夢見月のゆりかご


「Hi! ミツキ〜、こちらに袖を通してくださーい!」
ナギの顔に弱い。どんなに眺めても慣れない。耐性がまるで付かない。なので、頼まれたら弱いままなのだ。いつまで経っても勝てる気がしない。
そんな風に思いながら、三月は自身の目の前を手で覆った。
「やめろよー……それ、大和さんの差し金だろ!」
自分の衣装のブレザーを三月に向けながらにじり寄ってくるナギに、三月は後退る。
ナギにもそういう着せ替え趣味があることは知っているが、違う。これは違う。この癖は本来、今日収録現場にいないリーダーのものだ。
「ミツキの写真と引き換えに、コラボカフェに付き合ってくれると言いました!」
「くっそー! あのおっさん、後で覚えてろよ……!」
撮影の合間の自由な時間、三月とナギは、二人で校舎の廊下を走り回っている。
三月は既に撮影を終えているが、ナギはそろそろ撮影前のメイク直しに入るはずだ。もう少しで逃げ切れる。
そんな三月の目論み通り、女性のメイクさんがナギのことを呼んだ。ナギは残念そうにブレザーに袖を通し、そして、とぼとぼと撮影場所に戻って行った。
「助かったー……」
三月はと言えば、学校内の散策に戻る。鼻歌交じりに廊下を抜けて、屋上への階段を見上げる。
「そういえば、大和さんの撮影場所は屋上だったっけ……」
すっかり好物:メロンが定着している大和が、メロンミルクのパックを片手に衣装に対してぼやいていたことを思い出し、三月はくっと笑いを噛み殺した。
屋上への階段を何の気なしに上がっていく。ドアノブに手を掛けて捻ると、どうやら外に出られるらしかった。
上履きのまま屋上の床を踏み、そして、両腕を上げて伸びをする。
三月の衣装はと言えば、ベージュのカーディガンだった。
大和がしきりに自分のブレザーを着せたがっていたのを思い出す。撮影スケジュールが合わなかったので完全に回避したと思っていたのに、その結果、ナギに追い掛け回される羽目になるとは思わなかった。
「嫌じゃねーんだけど……」
嫌ではないが、やっぱりちょっとしつこすぎないか? と思ったりもする。毎度毎度では三月も困惑するし、辟易してくる部分もある。
「……嫌じゃ、ねーんだけどなぁ」
素直に着るのは、ちょっと悔しい。
ご機嫌な大和を見るのは嫌いじゃないが、自分がからかわれているのだとしたら、それは別問題なのである。
「からかってんだよな……?」
新しい衣装を渡される度に、その衣装が何故か三月に回ってくる。着せる時間がなければ、せめてと羽織らせる。
(何が面白いんだか……)
大和が撮影に使っていたベンチに座る。横になって、空を見上げた。
「いーい天気!」
三月は、もう一度伸びをした。
ここに来て、全員で学生服の衣装を着ることになるとは思わなかった。
現役高校生の環や一織が似合うのは勿論、陸や壮五もばっちり似合っている。ナギなんて、アニメやゲームの登場人物のようだ。大和も、本人こそ不本意そうだが、学生役もまだまだいけるんじゃねぇかなぁと思う。
三月は、自分のカーディガンの袖から出ている指先を見て、はぁっと息を吐いた。
当然、自分も似合っている。まるで現役高校生だ。――そうやって揶揄されるんだろうな、大和さんに。そんなことを考えると、今から溜息が出てくる。
(かわいいってことなんだろうけど……)
成人男性のプライドが全力で抗ってしまう。
(いや、ていうか、おっさんの言い方も悪いだろ。バカにしやがって……)
本物の高校生みたいじゃん、ミツなら学校に忍び込んでてもバレなさそう、とか、言う。多分。なんだったら、中学生に見えるくらいまで言われそうな気がする。
三月はむっと眉をしかめて、それから春風に吹かれた前髪を摘まむ。
「もっと大人っぽく見えねぇもんかなぁ……」
「かわいい」が自分の魅力であることは百も承知で、そう思わずにはいられない。
「大和さんだってさぁ、もっと」
もっと、からかわないでいてくれればいいのになぁ、そんなことを思いながら目を閉じた。

春の日和での、ほんのうたた寝だった。そのはずだった。

目を開けると、三月はロケバスの中で眠っていた。
「……あれ?」
頭を掻いて、体を起こす。しぱしぱとする目を軽く擦り、頭を振った。
「……オレ……どんくらい寝てた?」
確か、屋上でぼんやりしていたはずだったが。
薄暗がりの車内を見渡して、誰もスタッフがいないことに気付く。
「やべ……寝過ごした?」
