月に叢雲と金平糖 ◆ 三


よくよく考えれば、なんとも子供染みた所業をしたものである。
三月は、兎角足繁く通ってくる大和を避けている真っ最中だったが、それにしても、番傘の中に金平糖を入れたのは流石にまずかったか。
――もしかして、それを根に持ってるんじゃないか……?
馴染みの喫茶店のカウンターの内側にしゃがみ込みながら、そんな言葉が頭を過ぎる。いくらなんでも巫山戯たことをしでかしてしまったのかもしれない。
(参ったなぁ、一発ぶん殴ってるし……)
さて、何故三月がこんな場所に隠れているかと言えば、店の中には、例の二階堂大和がいるからである。遂にこの喫茶店に通っていることが知れてしまったところを、店主とナギが三月をカウンターの内側へと匿ってくれたのだ。
現在、その大和を迎え撃っているのはナギなのだが、どうやら先程から遣り取りが危うい。三月はそわそわとする胸を撫で付けながら、二人の遣り取りに耳を欹てていた。
「お前、和泉三月と親しいんだろ? ミツがこの店に入っていくところ、ちゃあんと確認してから来たんだけど……」
「貴方が、近頃ミツキを追い回しているスケコマシですね」
「追い回してるわけじゃないって」
ミツキは両手で口を塞いで、心の中で「追い回してるだろうがよ!」と叫んだ。恐らく、ナギもそう思っているような気がする。普段の口調より、少しだけ刺々しいように思う。
「大体、スケコマシってなんだよ。初対面なのに容赦のない奴だなぁ……」
「失礼。女性をずさんに扱う男と聞いていましたので」
「ははは……ミツ、そんなこと言ってたのかよ」
「しつこい男は嫌われますよ、ミスターニカイドウ?」
大和は、今度は返事をせず、ナギの座っているカウンター席に近付くと、そこに手を突いて寄り掛かった。
「で、ミツはどこだよ。悪いようにはしない。少し話がしたいだけなんだ」
「本当にそれだけですか?」
「それだけだよ? 今のところはな」
えー、ヤダ、絶対それだけじゃ済まねぇ……と三月は思う。近付いてこられると、流石に身の危険を感じる。
「なぁ、マスター。このカウンターに隠してたりしない?」
三月は、口を押さえたまま飛び上がった。流石にぎくりとした。
どくどくと脈を打つ心臓を押さえて、とにかく息を殺していた時だった。カウンターの内側からだけ見える店の奥で、何者かが手招きをしている。
三月は、キョロキョロと辺りを見渡し、それから人差し指で自分のことを指さした。
(お、オレ?)
すると、その何者かはにこりと笑って、何度か頷く。柔和な優男だった。
三月は招かれるまま、奥の部屋へ向かう。店主が勘付いて影になってくれたため、ナギからも大和からも気付かれることはなかった。
「どうぞ、ご覧になっても構いませんよ」
三月が別の部屋に逃げ込むと、店主は大和に向かってカウンター下を指して見せる。
大和はずいと身を乗り出してその中を覗いたが、既に三月の姿はない。それを確認すると、肩からずり落ちた襟巻きを手で払って戻した。
「……ああ、本当だ」
「だから、先程から言っているではありませんか」
「じゃあ、一体どこに消えちまったんだかなぁ……あんた、本当に知らない?」
「ワタシはあんたではありませんし、無礼な男に名乗る名前もありません」
二人の間のどこかピリピリとした空気は相変わらずだ。
「知ってるよ。お前さん、かなり目立つからな。留学生の六弥ナギ、だったか。本当に留学生なのかは知らないけどな」
そもそも本名なのかどうかも、と言い掛けた大和に、ナギがにっこりと笑って「無礼な上に、無粋な男ですね」と呟いた。
「ワタシもあなたを知っていますよ、ミスターニカイドウ。母が好んで見ていた芝居の主演役者に大変似ているものですからね……眼鏡を外したら、もっとそっくりかもしれませんが」
「……それがどうしたよ」
いつものらりくらりとした調子で話す大和の声色が、凄む。その瞬間に、三月はつい顔を出しそうになった。
けれど、すぐ隣に立っていた男が、「しぃ」と口の前に人差し指を立てて見せたので、顔を覗かせるのは控えることにした。
「……すみません、助けてもらっちゃって……お店の人ですか?」
「うん、本当は店の持ち主なんだけど、あまり店の方には出られなくてね。でも、ナギの友達が困っていたみたいだから、つい」
お節介じゃなかった? と囁く男に、三月はぶんぶんと首を振る。不可思議な空気を纏った綺麗な男だった。
「どうして追われてるの? 借金取り……ではないか。君がチャーミングだから、かな」
