光彩奪目を去なす -牽制-


――棒に絡んだ飴細工を右から左から、上から下から、眺めて愛でる夢を見た。
(食うてしもうたら、それで終わりやん)
ふあ、と欠伸をしながら暖簾をくぐる。数日振りの灯影街の気は、やはり少しばかり気怠いもので、重は外套を肩に引っ掛けたまま葛ノ葉のカウンター席に座った。
「鎌鼬ぃ……ラーメン一杯……」
「鎌鼬ならいないよ」
圧を感じて視線を上げれば、そこには優雅に腕組みをした九尾の狐が立っていた。ふらりと揺らぐ尾がどことなく威嚇しているように思えて、重は薄ら笑う。
「あれ? 今日は店長しかおらへんの?」
「そうだね。何故って、わたしはおまえに話があるんだ、重」
「あは……おっかない顔して、なんですのん?」
――堪える。
人間の世界から戻ったばかりで急にこの「本物」の妖気をぶつけられるのは、かなり芯に堪えるものがある。それでも、重はカウンターの椅子に腰を落ち着けたまま、小馬鹿にしたような表情で九尾の狐を見上げていた。
「ここのところ、鎌鼬の様子がおかしくてね。鬼火の奴まで心配し出す始末だ。わたしは面倒は御免だからね……烏天狗の奴に聞いてみたら、どうやらおまえ、また出しゃばったことを考えているらしいじゃないか」
「出しゃばったつもりはあらへん」
両手を挙げて、降参のようなおどけるポーズを取ったが、九尾の狐はぴしゃりと言う。
「人間風情が妖怪を食おうだなんて、出しゃばり以外の何だってんだい?」
殺気だ。一瞬、正面からとんでもない殺気をぶつけられた。思わずたじろぐ。
「なぁ、重。妖怪の肉を食ってみようとする人間なんざ、昔からいくらだっていたものだ。けれど、どいつもこいつもその本当の末路を知らないのは何故だと思う?」
猫撫で声のような甘い声色を駆使する九尾の狐に、重は表情筋が強張るのを感じた。急に、九尾の狐から目を逸らせなくなる。
この高齢の狐の妖怪は殊更魅力的ではあるが、それにしても体が言うことを聞かない。まるで金縛りに掛かったかのようだ。
「……さぁ?」
重のことをじぃと見つめる九尾の瞳の中で、瞳孔がきゅっと狭まる。
この瞬間、捕食する者とされる者の間にある境界を途方もなく突き付けられたような気がした。
――身の凍る思いがして、つい逃げ出しそうになったその時、ばさりと大きな鳥の着地を伝える羽の音がした。
重に掛けられていた金縛りは急に解け、そうして目の前の九尾の狐は、鬱陶しそうに流し目を送る。
「よう、九尾の狐。この様子だと、どうやら重に引導は渡せたらしいな」
その先に立っていたのは、烏天狗であった。その小脇には詠がしっかりと抱えられている。
「お、降ろせよ! なんで僕まで……!」
「お前が、烏天狗さん助けてくださ~い! 店長がカンカンでぇ~このままじゃ重が殺されちゃうよ~って縋ってきたんだろうが」
「そ、そんなことないだろ! 大体、あんたがもう少し言い方考えればこんなことには……!」
「どういうことだい、詠。わたしは、うちの可愛い丁稚が弄ばれて嬲られて、このままじゃ食われちまう筈って聞いたんだけれど」
九尾の狐の言いように、重は「うわぁ」と表情を歪めた。
烏天狗の野郎、かなり面白おかしく煽りやがったようだ。
「食べちゃうかもっていうのは僕も聞いたけど……でも、まさか重、本気じゃないよね?」
「本気だろ? だってお前」
烏天狗の口を、詠が手で塞ぐ。
「あんたが口出しすると、厄介なことになるんだってば!」
詠の手を押し退けて、烏天狗がふうんと団扇を構えた。
「脅迫して体液啜って、次は何をしやがるか……わかったもんじゃないだろう? 人間ってのは強欲だからな」
「強欲の化身みたいなくせして、あんたが言うな!」
その言い分を聞くに、烏天狗の奴め、随分と手の平を返してくれたものだと重は青筋を立てた。けれど、眼鏡のブリッジを上げて表情を誤魔化す。
「嫌やわぁ、烏天狗はん。それなら、肉を食うことは諦めかけてたとこですわ」
「ほう?」
烏天狗が片眉を上げる。心なしか、歌がほっと息を吐いたように見えた。
「向こう行って色々調べたんや。それに、自分の言うてはったことも気になるし? 内側から妖怪に乗っ取られたらかなわんわー思い始めてたとこや」
「なら」
ちゃらけた風に言う重に向かって、九尾の狐が呟いた。
「あの子に特別な感情はないってことかい?」
「……なんや、特別な感情って。そんなもんあるわけないやん?」
重がそう言えば、九尾の狐はふらりと視線を逸らし、そうして口元に手を当てる。
「そう。それを聞いて安心した。じゃあ、あの子にもそう伝えておくれ。そして、妙なことはもうしないように……前科が多いのも困りものだよ、重」
――なんで、そんなこと言われなきゃなんねぇんだよ。
咄嗟に頭に浮かんだ言葉を飲み込み、重はへらりと笑った。
「はいはい、承知しました。ここのかあいらしい従業員には、もう手は出しまへん」
「うちの従業員以外も同じさ。食おうなんて考えないように」
――誰が何を食おうが、何を想おうが、それに許可がいるんだろうか。
重が返事をしないでいると、九尾の狐は「まぁ」と呟いた。
「おまえが妖怪を食おうとするように、わたしだって勝手気ままに人間を貪り食うことだってあるのだけれど」