三月は慌ててバスを降り、それから、周囲の景色が先程と僅かに違うことに狼狽えた。
「……あれ?」
似ている。
ロケバスは学校の門の前に止まっていた。よくある風景。IDOLiSH7の面々が撮影をしていた学校とも似ているが、けれど、何かが違う。
それに、人がいない。あれだけいたスタッフが忽然と姿を消している。
「……オレ、まだ夢でも見てんのか……?」
むにっと頬を摘まんでみたが、なんとなく痛い。
「夢って本当に痛覚ねぇのかな……」
家で寝ていると常に甘い匂いがしていたから、夢の中でも嗅覚はあった気がする。痛覚は、どうだっただろう。
摘まんだ頬を撫でて、三月はふらふらと周囲に視線を巡らせる。
「誰かいませんかー!」
声を出してみたが、それで何か変わるわけでもなかった。
「おっかしいな……」
もう一度頭を掻いた。僅かに焦りが滲む。
「なぁ、ドッキリかなんか……?」
それにしては、閑散としすぎていやしないだろうか。まるで夏にやる心霊番組のようだ。まるで、ではなく、まさにそんな空気だった。
遠くでごうと風が鳴る。先程の春風とはまるで違う、どこか荒々しい風だった。
「……冗談だろ」
人気のない学校を振り返り、校門とは逆に歩き出す。
学校から離れたら、少なくとも地元の人間がいてくれるかも。今はただ、なんとなく人の気配を感じたい。
しばらくふらふらと歩いてみても、三月の行動を抑えるような気配も、止める人も現れない。
(撮影じゃないのか……)
――じゃあ、この世界はなんだろう?
段々と足取りが重くなる。よくある河川敷が見えてきたので、早足で上ってみた。周囲を見渡してみても、やはり人の気配はない。
「……やっぱり、なんか変だ」
思わず、口の中の唾を飲み込んだ。
こわい。なんか、こわい。もう一度、今度は学生ズボンの上から太腿を抓ってみる。やっぱり痛い。――これは夢? それとも……なんだ?
三月は再び顔を上げて、人を探す。
「誰かいませんかー! すみません、誰か……!」
そんな三月の背後を、何者かの気配が横切った。
「あ……」
慌てて振り返る。通り過ぎていく背中を見て、三月は思わず声を上げた。
「大和さん?」
振り返った影は、見知った大和の物だった。
「大和さん! 良かったぁ、なんだよー……何これ、聞いてないよ、こんなの! めちゃくちゃ怖かった!」
「……何?」
「何って、そりゃこっちのセリフ……」
「どちら様ですか」
三月は、思わず瞬いた。
「え?」
目の前にいるのは二階堂大和に違いないのに、まるで三月を知らないような顔をして、そうして「誰」と問う。
「な、なんだよ。勘弁してよ……なぁ、これ撮影? いくらなんでもさぁ」
「撮影……?」
撮影かと疑う三月に、大和の方が訝しむ。突然険しくなった表情に、三月は思わず口を閉ざした。
(うそ……)
いつもよりぴりついた大和の空気に、つい仰け反る。
よく見れば、見慣れない学ラン姿をしていた大和に、三月は「え」と声を漏らした。
「馴れ馴れしくて変だと思った。お前、業界の人間? それで俺のこと知ってるわけ?」
「いや、何言ってんだよ大和さん。知ってるも何もオレたち……」
こんなに険しい顔をした大和は、見たことがない。
三月は思わず後退った。そんな三月に、目の前の大和は嘲笑を浮かべ、それから冷たく投げ掛ける。
「どこの事務所だよ。学生アイドルか何か? 俺に媚びれば、あいつに会えるとでも言われたわけ?」
「あいつって……」
こわい――さっきとは違う別の怖さが、三月の喉元をきゅっと絞める。
「親父さん……?」
だから、余計なことを口に出してしまった。慌てて自分の口を塞ぐ。
けれど遅かった。大和の嘲笑が明らかな軽蔑を浮かべたのだ。
頭の中で、ざっと血の気が引く音がした。
「ち、違うよ……! オレ、そんなつもりじゃない!」
「そんなつもりじゃないならどんなつもりだよ。じゃあ、なんで俺のこと知ってる?」
「違うよ。オレは、あんたに……」
「気安く話し掛けんじゃねぇよ」
大和は鞄から財布を取り出し、適当に中身を掴み取ると、三月の胸をどんと押す。
胸元を見下ろせば、一万円札が何枚か握られてくしゃくしゃになっていた。
「これ持って、とっとと消えろ」
怖いという気持ちが怒りに変わるでもなく、ただ、ただただ悲しくて苦しくなった。
嫌悪の感情を正面からぶつけられ、けれど、その理由を知らぬわけでもない。よりにもよって、信頼している大和の声と顔で三月を突き放したのだ。
