光彩奪目を去なす -迷いと惑い-


 誰も彼も、自分に大事なものをくれやしない。玩具を目の前にぶら下げて、それで満足しておいでなんてご機嫌を取るだけで、だあれも、一人だって自分の大切なものを重にくれやしない。
 英だって、鎌鼬だって——
 目を開ける。烏天狗の庵の中で、いつの間にか眠っていたようだった。
 重は、掛けたままだった眼鏡を耳から抜いて、それから軽く頭を振る。覚醒には程遠い意識が、脳の中でがらんがらんと鳴った。
「……寝てた、か……」
 夕の赤い閃光を、その先にある紺が絆す。交わって鮮やかな色差を生み出している赤と青の境界、それを庵の障子戸から睨んだ。
 鎌鼬を酷く詰って距離を置いてから、葛ノ葉に行くのも面倒で気まずくなってしまった。だから、ここ暫くラーメンを食べていない。
 資料を読む体で庵を訪れては昼寝をして、夜には詰所に戻る。何かを悟られたくなくて、円とも戯れていなかった。
 そういえば、すれ違った蒼に酷い形相で睨まれた。また自分は何かをしたろうか。
「どいつもこいつも……人の気も知らへんで……」
 頬杖を突いて、赤い閃光が沈んで消えていくのを眺めている。
(烏天狗かて、オレにはなんにも……)
 自分が飽いたこの茶室。そこに詰め込まれた書物だって、所詮はあの妖怪が飽いた後の玩具に過ぎない。棚に収めていたり、平に積まれたままの書物や資料を振り返って、重は静かに落胆した。
(……あいつが、くれるわけあらへんわな)
 全てに価値がないように思えてくる。所詮は、誰も彼もいらなくなったものを重に寄越しているだけだ。
「おーい! 重、まだいる?」
 どろりとした気配の漂う庵の中に、溌剌とした詠の声が響く。
「賑やかなお人やわ……」
「烏天狗の仕事片付いたからさ! 重、そろそろ葛ノ葉行ってみない? 鎌鼬と何かあったみたいだけど、話してみたら意外とさぁ」
「ほーんま、喧しいお人や……」
 そう言えば、詠が「ん?」と首を傾げた。その顔に不快そうな色はなく、ただきょとんとしている。紅の閃が差す瞳が、爛と揺れた。
「なぁ、詠。オレと暇潰ししてみる気、あらへん……?」
「なになに? どんな暇潰し?」
 座敷に上がって、のしのしと歩いてくる詠に手を伸ばす。何の疑いもなくその手を取ろうとした詠に、重はにんまりと笑った。
「ええこと、しよか」
 ——これは、烏天狗の大事な玩具や。
 どさり、畳に音が沈む。詠のパーカーが畳の上に広がった。
 詠の腕を引いて、そのまま庵の畳の上に組み敷く。重が覆い被さって笑ってみると、その下で驚いていたように目を見開いていた詠が、ゆるり目を細めた。ドロップのような瞳が蕩けて光る。
「何? 良いことって……そういうこと?」
「詠も、毎日毎日烏天狗にこき使われて散々やろ? ちょおっと息抜きした方がええんとちゃいます……?」
 紅を差した詠の指先が、そうっと重の髪を撫でた。
「あの人、悪趣味だからさぁ、見てるかもよ……?」
「かまへんよ」
「そう? 僕は構うんだけどなぁ。お仕置きされちゃう……」
 そんなことは重には関係ない。今欲しいのは、誰かの大事なもの、だから。
「まぁ、でもさ」
 詠の外套に手を掛け、そっと襟ぐりを広げようとした時だった。
やわく撫でていた重の髪を、詠がぎゅっと掴む。
「いっ!」
 そのまま重の腹に膝を入れると、掴んでいた前髪を引きながら、重の体を蹴り倒した。そうして、畳の上に重の頭を押し付ける。
あっと言う間に形勢逆転され、逆に腰の上に乗り上がられた重は、詠をぎりりと睨み付けた。
「甘い甘い! 重、甘いよ〜! 仮にも僕は、烏天狗を使役しようとした、世にも愚かな人間だよ?」
「愚かで、暴力的も付けといた方がええわ……この馬鹿力……っ」
 悪態を吐く重に詠はふんと鼻で笑って、けれど静かに呟いた。
「冗談でも男に手を出す人間じゃないでしょ。ねぇ、何があったの? 僕で良ければ聞くよ」
 烏天狗とつるんでいるこの男のことだから、重が鎌鼬に何をしたかは事細かに知っていることだろうし、その後のことだってあるいは——けれど、詠の尻の下で重は溜め息を吐いて、ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜた。
