月に叢雲と金平糖 ◆ 六


三月は鎌倉への取材旅行を終えて、久方ぶりに職場に顔を出す。
海水浴場の様子や旅館の記事を纏める目的だったがため、会社の金で多少の贅沢ができた。上司と四六時中共にいる緊張感こそあったが、それにしてもだ。随分と良い思いをさせてもらったものである。
「あ、三月さん!」
「はい?」
新聞社に土産を持って向かうと、受付の娘に声を掛けられた。
「土産のまんじゅういります? 上に置いておきますんで、持って帰ってくださいよ」
「あ、ありがとうございます! ……ではなくて」
彼女は、こそっと三月に耳打ちをする。
「二階堂大和さんがいらっしゃってたんです……」
「えっ」
普段は外で待つばかりで、中の人間に声を掛けたりしないのに。
三月は、一片の焦りを覚えて、「大丈夫でした……?」と尋ねた。
「何か変なことされませんでした? 何せあのおっさん、女癖が悪くて……」
「いいえ、特には……! ただ、三月さんを暫く見てないけど、出社してるのか、と……」
「しつこくされなかった?」
「詳しくは伝えてません。ですが、二回ほどいらっしゃったので、一応お伝えしておこうと思いまして……」
「うわー……ごめんな、オレのせいで……」
三月は土産のまんじゅうを包んだ風呂敷を置くと、帽子を取ってぺこんと頭を下げる。
「そんな! お気になさらないでください! 本当に、三月さんのことを聞かれただけでしたので……!」
それなら良かった……ともう一度頭を下げ、三月は風呂敷を抱えて新聞社の二階へと上がる。
(どうしたんだろ……)
受付の娘に手を出したわけではないようで安心した。それにしても、三月をどうしても捕まえたい理由でもあったのだろうか。
「今日は来てないんだ……」
新聞社に入る時にも見当たらなかった。二週間も上司に付いてふらふらとしていたから、遂に諦めたんだろうか――だって仕事だったんだから、しょうがないだろ。
そんなことを考えていると、ふわりと階段を踏み外しそうになった。
「うわぁっ……!」
三月は持ち前の運動神経で二段ほど下に着地する。なんとか踏み留まったが、それにしても危なかった。
危ねぇ危ねぇと首を捻る。滲んだ汗を拭って、まんじゅうの風呂敷を抱え直した。大和のことに気を取られるなんて、なんて様だろうか。
「オレのことなんて、最初から構わなければよかったんだ。靡く女なんていくらでもいるんだからさ……」
まんじゅうを同僚に配り終えて、三月は出張の荷物を背負い、新聞社を出た。
ナギにも煎餅の土産を買ったので、それを携え、いつもの喫茶店へと向かう。そいつをさっと渡して社員寮に荷物を置き、夜は実家に向かおうと思っていた。
そんな三月の目に、喫茶店の窓際の席に座る大和の姿が映った。
「あ」
声を上げる。ぼんやりとしていたらしい大和が、窓越しに三月を見つけて、目を見開いた。
三月は、やべ、とばかりに口を塞いだが、すぐに外して、それから小さく笑って見せた。大和は妙な顔をして、そうしてゆっくりと瞬いた。変な顔だと思った。
「ハーイ、ミツキ。お久しぶりですね」
「よう、ナギ。これ土産」
三月は店に入ると、まずナギと店主に煎餅の袋を渡す。
「カマ、クラ? 行き先は鎌倉でしたか?」
「そう、海水浴の季節になるから、その取材も兼ねてさ。観光案内出すんだ」
「それは穏やかなお仕事でしたね」
「会社の金で贅沢してきた」
三月がニカッと笑って見せる。ナギもそれに応えるように、にこりと微笑んだ。
「で、あのおっさん、どうしたの? 黄昏れちゃって」
三月は、窓際の大和を指さし、こっそりと尋ねる。
「……ヤマトのことですか?」
「そうそう」
「あれは、ですね」
ナギが三月に耳打ちした言葉に、三月はつい口を尖らせた。
「……諦めたのかと思った」
「しつこい男は嫌われます」
「本当になぁ」
大和はといえば、窓際の席に座ったまま、ぼんやりと外を見ていた。時折三月とナギの方を気にしているようだったが、話し掛けてくる気配はない。
「……マスター、ココアお願いします」
三月はカウンター席に座らないまま、用意してもらったココアを持つと、静かに大和のいるテーブルに歩み寄った。
