光彩奪目を去なす -手を離れる話-


 そろそろ、この生温い空気に飽きてきた読者諸君もいることだろう。何故そんなことが言えるのかって? これを一から十まで眺めている俺自身が飽きてきているからだ。
 そこまで筆を走らせていたところ、烏天狗の手元を覗いた詠が、うんざりとした様子で溜息を吐いた。
「あんた、何でもすぐ飽きちゃうんだもんな」
「そうでもないぞ。興味が続くもんもある。これはわりと長い方だ」
 筆を置いて、烏天狗が笑う。
 詠はそんな烏天狗の文机に湯飲みを置いて、そっと腰を下ろした。
「重のこと覗いてるの、悪趣味過ぎるよ。烏天狗さんさ、妖怪使役しようとして失敗した人間に追い打ち掛けすぎ……です」
「どうした? 愚か者同士で乳繰り合おうとしたお前が、よくそんなこと言えるな」
 烏天狗がはんと鼻を鳴らした。詠の顎を指先でぐいと掴み上げ、そうしてドロップのような瞳を覗き込む。
「げぇ……やっぱり見てやがった……」
「暇だったからな」
「……乳繰り合おうとなんてしてないし……可愛い後輩だもん。しっかりお灸据えてあげたってば」
「たまに喧嘩した方が良いぞ。腕が鈍る。そうだ。俺が一本、勝負の相手でもしてやろうか?」
「嫌だよ! あんたからしたら、僕の背骨折るのなんて赤子の手を捻るようなもんだろ!」
 烏天狗の手を払い落とし、詠は畳の上に胡座をかく。気持ち、烏天狗と距離を取りながら、彼の手元の筆を見つめた。
 詠の悔しそうな声に、烏天狗は涼しい顔をして「まぁ、そうだ」と頷いて見せる。山の大妖怪にとっては、たった一人の人間がどんなに腕が立とうとも、然程驚異にはならない。
「研究経過って言ったって、重がこれ見たら流石に卒倒しちゃうと思うなぁ、僕……」
「なかなか頑張るもんだと思って記録を始めたら、これが途中までは面白くてな」
「今、どうなってるんです?」
 さて、どうなったかと思い千里眼を使ったところ、ここで面白くも何ともない人間らしさを見てしまった。故に、烏天狗は形だけ目頭を揉むような仕草をする。
「野郎、逃げやがったよ」
「え?」
「鎌鼬が食ってもいいと言ったのに、重の野郎、怖じ気付いて逃げやがったと言ったんだ……いや、怖じ気付いたのか? ……本当のところはどうなんだろうな。一つ飛んで行って確認してこようか」
 思い付いたとばかりに手を叩き、烏天狗が腰を上げようとした。詠が慌てて文机を叩く。
「ちょ、ちょっと、烏天狗……! さん! もう勘弁してやりなよ!」
「なら、同じ人間のお前が問答の相手をしろ。俺の思うところはいくつかあるが、それにしても、あいつは何故逃げた?」
 そう聞けば、詠は少し面倒そうに口を尖らせ、けれど溜息にも似た深呼吸をして座り直した。
「怖じ気付いたのは、そうだろうと思うけど……なんていうか」
 刀衆の装束から覗く自分の手を見て、詠が呟く。
「本当に手に入れていいのかって、思ったんじゃないかな……」
「俺や蛟をものにしようとした人間どもがか?」
「ぼ、僕の話は関係ないでしょ!」
 詠が反論すると、烏天狗は愉快だとばかりに目を細める。
「いい。続けて聞かせろ」
「えらっそうに……えっと、狙っているものならともかく、どう頑張っても手に入らないってわかってるものってあるじゃないですか」
 詠がおずおずとそう言えば、烏天狗は心底不思議な気分になった。思わず、「そうか?」と返す。
「あんたに手に入らないもんはないだろうな! ……だから、それが手に入った時、なんていうか……僕でいいのかなって、手を引きたくなるというか……」