「何言うてんの。どうせ詠も知ってるんやろ? オレが鎌鼬に何したか」
「うーん、まぁねぇ」
「したら、あいつ、オレのこと好きになってもうたんやって。もう笑けて笑けて……笑ったったら泣いてもうて。バカな奴や」
 嘲るように鼻で笑ってやると、詠がふーんと間の抜けた声を上げた。
「気色、悪いやん。そんなん」
「……どうかな。重がそう思うならそうなのかもしれないけど」
「どう考えても気色悪いやろ? 化け物やん?」
「……重のそれってさぁ」
 重の上から立ち上がった詠が、腰の刀の位置を直す。ちきりと鳴った鯉口の音に、重は僅かに身構えながら上体を起こした。
「どっちのこと言ってるの?」
 赤い緋の光はとっくに差し込まなくなり、庵の中は濃紺で包まれている。
「相手のこと笑ってるなら、なんでそんなに悲しそうなのかなって」
静かに呟いた詠が、重を見下ろして微笑んだ。
「……自分の中で自分の存在が悍ましくて気色悪いから、だから本当にそうなってやろうって思うんだろ。悪い子に、化け物になろうとしちゃうんだ。重、そういうとこあるよね」
 僕と重は少し似てるね、と溢した詠に、ぎゅっと眉を寄せる。のびのびとしているように見える詠に、一体、重の何がわかると言うのか。
「……あんたに、オレの何がわかる?」
「わからないし、知らない。けど、その口調も、笑い方も、演じてるでしょ。周りの人間が重はそういう子だからって思うように……でも、本当の重はそこにいない。そう思っちゃうんだろ?」
「あんたの言うことようわからんわ。オレはオレや……」
「そこに重はいないのに、鎌鼬はそんな重を好きだって言う」
 重の言い分など関係ないかのように、ぴしゃりとそう言われた。
詠を見上げる。驚いた顔が少しでも出ていないと良いと思うのに、恐らく、自分は愕然としているだろう。そんな面を上げた。
濃紺の闇の中で、詠の紅の瞳がゆらりと光る。
「……悔しかったんじゃないかな?」
 口から何かしらの罵声が飛び出しそうになる。けれど、それは明確な言葉にならないままで、重はぐしゃりと手で口を覆った。
——イライラする。イライラと、皮膚の下を駆け巡る不快感を、重は全て剥いで削いで切り落としたい衝動に駆られながら、嗚呼、それでも——詠の手が鞘を握っている。重の殺気は、既にこの手練に伝わっているのだ。
「例え妖怪になって力を得てさ、それで何か手に入れたとしても、重がそこにいようとしなくちゃ……自分が自分だって認めなくちゃ、何もかもずっと変わらないよ」
 詠は、鞘を握ったまま茶室を出ていく。躙口なんて結局は飾りでしかないのだと思う。
 詠がいなくなって収まる所を失った殺気に、重は静かに悪態を吐いた。
 オレはオレで、それ以外にないこと。鎌鼬だってそう知っているみたいな口を利いたくせに、疑っている。妖怪風情に理解できないだろうと思う。
 ぐしゃりと握った前髪の合間、畳の影を睨んだ。
「最悪や……何もかんも最悪や……」
 
 庵で一晩ぼんやりと過ごした明け方、のらりくらりと霧の白靄の中を歩く。
 無意識の内に足が向いていた、その行き先は葛ノ葉であった。暖簾を掛ける丁稚の、色鮮やかな姿に胸が苦しくなる。
 鎌鼬が、「あ」という顔をした。
「おお、鎌鼬」
 軽く、浅はかな気分で声を掛ける。殆ど眠っていないから、脳のどこかが麻痺していたのかもしれない。自分でも随分と間抜けな声が出たものだと思う。
「……おはよう」
「おはようさん。なぁ、一杯、半ラーメン作ってや。徹夜明けやから」
「……よりによって半ラーメンって……まぁ、いいけどさ」
 俯いてはいるが厨房に入っていく鎌鼬を見て、重も椅子に腰掛ける。
頬杖を突いて、スープの鍋を温め出した鎌鼬の後ろ姿をぼんやり見ている内、眠気が溢れ出してきた。
 ふあ、と欠伸をする。
「なんで寝てねぇの。遊んでたの?」
「んー……詠に説教されてん。腹立って、考えてたら朝になって……」
 うつらうつら、揺れる意識の上を、醤油ベースの芳しい香りが抜けていく。
「説教されて考え込むなんて、殊勝なとこがあんだな。お前も」
「……まぁ」