「おい、おっさん」
ふらりと顔を上げた大和が、眼鏡のレンズ越しに三月を見る。
「どうしたよ、酷い顔して……ちゃんと寝てる?」
ココアをテーブルに置いて、そう声を掛けた。三月を見上げてくる大和の瞳が、爛と揺れた気がした。
「……いや、寝てるよ? あとおっさんじゃないし。お兄さん、な」
「本当? 目の下、隈あるけど?」
カップを置いて空いた手で、そっと大和の頬をつまむふりをしてみる。実際には指先で撫でるだけだった。眼鏡の縁に指が当たって、カチと音がした。
触れてみると、少しひやりとする。すっと閉じられた大和の切れ長の目尻を、そっと撫でてやる。やはり光の加減などではなく、そこには隈があるらしい。目を閉じると綺麗な男であるが、その隈のせいで、どことなくやつれているようにも見えた。
「珈琲よりこっちにしとけよ」
三月は大和の目の前に置いてある珈琲のカップを引いて、代わりに自分が持ってきたココアを置いた。そのまま、大和の正面の椅子に座る。
「……なんだよ、寝てるって。夜も遊び歩いてないし? 昼まで寝てる」
「おいおい、朝は起きろよな。不健全なおっさんだなぁ」
「お兄さんだってば」
受け答えしながらもぼんやりとした様子の大和に、三月は少しだけ不安になり、テーブルに頬杖を突く。上目遣いに大和を見上げ、確認するように尋ねた。
「女の人と遅くまで遊んでんじゃねぇの?」
すると、大和は薄く笑って、「気になる?」と呟いた。
「別に。ただ、二階堂さん、いつか刺されるんじゃねぇのかなって思ってさ」
「何それ。嫉妬かなんかでってこと?」
「そう」
「心配してくれるんだ?」
「知り合いが痴情のもつれで刺されたら、夢見が悪いじゃん」
笑って言うと、大和は少し俯いて、それから首を横に振った。
「体の調子が悪いから、そういうのは今してないよ」
大和のその言葉に三月はどきりとして、それから僅かに身を乗り出す。
「そうなの……? 医者は?」
「特に悪いとこはないってさ」
「そっか……」
なんとなく気まずくなって、大和の飲みかけていた珈琲を口に運ぶ。冷めきった珈琲の渋みを感じて、この人はどれだけの間ここにいたんだろうと思った。
「胸がさ、早鐘を打つんだ」
 掛けられた言葉にはてと思い、三月はテーブルに無造作に投げ出された男の手首を見やる。
「早鐘……?」
無防備なそこへ手を伸ばし、そっと指の腹を当てた。脈を取る真似事でもしてやろうと、指の先に伝わるとくとくという音を追う。
とくとくと、そう流れる音が大和の胸に続いているのだと思う。それに触れていると思うと、どこかくすぐったかった。
三月は、十分にその音を追ってから呟いてみる。
「確かに、ちょっと早いかも」
そう言えば、投げ出されていた大和の手が、脈を取る三月の手の輪郭をするりと撫でた。どきっとする。骨張った大和の指先が、まるで蛸の足のようにしなやかに節を動かし、三月の手に甘く絡まってきた。
碌に力も入っていなかろうに、それでも不思議と三月には振り解くことが出来なかった。他人の生ぬるい体温が絡むその違和に、心臓がばくばくと音を立てる。
「……に、二階堂さん……?」
「……あのさ」
「うん」
レンズの向こうの瞳から目を逸らせない。瞬きさえも戸惑わせる。
そのような空気の中、大和が言った。
「大和で良いよ」
「え?」
「大和で良い。呼んでよ。ミツに呼ばれたいんだ」
いやに真っ直ぐ向けてくるその視線に逆らえず、三月は戸惑いながらも口を開く。
「大和、さん……?」
すると、目の前の大和は安心したように笑って、三月の手首に絡めていた手を離した。
謎の緊張に解放され、三月はほっと肩を落とす。
「なんだよ。名前で呼ばれたかっただけ?」
「……そうなのかな」
そうなのかも。繰り返し言った大和が、ふいと窓の外を見た。
「……ミツが嫌なら、二階堂でも構わないけど」
「嫌じゃないけどさ……」
三月はそんな可愛い我儘を笑って、それから自身のズボンのポケットの中を探る。
「そうだ。大和さんにはこれな」
「ん」
テーブルにぽんと小袋を置く。
「何これ」
「金平糖と、守り巾着」