「それが怖じ気付くってことだろ……?」
「ちょっと違うかな……怖くなるんじゃなくって、自分の中の欲の形に困惑する気持ちが出てきて、それで手を引いちゃう」
 自分の胸に手を当てて、詠が視線を落とした。こういう仕草をする時、人間は何かを思い出している最中なのだろう。
 烏天狗には、詠のこれまでが手に取るようにわかる。それこそ、千里眼を用いれば容赦など掛けることなく本当に全てわかってしまう。
「……お前、俺のことは狙えば手に入ると思ってやがったわけだ?」
 けれど、その「箱」を開けるのは、いつもどこか面白くないような気がして、烏天狗はまたしてもその「箱」からそっと手を離した。
 だから、茶化すように――代わりに、詠の失敗の話を取り出す。
「ま、まぁ……そういう、油断かな……」
「人間ってぇのは、愚かだねぇ」
 だからこそ面白いのだが。
 団扇をはためかせてそんな風に笑えば、詠はむっと顰めっ面になった。詠のあまりに子供っぽい表情に、烏天狗はにこりと微笑む。
 大変に愚かな人間だが、けれど、愛らしい顔付きをしているとは思う。
「もう、また僕の話してぇ……さては、飽きてきたんでしょ……」
「いや、別の物を書きたくなった。この才能が怖いな。文豪でも目指してみようか」
 話を終えたくなったのは本当だ。そのついでにでかいことを言う烏天狗に、詠は彼のこれまで飽きに飽きてきた書物の山を睨んだ。
 読み漁っては飽きていくのは真実であるから、およそ人間が読み切れぬだけの書物を識ってはいるであろうが……さて、それもいつまで保つか。烏天狗自身もそうは思っている。
 そんな時だった。詠が苦し紛れに呟いた。
「もうさ、歌でも作ったらどう……? それっぽっち書くのに飽きてるんだから、文豪は向いてないって……」
「歌……?」
 詠の言葉に、烏天狗は豆鉄砲を食らったような気分になった。
「あ、ああ、そうだよ。音楽? 詳しくは知らないけど、工程が多いだろうから、あんたでも続くんじゃない……?」
 烏天狗は、文机に出していた紙をそっと横に避け、そうして前のめりになる。座っている詠の顔を覗き込んで、長い髪を垂らし、言った。
「面白い。俺が音楽を作ったら、詠、お前が歌え」
「え……?」
 目をぱちくりと瞬かせた詠が、烏天狗の顔をじぃっと見つめる。
「お前の鼻歌は悪くない。だから、お前が歌え。俺の曲を」
「そ、そんなの、無理……! 一人で? 何考えてんだよ!」
「なら、俺もお前と一緒に歌う。それで良いな」
 慌てて体を引いて、立ち上がって逃げようとした詠の手を、烏天狗の一回り大きな手が捕まえた。この場所において、詠が逃げきることなど到底できはしないのだが。
「そ、そんなこと言ったって……僕に嫌ですって言う権利ないんだろ……!」
「よくわかってるじゃないか」
 逃げることを諦めた詠の手を、烏天狗はそっと離す。そうして彼の肩を叩いて、誰もが見惚れそうな上品な笑顔で微笑んだ。
「俺は、お前にはなかなか飽きない」
「あーあ……貧乏くじ引いてるなぁ……」
 詠は、烏天狗に押しやられてくしゃくしゃになった紙の束を一瞥する。
 まぁ、こんなにくしゃくしゃにするつもりはないが、はたらいた無礼の分はきっちり愉しませてもらわねばならないだろう。
 早速、次の興味に取りかからねばならない。こういうことをするから、飽き性だのなんだのと咎められるのだろう。
 いまだ不服そうな詠とその紙の束を代わる代わる眺めて、烏天狗はそっと手を叩いた。