「いら……いらないよ、こんなもん……!」
嗚咽が喉から迫り上がる。
ばらばらと三月の足下に落ちた一万円札を見下ろす。そのまま重力に引かれて、目から涙が零れそうだった。
堪えるために顔を上げる。目の前には、呆れ果てたような冷たい表情の大和がいるだけだった。
「遠慮すんなって。拾えよ」
「そんな言い方……っ!」
堪えきれず、ぼろっと涙が溢れた。目尻を拭う。
「そんな言い方、しなくたっていいだろ……っ!」
三月は、止まらない涙をごしごしと拭う、カーディガンの袖が湿っていく。衣装なのに、と思いながらも、そうすることしかできない。
大和はただ、三月のことを見ている。ただ見ているだけだった。何も感じていないような表情のまま、ただ。
三月は足下の一万円札を全て拾って、そのまま、大和に突き返す。
これが夢なのか、それとも現実なのか、そんなことはもうどうでもよくなっていた。どうでもよくて、許せなくなっていた。
「いらない!」
「……俺だっていらねぇよ」
三月の泣き顔を見ようものなら困った風な顔をする大和が、ぴくりとも表情を変えない。骨張ってすらっとした手で撫でてくれることもなく、ただ微動だにせず三月を見ている。
いや、睨んでいるのだ。だから、三月も瞳を上げて睨み返す。
「オレは、あんたにこんなことされたくない……!」
「……馬鹿馬鹿しい」
ふらりと背中を向けた大和が歩き出す。三月は思わず踏み出した。
「夢でだって、嫌だよ……大和さん……」
この大和に信じてくれと言うことも、信じてもらうことも叶わない。それが辛くて苦しい。寂しい。
くしゃくしゃに握った一万円札を手放すと、はらはらと散って川に流れていく。それを、涙目で見送る。
高台を降りて、ふらふらと当てもなく歩く。
大和以外誰一人いない世界なのに、何故だろう、大型のトラックが走っていて、三月は「ああ」と頷いた。
「交通事故にでもあって、謝りにくりゃあ良い、か……」
そこに大和はもういないのに、一体誰が謝りに来るって言うんだろう。

夢では痛覚がないなんて、嘘だ。三月は咄嗟にそう思った。
目を開けると、ばたばたと目の縁から涙が落ちた。視界がぼやけて気持ち悪い。その上、体が打ち身を錯覚して痛む。肺の奥がずきずきと音を上げていた。
忘れていた呼吸を思い出し、はっと息を吸う。ベンチの上で横向きになって、ごほごほと噎せた。
「ミツキ!」
「三月……!」
ぼんやりと、再び目を開ける。涙を拭うと、そこには心配そうな表情をしたナギと陸、そしてスタッフが二人ほど三月を見ていた。
三月は、掠れた声で「ナギ」と呟く。ナギが膝を突いて、三月の目元を指で優しく拭った。
「ミツキ……どうしましたか……? 随分とうなされていました……、それにこんなに涙を流して……」
けほ、と最後の咳をする。
「だ、大丈夫」
胸の奥が、どくどくと音を立てる。わかっていたはず、夢だってわかっていたはずなんだ。現実に戻ってきたことに心の底から安堵する。
ナギと陸と同じように、スタッフたちも三月のことを心配そうに見ていた。
「三月くん、今日はもう上がろうか……」
「そうだね、撮影ももう終わっているし……」
大丈夫ですよと言い掛けた三月に変わって、ナギがすくっと立ち上がり、振り返った。
「そうさせて頂きたいです」
「ナギ、そんな心配しなくても……」
「三月、オレもそうした方がいいと思う。ちょっと家で休もうよ」
ナギを制止しようとする三月の肩を、陸がとんと叩いた。
「でも……」
三月の遠慮とは裏腹に、スタッフはナギの言葉の通り、マネージャーを呼んでくれた。結局、三月は一足先に寮に戻ることになった。
「変に時間が空いちまったなぁ……」
予定にない空き時間ができると、途端に手持ち無沙汰になってしまう。特に体が疲れているわけではないし、気持ちが疲れているかと言えばそうでもない。ただ、前の悪夢が胸にちくりとトゲを残しているだけで。
三月は、手持ち無沙汰ゆえにカップに流し込んで作ったプリンを冷蔵庫に収めて、はぁと溜息を吐いた。
「たっだいま~!」
そんな時だった。環が帰ってきたのは。
「おう、おかえり」
「あれ、みっきー? もう帰ってたの?」
誰もいないとしても「ただいま」を言う環に、三月は思わず笑う。
「おう、ちょっと早く終わってさ。プリン冷やしてるとこ」
「え! マジ? おー! ほんとだ!」
冷蔵庫を開けて、「よっしゃ!」と喜ぶ環のキラキラした横顔に、三月はまた安堵する。