「は?」
「お土産」
椅子から立ち上がり、珈琲のカップを持ってカウンターに向かっていく三月に、大和が「なんで」と言い掛けた。
三月は、大和を振り返って言う。
「だってオレ、あんたのこと全然知らないから、だからそのくらいしか思い付かなかったんだ。痴情のもつれで刺されないように、傘にでも付けとけばいいじゃん」
大和が守り巾着と金平糖の小袋を握って、呆としていた。その姿がやけに可愛らしかった。


◆ 七


――大和、さん…… 夢の中で思った名前を呼ぶ声よりもずっと戸惑いがちだった現実の声を反芻して、うすらと思う。
(好きなんだ)
三月の事が好きなんだと噛み締める。
手の中の守り巾着と金平糖の包み紙が汗で湿ってしまうような気がして、きつく握りしめていた手を開いた。
(……恋煩いだなんて、バカみたい)
眠りが浅くて、日頃ぼうっとして、日だまりの中で見た久方振りの三月につい泣きそうになった。指先に触れた体温がいとおしくて、離したくなかった。
そんな馬鹿みたいな感情を、多分好意と言うんだろう。
三月は大和の珈琲を持っていって、ナギと談笑している。そこに混ざるだけの気力は湧かず、大和は手元のココアを口に含んだ。ひどく甘い。
三月の指先が触れた目尻に触れる。もっと触って欲しいのに、そう懇願するだけの関係を持たない。相手が女だったら、もっとずっと簡単だ。
(触って、って)
そう言えばいいだけなのに、大和にはそれが憚られる。
(触らないで……)
どくどくと、心の臓が音を立てる。襟巻きで口元を隠した。口から心臓が出そうだった。――好きだ。言えてしまったらどんなに楽だろう。
飄々とした姿を演じている自分の化けの皮が、途端に随分と重たい物に思えて、大和はそっと席を立った。不思議そうな顔をして見送る三月とナギとは言葉を交わさないまま、ぎくしゃくと会計を済ませて喫茶店を後にする。
真っ直ぐ歩けているのが不思議だった。これは、酒でも飲まなければやっていられない。そう思って大衆酒場に顔を出した大和は、そんな迂闊な自分を呪う羽目になるのだった。

「オイ、何してくれてんだテメェ!」
突如として聞こえてきた罵声に、大和は顔を上げる。自棄に近い状態で酒を飲んでいた為、随分と悪酔いをしたものだ。
長屋の壁に凭れて目を閉じて、目眩が抜けるのを待っていた。そんな時であった。
「テメェらが怪しい真似してるからだろうが!」
罵声に返る声に、いよいよ意識がはっきりする。少年にも聞き間違える高い声は、確かに聞き覚えがあるではないか。
「おいおいおいおい……」
意外と血の気が多いのは知っているが、相手は絶対に堅気ではない。大和は声のする方へふらふらと走る。走れば走っただけ酔いが回るが、気が気ではない。
「テメェこそ、コソコソとつけてやがっただろうが!」
大和がその現場に辿り着けば、なんと三月が単身で野郎二人に掴み上げられているではないか。思わず額を叩く。
暗がりだが、やはり相手は堅気ではなさそうだ。
(……ありゃあ)
物陰に隠れながら、眼鏡を押し上げる。
(某財閥が飼ってるゴロツキじゃねぇか……)
それがなんだってこんな所に……と視線を巡らせる。明かりの点いている食事処の二階、さては、そこで何かきな臭い遣り取りが行われているのか。
(確か、怪しい商売の噂があった気がするが、さて……)
それは兎も角として、外であのように騒いでいては三月が危ないし、彼が追おうとしている案件もその内騒ぎに気付いて有耶無耶になることだろう。そもそも、現状二対一では分が悪い。
大和は長い溜息を吐いてから、ふらふらと物陰から歩き出した。
「喧しいと思ったら、何してんだミツぅ~」
「ああ……? 大和さん……なんでこんな所に」
何事かとぱちくりしてるゴロツキの手を、大和は何気ないふりをしてぽぽんと叩く。
「ありゃー兄さん方、すいやせんねぇー……このちっさいの、どうにも探偵ごっこが好きなもんで……ガキの遊びもほどほどにしろって言い聞かせておくんで、これで見逃してくれりゃあしやせんかねェ」
そうして、三月のシャツを掴む手を解かせ、代わりに懐から取り出した銭を握らせる。ぎゅっぎゅと握って祈るように突き返せば、男らは顔を見合わせ、動揺の色を浮かべた。