 せやね、と呟きながら、カウンターに額を当てた。スープが飛んでいて油が纏わりついているだろうカウンターは、朝一のせいもあってさらりとしている。冷たくて気持ちが良い。
「重? 茹でるけど、寝る……?」
 いや、と言い掛ける。起きるつもりはあるのに、体が、瞼が動かない。
 そのまますんと寝息を立て出した重の意識が落ちそうなその時、鎌鼬の手が、ふわりと重の頭を撫でた。
「……おやすみ」
 自分が罵った化け物の手は、吃驚するくらい優しかった。 
(許されてるんかな……)
 掛けていた火を消す音がする。
このまま眠ってもいいのだろうか。寝首をかかれたり、しないのだろうか。自分は、この子にそういうことをしたはずだ。その報いを受けるに違いないのに。

 重は数時間の後、すんなりと目を覚ました。椅子に腰掛けていた九尾の狐が、静かに尾を揺らす。
「鎌鼬の奴は鬼火と遊びに出掛けたよ。寝てるだけならとっとと帰りな」
「……オレ、今、五体満足でおるん?」
「今かい? そうだね……まぁ、あの子は寝首をかくような真似はしないから」 
 のそりと立ち上がった九尾の狐が、厨房から皿を取り出す。
 目を擦る重の前にそれを置くと、静かに呟いた。
「あの子からだよ。サービスだって」
 目の前に出された半チャーハン。それを見て、重はぱしぱしとただ瞬きをした。
 あまりに惚けていたのだろう、九尾の狐が口に手を当ててクスクスと愛らしく笑っていた。

   ——なんや、もう。
 正直拍子抜けしている。鎌鼬には嫌厭されると思ったし、仲間の妖怪からも突き放されると思っていた。なのに、そんなことは少しもなく……ただ、僅かによそよそしさの残る鎌鼬が可愛らしくはあった。
(……あかん)
 いじめっ子気質が刺激される。
 重は葛ノ葉を出て、あてもなくふらふらと歩いていた。詰所に戻って寝直しても良いのだが、チャーハンの腹ごなしをしたいような気分だった。
 それに、今詰所に行くと、なんとなくではあるが鎌鼬と鬼火がいそうな気がする。顔を合わせるのが気まずい。どんな顔をしたものか……と考えあぐねている。
 誰も彼もいない場所に吸い寄せられるように歩いてゆくと、結果的に幻界の入り口に辿り着いた。
 遠くに金属音が聞こえる——こんな所で……?
 そう思って深みに足を進めて行けば、大きな紅葉の樹が視界に入った。
 その足元でひらりと舞う白い影と、力強く踏み込む黒い影。剣撃が金属の音を響かせ合い、森の中の澄んだ空気を震わせる。
 鍔迫りの後、さっと二手に分かれた白と黒が、お互いに呼吸を整える。次の一撃で勝負が一段落することだろう。
 重は、思わず目を見張った。
 地面を蹴ったのは、僅かに黒い影が早い。その勢いのまま、下段から振り上げた切先が白い影を討たんとする、それを剣の腹で巻き込みいなされた。巻き込まれた刀ごと、黒い影、楓の体が地を滑る。
「っはぁ、はぁ……」
「今日、力入り過ぎ」
 白い影、雲外鏡が刀身をすっと鞘に納め、それから楓に手を伸ばした。
「イラついてる? どした……? なんか、あった?」
「イラついてはいない……」
 息を整えながら雲外鏡の手を借りて立ち上がった楓が、静かに重の方を振り返った。
「あー、誰かいる……なに、良いとこ見せたかった、とか?」
「そういうわけじゃない……が、全くないと言えば嘘になる……かも、しれない」
 雲外鏡を見上げて、楓が頬を掻いた。そんな楓を見て、雲外鏡がふっと目を細めた。
 それから重の方を見やって、暫しの間……「あー!」と、雲外鏡が声を上げた。
「あんた! あれ、あの……鎌鼬がっ、あんたのせいで……ううう……俺、余計なもん見せられたんだぞ!」
「は?」
先程まで刀を握っていた落ち着きとは全く乖離した雲外鏡の姿に、重も、そして楓までもがぐんにゃりと首を傾げた。
「す、助平なビデオ! 見せられたの! なんか人間同士のそれが気になるとか、あいつが余計なこと言うから……!」
雲外鏡の鏡がふらりと立ち上がる。その様に雲外鏡は慌て、鏡を抱えて幻界の奥に走って行ってしまった。
結果的に稽古の邪魔になった重を、自身の汗を拭った楓がじぃっと大層鋭く睨んでいた。