――こわいのは夢だけだ。現実はこんなに穏やかで優しいじゃないか。
ふるふると頭を振った。トラックに引かれた幻想に捕われたのか、僅かに残っていた頭痛や鈍痛も、今はもうない。ようやく解放されたような気がした。
「なぁ、これいつ食える?」
「晩飯終わったらな」
「うおー……今すぐ食いてぇ……!」
うぐぐぐと唸りながら冷蔵庫の前でばたばた足を鳴らしている環。
三月は、環の大きな背中をポンポンと叩いて、冷蔵庫を閉めさせた。
「一織は?」
「りっくんと合流して、二人で仕事だってさー」
「じゃあ、ナギと壮五が前に帰ってくるか」
壮五はともかく、ナギには恥ずかしいところを見せてしまったな、と頭を掻く。
うたた寝をしながら号泣するだなんて、自分ではどうにも制御しようがないが、それでも恥ずかしいに違いはない。あまり広まらないといいんだけど……と三月が思っている最中、また玄関が開く音がした。
「帰ってきた」
三月は、環と一緒に玄関に向かう。
「おう、ただいまー」
そこにいたのは、ボディバックを担いだ大和だった。靴を脱ぎながら環と三月をそれぞれ見て笑う大和に、三月の胸がぎくりと音を立てる。
「タマとミツがいたか。あー、ミツ、体調悪かったんだって? ナギから労えってラビチャが……」
――ミツ。
何気なく名前を呼ばれた。ただそれだけだ。なのに、きゅっと喉元が狭まる感覚がした。鼻の奥がツンとして、目頭がギリリと痛む。やばいと思った時には、ぼろっと涙が零れていた。
「え」
「み、ミツ?」
三月の隣にいた環が、ぎょっと飛び上がる。大和はといえば、片方だけ靴を脱いだそのままの姿勢で固まった。
「あ、あはは……」
洒落にならないくらい大粒の涙が、ぼろぼろと落ちてくるばかりだ。三月は手の甲でごしごしと目を拭ってみたが、それでも後から後から溢れてくる。
――やっばい。
「あは、なんだこれ? あれ……なんか、ちょっと」
――止まんねぇ……!
嗚咽が言葉の邪魔をする。けれどなんとか「部屋で落ち着いてくる!」と言い残して、三月は自室にダッシュした。部屋に飛び込んで、そのままベッドにダイブする。やばいやばいやばいと何枚もティッシュを取って、止まらない涙を拭って鼻をかんだ。
「……っ、はは、あはは……」
――やばい、安心して、涙止まんない……。
いつもの大和が、嬉しくて堪らなかった。



ナギから、あらかじめラビチャが来ていた。用件はこうだ。
「ミツキがヤマトの名前を呼びながらうなされていました。ミツキを苦しめた心当たりはありますか」
あまりにも刺々しい。大和に思い当たる部分などないと言うのに。
「そんな恨まれることしてねーっつーの……」
少なくとも、ここ最近は。
もう痛まないはずの頬が、ぴっと引き攣る。いや、最近は本当に何もしてないはずだ。強いて言えば、ナギのブレザーを着せられた三月の写真をせびったことくらい。それだって、いつものことだろうに。
「……そのいつものことが嫌だったのかな」
泣きながら自室に戻っていった三月の顔が、頭に貼り付いて離れない。
「ヤマさん、みっきーに謝れし」
「本当に何もしてないんだってば……」
大和はソファに座って、顔を覆って項垂れている。多分、もう三十分以上こうしている気がする。
「みっきー、ヤマさんの顔見て泣いてた。俺見たもん……」
「俺だって見たけどさ……」
あんな泣かれ方したら、流石に堪える。傷付いたみたいには泣いて欲しくない。けれど、さっきのはどう考えてもそういうやつだ。
「ヤマさん謝ってこいってば!」
「だから、理由がわかんねぇのにどう謝りゃあいいんだよ……」
「ごめん。なんで泣いてんの? って聞けばいいじゃん!」
「もう一回泣かれたらどうすんだよ! 泣いちゃうだろ! お兄さんが!」
「よっわ……」
「そうだよ、俺は弱いんだよ!」
――特に、ミツには……。
環の手前、まだ人の形状を保てているが、誰もいなかったら床に這いつくばって立ち直れない。あんな、避けるみたいに逃げられたら……。
大和はどんよりとした表情を上げて、重い溜息を吐いた。
「タマ、聞いてきて……」
「ヤマさんバカ! だっさ!」
「俺が直接行くよりいいだろ……ミツも気が動転してたみたいだしさ」
明らかに落ち込んでいる大和を目の前に、環はぐぬぬと難しい顔をしていたが、何かを思い立ったのか、のそのそと三月の部屋に向かった。
暫くして戻ってきた環は、「嫌いになってないって」と言った。
「……じゃあ、なんで泣かれたの、俺……」
