蹲っていた三月が、ようやく大和の方を見る。ほんのり目元が赤い。とても可愛い顔をしている気がするが、運転中のために注視できないのが歯痒かった。
「満足、した? 今日……」
「ああ、すっごい満足。良いもん見れた」
「……でもさ」
「うん」
「オレ、やっぱりさ、大和さんと……あいつらと一緒に踊るのが好きだよ」
そんな三月の言葉に、つい笑みが溢れる。
「ライブ、やりたいよな」
「おう」
大和は事務所の駐車場に車を停めて、シートベルトを外す。そのまま、隣の三月の肩に頭を乗せた。
すりりと頭を擦り付けると、三月が慌てて車の外をきょろきょろと見渡す。
「誰か、見てるかも」
「事務所の人なら、じゃれてるだけだと思うって」
「そうかもしれないけどさぁ……どうしたんだよ、急に……」
そわそわしている三月に、ふはっと笑う。
「引力」
「またそれ……?」
「お前さん、自分の引力に無自覚すぎ。ミツの引力、めちゃめちゃすごいから」
そう言えば、何かに観念したのか、三月は戸惑いがちに大和の頭に自分の頬を擦り寄せた。
「大和さん専用の引力なんじゃねぇの……」
「そんなことないよ。皆、ミツのこと大好きだし、惹かれてるよ」
「でもさぁ……」
ぴったり、夕日が差し込んでいる車内でくっついている。時間の流れを、やけにゆっくりと感じていた。
「でも、今くっついてるのは大和さんだけだから、今のオレはさ、大和さん専用の引力を発してるんだと思うよ」
ちらりと視線を上げる。その先で、夕日に染まった三月が穏やかに微笑んでいた。
その橙があまりにも眩しくて、大和は目を閉じて頷いた。


【 終 】