くすくすと笑う九尾の狐に、重は背筋がぞっとするのを感じながら、それでも喉奥から込み上げる笑いを抑えず声を上げた。
「ははは。流石、人間が恐れる大妖怪。言うことが物騒やわ」
「おまえも、こちらのことを言えたもんでもないけどね」
「そらおおきに」
「褒めてないよ」
暴虐で酔狂な存在かと思いきや決してそんなことはなく、けれど清くも正しくもない。人里に降りて好きに暴れたなんて話も聞く。掴み所のない狐である。
重は、そんな狐から受けた脅迫をさらりと手で払い落とし、そうしてラーメンを頂戴しないまま座席から立ち上がった。
烏天狗に降ろしてもらった詠が、重に駆け寄る。
「もう、店長ってば! あんまり人を脅迫しないでよね! 僕ら、そんなに悪いことばっかり考えてないってば!」
「詠はともかく、そっちの男はどうだろうね」
カウンターに頬杖を突いて探るように言う九尾の狐を肩口に振り返り、重はあからさまな溜息を吐いた。
今度は、否定も肯定もしなかった。

大事に大事に舐めてとろかしている間に、飴細工は横からすっかり没収されてしまった。
(もっと早い内に、指の一本や二本や、耳でもええ。囓っておけば良かったわな)
どんな顔をされただろうと考えると少しばかり愉快な気持ちになって、けれど今はもうそれを拝むことも叶わない。重は湧き上がってきた苛立ちを奥歯で噛み締め、舌打ちをした。
(イライラする……)
ただでさえ、「母親」に会う羽目になり苛立っていたのに、灯影街に戻ってきても別の件で苛立つ羽目になるとは。
「どこにいたかて、イラつきっぱなしか……」
灯影街に来た頃のことを思い出す。刀衆になってからも英の姿が目に入る度に苛立っていた頃、「重隊長って、英隊長のこと嫌いなんですか」と将棋を指しながら安穏と聞いてきた円にまで腹を立てたことを思い出す。
「好きか嫌いかで言うたら、苦手やんな。円かてそうやろ?」
「まぁね。俺にとっては、ここの人間なんてどうでも良いんですけど。空気悪くしないでもらえればそれでいいかな」
はい、王手、とあっけらかん言った円に腹が立って、それから夜な夜な円を遊戯に誘うようになった。嫌がらせのような、慰みのようなものだった。
(空気悪くしたないなら、初めからあないなこと言うなや)
円の、時々人を探るような目が、どうにも苦手だった。
「ええなぁ、なんも考えてなさそうな団栗目はと思ってたんに……残念やわぁ」
――どっちもオレで、どっちもオレやない。それでええやん?
どっちも重ってこと? と、何の気もなしに言ってきた団栗目のかわいらしいこと、かわいらしいこと。その様を思い出して、重は溜息を漏らした。
「胡散臭いのもオレ、柄が悪いのもオレや」
ふと足を止める。背後から駆け寄ってくる者がある。
このイライラしている時に、と重はつい腰の刀の鯉口を切った。しゃんと刀身を鞘から抜いて振り向き際に振り被った。
キンと音がして、そこで刃を止められたのだと知る。
はと我に返れば、鎌を構えた鎌鼬が、重が袈裟に振り下ろした刀を頭のすぐ横で止めていた。
「び、びっくりしたぁ……」
「……堪忍」
重は現状を暫し見つめてから刀を降ろす。静かに鞘に刀身を納め、そうして鎌鼬から視線を逸らした。
「丁度、詠が葛ノ葉いたからさ。重がもう帰ったって聞いて」
嬉しそうに息を弾ませる鎌鼬が、帽子の位置を直している。どことなくもじもじしてるように見えるのは気のせいだろうか。
重は、九尾の狐に言われたことを思い出していた。
「特別な感情」がないのかと言われた。そんなものあるわけがない。人間と妖怪だぞと思う。けれど、そう言われる由縁があるとすれば――
「重ってさ、オレのこと好きなの?」
耳鳴りがした。
九尾の狐がああして凄んだ由縁、それを察して、重は浮き足立ち、そうして、すぐに地面に叩き付けられた。そんな錯覚を覚えた。
「口くっつけたり、その……体触ったりするの、人間は約束してからするもんだって聞いたんだ。つまり、するのって、大事ってことだろ? 前に、オレとしたくなったからって言ってたじゃん? だから、もしかして重って……」
言い掛けた鎌鼬の言葉を遮る。
「何言うてんの?」
イライラする。すごくイライラと。脳天気に言う鎌鼬にも苛立つ。
「大事? そんなことあるわけないやろ? 自分、何かわかってるん?化け物やで?」
「だ、だってお前……っ」
「化け物が人間に見初められたって? そっちこそ、オレに夢見て、オレのこと好きなんとちゃうん? まるで御伽噺やんか。笑えるわぁ」
顔を歪めて笑う。歪めようと思わなくても、そういう笑い方しかできない。
何を言われているかわからない。わからないから巫山戯て誤魔化す。
誤魔化そうとしたのに、鎌鼬はぽかんと口を開けて、みるみる内に顔を赤く染めてしまった。重を見上げている瞳が、ふらふらと揺れる。
(なぁ、そんなわけないやん)
自分、何されたかわかっとるん? あんなん強姦やで? そう頭の中を過ぎる。捕食される者が捕食する者を好きなるなんて、そんな倒錯があってたまるものか。
重の表情から笑みが消えた。残った無表情の中、僅かに眉を寄せて呟いた。
「気色悪い」