「なんか、安心したって言ってた。大丈夫だから、ちょっと落ち着かせて欲しいって」
水臭いなぁと思いながらも、放っていて欲しいと言うならそうしてやりたい。けれど、その反面、腕を伸ばして抱き締めてやりたい気持ちもある。
けれど、相手は三月だ。自分でそう言った以上、大和が迎えに行ったところで、岩戸を開けるとは思わない。
「……そっか。ありがとな、タマ」
「おう……」
とりあえずは取り乱していた気持ちを落ち着かせ、大和は頭を振った。
「飯、どうすっかな」
「ヤマさん、俺思うんだけどさ?」
「どうした?」
「みっきーがヤマさんの顔見て泣いたこと、いおりんにバレたらやばくね?」
ぎくっと環を振り返る。「やばくね?」ともう一回言った環に向かって、大和は、すっと眼鏡のブリッジを上げた。
「……やばい」
「ぜってーやばいよな?」
理由がわからない以上尚更だ。
大和は、とりあえずナギに「ミツに聞いたら、どうやら俺のせいではないらしい。原因はまだわからん」と連絡をした。それから、壮五にも早い内に手を回す。
「いいか、タマ。今、ミツの飯はソウに頼んだ。俺たちは、ラーメンを食いに行こう」
「えー、冷蔵庫にみっきーのプリンあんのにー……?」
「プリンは逃げねぇよ。俺たちが皆で騒いでたら、ミツの奴も出てきにくいだろ?」
「……わかった。俺といおりんと、りっくんと……ナギっちは?」
「ナギは……」
ふむ、と天井を見上げる。
「……家にいてもらった方が、ミツも落ち着くかもな」
ナギは察しがいいし、優しい。三月が凹んでいる時も、上手い具合に接してくれる。
「ナギにも、留守番頼んでみるよ」
「うす。替え玉何個まで?」
「あー……何個でも……」
「よっしゃー!」
冷蔵庫のプリンに向かって「待っててなー、プリン~」と話し掛けている環を後目に、大和は三月の部屋の前に向かう。ドアをノックして、声を掛けた。
「ミツ」
ぐす、と鼻をすする音がした。
「な、何?」
「子供たち連れてラーメン食いに行ってくるわ。お前さんの飯はソウとナギに任せたから、落ち着いたら降りてきな」
「……わかった。ごめんな」
コツンとドアが鳴る。――開くか……?
「大和さん」
「どうした?」
やはり開かない。少し落胆する。
なるべく落ち着いて返事をしようとしたが、どうしても緊張感は残る。
嫌われたわけじゃない。大丈夫。そう言われたって、目の前で大粒の涙をばたばたぼろぼろ流されると動揺する。
「夜、部屋、来て欲しい」
ドア越しのくぐもった声に、大和はふっと息を吐いた。
「……わかった」
「大和さん」
「はいよ」
落ち着くまで返事してやろうと、自分の中のありとあらゆる言葉を飲み込んで、ただ三月の声に応じる。
「……オレ、今、あんたに優しくして欲しい、かもしんない」
――どうしちゃったんだ、お前さん……。
大和は今すぐにでもドアをこじ開けて、三月を力一杯抱き締めてやりたくなった。頭を撫でて離さないで、三月が欲しいと思う言葉を山ほど掛けてやりたくなったが、それでも――それでも、咄嗟に手を掛けたドアノブから手を離す。
そっとドアに手の平を合わせて、息を吸った。
「そんなこと言われたらお兄さん、目一杯甘やかしちゃうからな。覚悟しとけよ」
「……うん」
うん、ともう一度返事をした三月に、大和は思わず顔を覆った。
(あーもう、今すぐ抱き締めてぇ……)
ぐらんぐらんと揺れる煩悩を、頭を左右に振って振り払う。振り払いきれない。仕方ないので、さっさと共有スペースのリビングに戻る。
「あ、大和さん!」
帰ってきていた壮五とナギが、大和を迎えた。
「ミツキは落ち着きましたか?」
「ああ、とりあえず話してくれたから、飯準備できたら呼んでやってくれるか?」
「はい、勿論です」
壮五はエプロンを拾い上げて、さっさと台所に立つ。そんな様子によしよしと思っていると、外から環が入ってきた。
「ヤマさーん! いおりんとりっくん帰ってきたから、ラーメン屋行こー!」
「あ、ああ」
そうそう、一織に何か勘付かれると、今のところは良くない。今のところは。
「二階堂さん、兄さんの調子がよくないと七瀬さんに聞いたんですが、どんな様子なんですか? 七瀬さんは疲れてるのかも、としか言わないですし……」
「いや、まぁ、ちょっと疲れてるっぽいぞ。大丈夫、体がどうこうじゃないって。なあ、タマ」
「そう。プリン作っといてくれたし」