ついでに大和は、ぽかんとしている三月の頭を帽子の上から引っ叩いて見せる。
「あだぁっ!」
「ったく! 遊びも大概にしてウチへ帰りやがれってんだ! やぁ、すいやせん、すいやせん……」
そのまま、三月の肩を抱いて食事処の前を通過する。三月が口を尖らせ、ちらりと振り返った。
「折角のスクープどうしてくれんだよ……」
「スクープの前にお前さんの死体が川に浮かぶわ。このバカ野郎」
お互い、こそりこそりと言葉を交わす。
「帰りに偶然、密売疑惑のある商人を見掛けてさ」
「財閥のお偉いさんに悪いもん売ってるって噂の奴だろ。だからって一人で追っかけることないだろうが……あ、すみませーん」
三月の肩を抱いて押さえ付けたまま、憲兵の詰め所に寄る。
「……二階堂大和じゃない。どうしたの?」
すると、そこにはこの遅い時間であるのに、軍服をぴしりと身に纏った青年がいた。まるで猫のような彼の瞳が大和を睨む。
「ああ、九条の旦那がいるなんて珍しい。取り次ぎを頼まなくて済んだ……ちょいと先の食事処でツレが絡まれまして、素行のよろしくないゴロツキが暴れてましたんで告げ口まで、と思ってね」
特に悪いことをしでかしたでもないが、青年・九条天に睨まれては敵わないと、大和はひらり手を上げた。
「ゴロツキ? 君が何かしたんじゃないでしょうね」
「俺が? やだなぁ、滅相もない」
「わざとらしい……」
「意地悪言わずに、念の為に見回ってくれないか? 頼むよ、九条」
上げた手を摺り合わせて「この通り」と強請って見せる。すると、天は溜息交じりに肩を竦め、それから頷いた。
「わかった。丁度、楽と龍が見回っているから、周辺で何か起きないように用心するよ」
「仕事増やしちまって悪いな」
「本当にね」
天と大和の遣り取りを黙って見ていた三月が、大和の隣で途端に小さくなった。そんな三月を抱えて、大和はひらりと天に手を振ると、さっさと詰め所を後にする。
「……楽、って、八乙女殿のことか……? 呼び捨てにするってことは、あの男の子、随分若く見えるけど、お偉いさん……?」
「まぁ、そういうことになるかな」
「大和さん、なんでそんな人と面識あるんだよ……」
「さて、なんででしょう?」
お気軽な調子を装って返事してやると、三月にじとりと睨まれた。
「あんた、本当は犯罪者だったりしない……?」
「うーん、それはない」
そう、それはないのである。が、情報屋なんてものをしていると色々な場所にツテが出来るもので、ついでに、先程の三月のようにゴロツキに絡まれることも多分にある。大和の場合は所謂痴情のもつれと半々ではあるのだが、そういう時に憲兵と知り合いだと何かと楽なのである。
「じゃあ、八乙女殿や十殿とも知り合いなわけ……?」
三月の目が、途端に爛々とする。嫌な予感がして、大和は少しだけムと口を曲げた。
「そうだけど」
「うっわ、いいなぁー! オレ、あの人達のファンなんだよ! 格好良くて男気があって、庶民が声を掛けても嫌な顔一つしないしさ」
突然軽快に語り出す三月に、大和は呆気に取られた。そうして、はーっと肩を落とす。
「精悍な顔立ちも、男だけど惚れ惚れしちまうよなぁ。憧れちゃうよ、本当」
極め付けがこれである。大和は、抱いていた三月の肩から手を離し、それから足を止める。
「大和さん?」
不思議そうに振り返った三月に、自分が着ていた緑の羽織を頭から被せ、それから、ぺちんと三月の額を叩いた。
「……今回は偶然お兄さんが見つけてやったけど、ああいう危ないことはすんなよ。わかったか、七五三」
「し、七五三だぁ?」
「憲兵さん見てカッケーってはしゃいでるガキにはお似合いだろ。これ羽織ってとっとと帰んな。お兄さんは、大人の遊びをして帰るからさ」
助けたのは自分だと言うのに、他の男にきゃんきゃん言われては流石に面白くない。そんな気持ちから、つい言わなくて良いことを言った。
折角、悪酔いに耐えながら送ってきたと言うのに、だ。ここで送り狼にならない自分を、誰か褒めたっていい。
苛立っている大和に向かって、三月がきょとんと瞳を上げた。