「あー……あの人、悪人面ですけど借金取りじゃなくって……まぁ、なんていうか、色々と深い事情がですね……」
「ケンカ?」
「似たようなもんです……」
小さくなる三月に、男はにっこりと笑った。
この痩身の優男には、どことなく色気がある。しかし、それ以上に顔色の悪さが気になってしまい、三月はきゅっと眉根を寄せた。
「なんとか仲直りできると良いね」
「そう、ですね」
そんな男の雰囲気から、三月は呑気にも取れる返事をしてしまった。――何かの病気だろうか。あまり店には出れないと言っていたし。
「あの……」
三月が言い掛けた時だった。
「ミツキ!」
部屋の中に入ってきたナギが、三月を呼ぶ。
「一緒にいたのですね……」
隣の男を一瞥し、ナギが小さく「寝ていなくて大丈夫なのですか」と尋ねた。
「大丈夫。今日は天気が良いからね。少しくらい起き上がらないと」
「……無理はしないで……それより、ミツキ、スケコマシヤマトは諦めて帰っていきましたよ」
「お、おう、ごめんな、ナギ……」
やはり、寝ていないとならない体調なのだと、三月は優男を見上げる。申し訳なさそうな三月に、男はふっと笑って首を横に振った。
「俺は部屋に戻ってるよ。何事もなくて、良かったね」
「は、はい。ありがとうございました」
去って行く男に、三月はぺこりと頭を下げる。
ふとナギを見ると、とても複雑そうな、寂しそうな顔をしていた。「あの人、体の調子悪いのか?」とは迂闊に聞けない空気だった。
そんな空気を先に破ったのは、誰でも無いナギの方であった。
「ミツキにお届け物です」
「え?」
大和は諦めて帰ったと言っていたから、完全に安心しきっていた。
何だろう、と三月が首を傾げると、ナギは小さな紙袋を寄越してきた。桜色の紙袋に丸々とした兎の印が押されたそれを開くと、中には――金平糖が入っている。
「……金平糖……?」
大和の番傘に金平糖を仕込んだのは間違いなく三月だとわかっているのに、そんな三月に金平糖を置いていく男の神経が知れなかった。
(……怒って、ないのかよ)
しつこい男は嫌われる。しかし――三月は桜色の紙袋も持ち上げ、ほっと息を吐いた。安堵する。真意が見えないもどかしさと、気まぐれにしては愛らしい金平糖が、つい三月を笑わせた。
「ミツキ?」
「ん、ああ……ごめん。ありがとな、ナギ。直接会ったら動揺しそうだったから、助かった」
そう伝えると、ナギは静かに笑って頷いた。
「……友人に、なれそうですか?」
「どうだろう……」
どうだろう。からんころんと袋の中で揺れる金平糖。似付かわしくないなと思う。まるで、女子供にくれてやるみたいな桜色の袋を、何故三月の為に。そう息を吐く。悩ましい。
袋を開ける。手の平に転がした白と桜色の金平糖を口に放り投げて、くしゃりと噛んだ。呆気無く星屑になった砂糖菓子を飲み下す。
「どうだろうなぁ……」
折れてやることはできない。できないが、折れてやることはできないよ、と伝えてやることくらいはできるだろうか。

翌日は、ざらざらと雨が降っていた。芳しくはない天気の下で羽織を濡らしながらそれでも通ってくる大和に、三月は馬鹿馬鹿しいと思いながら、それでいて、胸の何処かでは安堵を覚えていた。
「……なぁ、いつまで続けんの」
ざらざらと、大和の番傘を雨が打つ。
新聞社の玄関口から三月が顔を覗かせると、大和は僅かに目を見開いたが、すぐに涼しげに笑った。
「そりゃあ、ミツがお兄さんに振り向いてくれるまで」
「諦めがさ、悪いんだ」と、そう言った大和に、三月は溜息を吐く。本当に、足繁くご苦労なことだ。
「あんた、引く手数多なんだろ。オレは振り向く気ないよ」
鳴っていた雨が、さらさらと僅かに弱まった。
「ああ、雨音で聞こえなかった」
「聞こえてたくせに」
「本当だって。聞こえなかったんだよ」
大和の羽織の袖が濡れて濃くなっているのを見下ろしながら、三月はもう一度言う。
「あんたがどんなにあの手この手を使ったって、オレは二階堂さんのもんにはならないよ」
黙って聞いている大和が、そこを退く気配はない。ただ、静かに三月の方を見ている。それも手練手管の内の一つなのかもしれない。
だけど、と、そう言って三月は顔を上げる。
「金平糖は、ありがとな」
すると、僅かに大和の眉が上がった。ほんのりと色の付いた笑顔が溢れ、切れ長の目が細くなる。
何でもないような顔以外もできるんじゃないか。そう思うと、大和の整った目鼻立ちから視線を逸らせなくなった。
「どういたしまして」
雨がさらさらと音を立てている。静かに通る声が、しかと三月の耳に届いた。