訝しげな顔をする一織。大和と環は咄嗟に目配せをする。陸も珍しく自分の手で口を塞いで静かにしている。……塞いでないと何か言うのか。どうなんだ。逆に不審に見えるので、その手をどけて欲しい。
「その手はなんですか、七瀬さん」
ほら! と、大和と環が唇を結んだ。
「ふぁんふぇふおないふお」
「……なんでもなくないですよね?」
一織は、ちょっと可愛いな……みたいな顔をしている。たしかに、この陸は可愛い。
「私も少し兄さんの顔を見たいのですが……」
「落ち着くまで待ってって言ってたから、俺らはラーメン屋行くんだよ! じゃねーと、いおりんのプリンねーから。俺がもらう」
「なっ! なんでですか! 私だって兄さんのプリン食べ……っ!」
環の発言に食って掛かりかけた一織に、大和はにや~と笑う。
「食べ?」
そう尋ねると、一織はごほんと咳払いをした。
「……食べたいです」
「だよね~!」
自分の口を塞いでいた陸がぱっと手を離し、そのまま一織の腕を引っ張って道路に向かって歩いて行く。
「あ、ちょ、ちょっと七瀬さん!」
「プリン食べたいし、ラーメン屋さん早く行こうよ! ねー、環と大和さんも早く~!」
陸にああして腕を引かれては、一織に抗う術はない。環と大和ははーっと息を吐いた。無論、安堵の息である。
「じゃあ、ソウ、ナギ、ミツのこと頼むわ」
「はい。任せてください!」
「立派にエスコートしてみせますよ」
お兄さんがエスコートする分もとっといてね、とは言わなかった。多分夜の部が残っているはずだから。
「そーちゃん、ごはん辛くしすぎんなよ。帰り、アイスいる?」
忠告の後に突拍子もないアイス発言をする環に、「もしかしなくてもそのアイス買うのお兄さんじゃない?」と思う。思いつつも、アイスのお誘いに嬉しそうな壮五の顔を見れば、野暮なことは言うまいと思う大和である。
「うん、環くんが買ったのを少しもらおうかな」
「おー、買ってくんな」
ひらひらと手を振って送り出された。
これでとりあえずは安心だろうし、四人が帰る頃には三月も落ち着いていて欲しい。
大和はちらりと寮を振り返って、わーわーと騒いでいる三人に合流するのだった。

環が三玉目の替え玉を平らげた頃、冷蔵庫に鎮座しているプリンのことを思い出させて、それでようやく箸を止めさせた。
壮五に「そろそろ帰っても良いか」とラビチャで尋ねる。
「大丈夫です」という返事に安堵して、大和はカウンターから立ち上がり、お勘定を申し出た。
「食ったー! 次、アイス!」
ラーメン屋の外に出て飛び跳ねる環に、陸が笑う。夜も深くなってきた頃だから、一織が小さな声で環を窘めた。
「四葉さん、騒がないでください。ご近所に迷惑です」
「いおりん真面目~」
ちぇーと伸びをする環が、もう一度ぴょんと跳ねた。
「ねぇ、環。なんでぴょんぴょんするの?」
「アイスとプリンの分のスペース空けてんの」
「空くの? オレもやろう!」
ぴょんぴょんと跳ねている環と陸に、一織が静かにスマホのカメラを向ける。
「一織もおなか空けようよ~」
「結構です。続けて」
「ぴょんぴょーん」
「くっ……!」
ぴょんぴょんと声に出しながら跳ねている環と陸を、ラーメン屋の前で動画に収める一織。
勘定を終えて出てきた大和は、その愉快な絵面を見て、思わず首を傾げた。そして、さっとスマホを向けて、撮影している一織も入るように写真を撮る。――カシャという音に、三人が振り返った。
「に、二階堂さん、何撮ってるんですか……!」
慌てる一織。そして、嬉しそうにわーっと腕を上げる陸と環。
「あ、ヤマさん! ごっそーさん!」
「ご馳走様でした~!」
二人のお礼に釣られて、一織も渋々「ご馳走様でした」と呟く。
「今の写真消してくださいね!」
「えーヤダ~、可愛い弟が楽しそうなところ、ミツにも見せてやんないとさぁ」
「やかましいです! ていうか、貴方の弟じゃありません」
「あ、そこ突っ込むんだ……」
まぁ、とりあえず消去はしない。
大和はそのままスマホをポケットに突っ込むと、コンビニに向かって歩き出す。
「ほら、アイス買いに行くぞ~」
「うーっす!」
「わーい! ほら、一織も行こうよ」
陸に呼ばれて、一織も続く。なんだかんだ、子供たちを連れて歩くのは楽しい。
コンビニのアイスケースを覗いている三人を後目に、大和は適当なつまみをカゴに入れる。素面で臨んでもいいのだが、念のために酒の肴も用意しておこうと思った。
(……優しくして欲しい、か)