「大和さん、なんか怒った……?」
「怒ってない」
先程まで爛々と輝いていた目が揺らいだ。
「嘘だ。怒っただろ。羽織もいらないよ。あんたどうすんだよ……」
「後で返してくれりゃあいい。夜は冷えるし、万が一に追い掛けられても、後ろ姿がこれならわかんねーだろ。たまにはお兄さんの言うこと聞きなさい」
そう言って、三月の頭をわしわしと頭を撫でる。三月はと言えば、擽ったそうに眉を顰めながら、それでも小さく頷いて「わかった」と呟いた。
「……そうだ、まだお礼言ってなかったな。ごめん、助けてくれたのに。ありがとう」
ごめんとありがとうを形作った三月の唇に、人差し指を当てる。少し表情を強張らせた三月の心中を察して、大和はそのまま微笑むに留めた。
「うん……気を付けて帰れよ」
怒っていたわけじゃない。ただの嫉妬だ。その慰めに、少しだけ桜色に触れたくなった。
でも――怖いんだ。俺に触られるのが。
触ってと触らないでの境目を揺蕩う大和とは違う。三月は「触られたくない」のだ。それを察する。否、知っていたのに、見て見ぬふりをしていた。
(だって、ミツは俺のものにはならないから)
大和に見送られ走って帰っていく三月の背中を見て、何故だか無性に涙が出そうになった。離れていくことが切ない。小指の腹で目尻を拭う。
空を見上げる。そこには星が優しく煌めいているというのに、大和の腕の中にあった星は、金平糖と同じでくしゃりと溶けて逃げてしまった。
甘い甘い感触の記憶だけを残して。

さて、このままアパートメントに戻れれば良かったのであるが、気持ちを慰めるために大和はまたも酒場に飛び込んでしまった。本当に愚かであったと自分でも思っている。
しかし、思っているだけでは酔いは醒めない。
「あー……気持ち悪ぃ……」
呻いた大和に肩を貸している百が、快活に笑った。
「オレの着物汚したら承知しないからね、大和。高いよ?」
「す、すいません……絶対吐きません……」
百よりも背の高い千は、何の負担も負わずにただ隣を歩いている。千は腕力が無いから仕方のないことなのだが、大和にはそれがやけに気に障った。そんなことよりも、今真っ直ぐに歩けていない自分が一番気に障るのだが。
大衆酒場に顔を出すと、普段の派手な着物とは違う男物の着物に身を包んだ百と千の姿があった。二人の酒の席と騒ぎに巻き込まれ、大和は自分で思っていたよりも随分な量を飲む羽目になったのであった。
「はい、とーちゃくー! お客さん、終点だよン」
小柄に見えるが案外体格の良い百は、自分も酔っているだろうに、大和に肩を貸したことなど物ともしていないようだった。同じ男として少し悔しくなりつつも、大和はふらふらと階段に座り込む。
「俺……余計なこと言ってませんでした……?」
「うーん、随分と熱烈に自棄になってたのはわかったかも!」
「そうだねぇ。ミツが好き好き大好き俺どうしたらいいですかぁ……って感じだったかな」
「ダーリン、しーっ! 本人忘れてんだから! しーっ!」
へらへらと言う千に向かって、百が口の前に人差し指を立て、必死に黙らせようとしている。しかし、だ。大和も残念ながら殆ど覚えている。むしろ相手方に忘れて欲しかったのだが。
眼鏡をずらして顔を覆った。
「邪魔でしょ。眼鏡、取っちゃえばいいのに」
「嫌です……」
仮令、相手が大和の父親が何者であるかを知っていたとしても、眼鏡を取るのは憚られる。――怖い。
そんな大和に、百が声を掛ける。
「大和さ、その子のどこが好き?」
「なんですか、急に……」
百はひょいとしゃがんで、大和の顔を覗き込んだ。
「一度、吐き出しちゃった方が楽かもしれないよ。大和、最近よく眠れてないだろ? 普段はこんな酔い方しないじゃん。本当に参っちゃってんだよ、きっと」
夜分のアパートメント、百のよく通る声が静かに響く。
大和はぐしゃぐしゃと前髪を掻き混ぜて、それから眼鏡の位置を戻した。
黙っている方が吐きそうになる。そんな時だから、ぼんやり口にしてみるのも悪くはないのかもしれない。
視線を上げると、百がこてんと首を傾げて、穏やかに笑った。