大和は、多少、いや、かなり酔っていないと甘えきれない。酔っていないとと言っても、いつも記憶はほとんど残っているが、それでも酒というものを免罪符にしないと完全には甘えられない自覚はある。
(……甘えてますけどね)
――多少照れがあります。一応。
だから、三月のために、飲ませた方がいいのかもしれないとも思う。わからない。結局なんで泣いてしまったのかわからないままだ。大和に嫌悪してのことではない、らしい。それでいて、大和に優しくされたい、らしい。
(やっぱり、俺がなんかしたかな……)
ピリついた姿を見せただろうか。無意識の内に、ミツをひるませるようなことをしてしまっただろうか。
考えてみても思い当たる節がない。
「ヤーマさん!」
大和の持っていたカゴに、アイスが投げ込まれる。
「決めた!」
「お、おお」
「私は自分で買いますので」
大和は、片手に財布を握っている一織の手から練乳イチゴバーを抜き取って、他のアイスと同じようにカゴの中に入れた。
「今更遠慮すんなって」
わかっていただろうに、それでもうまく甘えられないんだろう。そんな一織に、大和はつい笑った。

寮に戻ると、既に食事の片付けまでを済ませたらしい壮五と三月が、ソファに座ってお茶を飲んでいた。
「ただいまー!」
「おー、おかえり」
「おかえりなさい」
環は、買ってきたアイスをさっさと冷凍庫に詰め込んでいく。
一織は三月に駆け寄って、そっと顔を覗き込んだ。
「兄さん、具合はどうですか?」
「おう、もう大分落ち着いたよ。陸も、心配掛けてごめんな」
「ううん。大丈夫そうならよかった」
「みっきー、プリン出していいー?」
「いいよー」
イエーイ! と喜んでいる陸と環の声を聞き付けてか、ナギが脱衣所から出てきた。
「皆帰ってきましたか?」
「ナギ、お風呂?」
「YES! 丁度出たところです!」
「こら、ナーギ」
騒ぎを聞き付けて慌てて出てきただろうナギの頭を、三月がバスタオルでごしごしと拭く。
「ワオ、ミツキ! 優しくしてください!」
「ちゃんと拭いてから出てこいっつーの……」
どうやら、本当に調子が戻っているようだ。
声を掛けても良いものか窺いつつ、大和は買ってきたつまみを台所に置く。
「大和さん、ありがとうな」
先に声を掛けてきたのは三月の方だった。大和は、ほっと安堵する。
「ああ」
顔を見ると、下瞼が少しぽてっと腫れていた。一晩眠れば収まるだろうか。既に風呂は済ませているらしい。
「お兄さんも風呂入っちゃうわ」
「プリン食わねぇの?」
「後で食べるから冷蔵庫入れといて」
ひらと手を振って、ナギが出てきたばかりの脱衣所に滑り込んだ。
多分、居合わせない方が三月にとっても都合が良いだろう。
大和は、ふうと溜息を溢した。
脱衣所の扉の向こうからは「うんめー」「流石ミツキでーす!」と騒いでいる環とナギの声がする。本当はそこに混ざりたかったけれど、大和はさっさとシャツを脱いで洗濯機の中に放り込んだ。
(まだ目がうるうるしてたな……)
ガシガシと、自分の頭を掻く。
(俺、何しちゃったんだろう……)

風呂から出て、三月の部屋に向かう。
ナギが無理矢理頭を拭かれていたのを思い出しながら、首に掛けたフェイスタオルでくしゃくしゃと髪の先を拭いた。
「ミツ」
「開いてるよ」
ノックをすれば、すぐに返事が返ってきた。大和はドアを少しだけ開けて、「酒、どうする?」と尋ねる。
ベッドに座っていた三月が、ぶんぶんと首を振った。
「飲み過ぎそうだからいいや」
「そっか」
なので、そのまま部屋の中に入った。三月の正面の床によっこいせと腰を下ろし、それから三月を見上げた。――優しくするってどうすればいいんだろう。やっぱり、多少なりとも飲んできた方が良かったかもしれない。
「えっと、さ。昼間はごめんな」
開口一番謝る三月に、大和は首を横に振る。
「驚いたけど、別にいいよ」
「環には言ったんだけど、大和さんの顔見たら、なんつーか、ほっとしちまって……」
それだ。一体全体、三月が気を張るような何があったのだろう。今日の現場は、ナギも壮五も陸もいたし、愛なNightの企画の比較的穏やかな撮影だったと思う。
「何かあったのか、撮影……」
大和が問い掛けると、三月はふるふると首を横に振った。
「順調だよ。撮影じゃなくてさ……その……」
ナギからのラビチャを思い出す。現場でうたた寝をしていた三月が、大和の名前を呼んでうなされていたそうだ。胸が少し苦しくなる。