「ね、どこが好き?」
「全然、好みじゃないんですけど……」
「うん」
「……子供みたいな顔、してて。でもって、泣くと可愛いんです。いや、元から可愛いんですけど……」
ぼそぼそと溢し始めた大和に、百は千を振り返り、にかりと笑う。そうして、大和の方へと向き直った。
「うんうん、それでそれで?」
「それで……俺やナギが素性隠してても、気にしないで接してくれて……気にしてるんです、きっと……でも」
「気にしないふりしてくれるんだ?」
「……多分、そう」
階段の壁に凭れ、ふらりと思う。本当は、気にしている。そんな気がする。
「言っちゃえばいいのに、素性」
そんな大和に声を掛けたのは、千の方だった。
「大和くんが靡くくらい良い子なんだったら、君の素性聞いたって色めいたり騒いだりしないだろ」
「……新聞社に勤めてんですよ」
百と千が「あー」と声を上げる。
「ていうか、そもそも言いたくないし……あの人の……千葉志津雄の妾の子供だなんて」
有名俳優の妾の子。珍しくもない話であるのは承知で、それでも大和は言いたがらない。家を出てのらりくらりと一人で生きているのも、家族と関係が良くないせいだった。
「でも、そんなことじゃなくて、俺が……」
「うん」
「俺みたいな最低な奴が好きになったら、ミツのこと、困らせるかもしれないから……」
百が、そんな大和の頭を撫でた。
「大和さ、好きになったらっていうか、もう好きじゃん。その気持ちは止めらんないよ」
他人から突き付けられた自分の好きという感情の異質さに、大和はつい百から視線を逸らす。見たくないものを鏡で見せられた気分だった。
「認めないでいるの、苦しかったでしょ」
「……苦しいです。すごく」
「本気だからだよ。本気だから苦しいんだよ。……だからさ、本気なら本気なりに、それ見せなくちゃ」
立ち上がった百が、自分より一歩後ろにいる千の袖を引いて、それから呟く。
「オレだって、ユキさんに本気見せたからここにいられるんだよ。それで何か変わるかもしれないし……変わらないかもしれない」
通じ合っているように見える二人が今の大和にはひどく眩しくて、羨ましかった。そんな風に曝け出すようなこと、自分にはきっとできない。
「……できないですよ、そんなこと……」
そう弱音を吐くと、百は腰に手を当てて言った。
「だってさぁ、考えてみなよ。大和の言うミツが、誰か別の人に取られたら堪えられる? オレは無理。想像だけで無理!」
百は千に向かって「無理だからね」ともう一度言った。
「大丈夫だよ」
「信じてるからね、ダーリン……浮気やめてよね」
「してないって」
……案外通じ合ってない部分もあるかもしれない……と思いつつ、大和はゆっくりと瞬きをする。
百が咳払いして、それから改めて続けた。
「とにかく! 折角の貴重な本気、一世一代分頑張ったってバチ当たらないって!」
「そうだよ。もし振られても僕たちが慰めてあげるからさ。頑張ってみればいいじゃない」
「そうそう! オレとユキで大和のこと、いーっぱい甘やかして慰めてあげちゃう!」
「嫌ですよ……甘やかさないでください。俺、そういう性質じゃないんで……」
そう言えば、百と千は顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。
「気付いてないなら良いけどさ」
「大和くん、案外甘えたがりだよね」
――そんなことねぇよ。
そう、多分、そんなことねぇって。
ぐらんぐらんと揺れる視界の中で、なんとか体を支えながら自分の部屋に戻る。
大和は、ばたんと床に倒れて、懐を探った。そこから、くしゃりとした金平糖の袋と、守り巾着が転がり出てくる。丸くて小さい守り巾着を両の手で包んで、はぁと息を吐いた。
「……すき……?」
この巾着には、何のご利益があるのだろう。三月に聞いておけばよかった。
痴情のもつれから守ってくれるようなものであれば、今の大和には必要がなく、できれば……できれば、恋愛成就なんてしてくれたらなぁと目を閉じる。そんなことを考える夢心地が馬鹿らしくて、つい頬が緩んだ。
守り巾着からは、仄かに白檀の香りがした。