「ミツ……言い難いことなのか?」
できるだけ優しく聞こえるであろう声色を心掛ける。すると、三月の瞳がまたふらふらと揺らいだ。――本当に、どうしちまったんだろう。
「……大和さん」
「うん」
ベッドに座っていた三月が立ち上がって、それからぺしゃりと床に座った。三月は黙ったまま、大和の肩にとんと額を当てる。
大和は、かいていた胡座を崩して脚を広げると、ゆっくりと隙間を埋めるように三月を抱き寄せた。
よしよしと頭を撫でて、ふわふわと柔らかな髪を梳いてやる。額を肩に擦り付けてくる三月が愛しくて、そのまま頭に口付けた。
「どーしたミツ」
「んー……」
トリートメントオイルの匂いだろうか、柔らかな甘い香りがして心地良い。そういえば、折角のプリンを食べないまま部屋に来てしまった。自分でも焦っていたのだと思う。
「変な夢見た……」
十分に間を置いてから、三月がぽつりと言った。
「どんな夢?」
「大和さんが、オレのこと知らない夢」
相槌を打って、三月の背中を撫でる。
「めちゃめちゃ冷たくて」
「う、うん……」
「すごい睨まれてさ」
「う、はい……」
「……こわかった」
背中を撫でる手を止めないまま、大和は居たたまれない気持ちになり、つい「ごめん」と謝っていた。
「あんたがオレに何かしたわけでもないのに、オレの方こそごめん……」
「いや、でも、うーん……」
思い当たらないことがないと言えば嘘になる。大分前のことであったとしても……あったとしてもだ。三月の記憶にそういう、冷たくあしらうような存在を残してしまったのだとしたら、自分に責任が無いとは言い切れないのだから。
「でさ……」
話を続ける三月が、大和の背中に回した手をぎゅっと握った。
「現実の大和さんにミツって呼ばれたら、なんか、ダメだった……」
今は泣いてないだろうか。心配になって、少し体を引く。
三月の顔を覗けば、憂愁の色を帯びてはいたものの、泣いてはいなかった。
大和は、ぽてっとしている三月の目尻に唇を寄せる。むずがるように身を捩った三月が、はっと息を吐いた。そうして、三月が首を伸ばした。大和の口に三月の唇が触れる。
「……ぎゅってして」
言われるまま、背中に回していた手に力を込める。
「大和さんのことが好きだよ」
「……うん」
「大和さんがIDOLiSH7のリーダーで嬉しいよ、オレ」
三月が、どういう荒み方をしている自分の幻影を見たのか。それを、なんとなく予感する。
大和はこくんと頷いて、三月の言葉を待つ。
「今も大和さんと一緒にいれて、幸せだよ」
――良かったなぁ、お前。
それは、腕の中の三月に掛けた言葉ではなかった。自分の中で、あるいは自分の背後で、様々なものを恨んで呪った過去の自分、それを、三月と一緒に抱き締めているような気分になった。
――良かったな、お前。
ああ、よくもよくも気にしいな三月の夢に現れて、残酷な幻を見せてくれたものだ。昔の自分だったら、「余計なことを」とその影を嫌ったに違いない。
なのに。
(ミツが、俺を愛してくれるから)
こんなにも優しくて快活な太陽みたいな存在の手を煩わせる、俺にそっくりな大馬鹿野郎め。そう思うのにも関わらず。
(俺も、お前を撫でてやれるよ)
背中に回っている三月の手が、大和の背中を撫でた。「優しくして欲しい」と言っていたはずの三月が、まるで大和の方を慰めるみたいに触れてくる。
「……ミツ」
忘れたりなんかしないし、現実に出逢っている。今この瞬間が本当で本物だ。
だから、大和は三月の名前を呼ぶ。できるだけ優しく、できるだけ柔らかく、愛しいよと名前を呼ぶ。
「ミツ」
今日、甘やかしていたのはどちらだったか。結局、和泉三月には敵わない。いつの間にか、ふかふかで暖かな感情に包まれてしまう。
「俺も、ミツに会えてよかった。お前らと、ミツといれて幸せだよ」
大和がそう言えば、腕の中の三月がふっと笑った気がした。
「なぁ、めっちゃはずいこと聞いていい……?」
そして、おずおずと大和に尋ねる。
「うん」
「オレのこと、好き?」
「好き」
えへへへと絞り出されるみたいに上がった三月の照れ笑いに、大和は心底安堵した。
ぎゅうぎゅうと抱き締め合って、甘やかしあって、どこからどこまでが自分たちなのかわからないそんな感覚の中を漂っている。
「俺は、ミツが好き」
顔を上げた三月が、上気した頬をふにゃっと持ち上げて笑った。そうして唇を重ねた勢いのまま、大和と三月は絨毯の上に倒れ込んだのだった。