嘘と真の漂着


「大和って、大人っぽい顔して甘えん坊よね」
甘やかしてやってると言わんばかりの指先に頬を撫でられて、ついと口角を上げる。
——違うね、逆だよ。甘やかしてやってるという悦楽に、こっちが浸らせてやってんだ。
大和は眼鏡の弦を上げて、目の前で笑っている女に微笑んで見せてやった。歳相応な無邪気さと、歳不相応な蠱惑を抱え、ふらりと眼を上げる。
「だって、優しいから……」
年上は良い。こういう顔を見せると、大和の思惑も腹の中も知らず甘やかしてくれる。眼鏡のレンズ越しに見える女の表情が、驚いたように震えて、それからまた嘘のように笑顔を作る。
「俺だけじゃないよ。男はみんな、おねーさんに優しくされたら甘えちゃうもんでしょ」
口先と触れ合いで相手の機嫌を操作して、自分が息をしやすい場所を作り出して、そこに寝転がって微睡んで。
バイト中に出会った女の部屋に潜り込むのは何度目だったか、数えてないから忘れた。そのくらい意味のない堕落だった。
「ね、だから、もう一回」
考えないようにそっと手口をすり替える。自分の頬を撫でていた指先に指を絡ませて、そっとキスする。マニキュアの剥がれた爪の先を暗がりの中でぼんやり眺め、込み上げてくる嘲笑を飲み込んだ。こういう態度がお好みだろうと相手を見つめてやれば、まんまと大和の誘いに乗る。
人の気分を動かすことは、こんなにも容易い。
回数を重ねれば重ねるほど、相手が自分を満たせないことを知る。相手を変えたところで変わりやしない。それでも、こうして「恋人ごっこ」をしていたら、いつか満たされることがあるんじゃないかなんて思った。思ったまま続けている虚しい演技に、自分でもイライラする。
「本当、甘えん坊」
——それは、アンタの方だろ。
大和が嘲るには、呆れるには、十分すぎる女のセリフだった。
踊らされてんだよ——踊らせてんだよ——それにしたって、見事に思惑通りくるくる踊ってくれるものだった。
女は大和の眼鏡の弦に手を伸ばし、すっと引き抜く。笑った表情が朧になって、霞んだ。
「大和の素顔、好きだな」
その一瞬、冷める音がする。グラスの中で氷にヒビが入るような、そんな音がする。ああ、折角楽しめてたのにな、なんて既に遠い過去のように目を細めて見つめた。
——俺の素顔なんて知らないくせに。
自分でも驚くほど冷たい息が、喉の奥まで這い上がってきた。けれど、それを安穏と飲み下し、大和は静かに笑う。
朧になろうが霞になろうが、霧になろうがなんでもいいや。知ったこっちゃないし、興味も失せた。
「……ありがと、好きだよ」
自分でも驚くくらいの、反吐が出そうな汚い名演技。
——もうこいつと会うのやーめた。


「大和さん、もうやめよ……」
びくりとする。
慌てて起き上がろうとするのに、まだ脳が覚醒しきっていないのか、身体の節々が動かない。見上げた天井は、自分の部屋と似てこそいたが、よくよく見ると違った。
「えっ……」
辛うじて、首だけを巡らせる。眼鏡がずれる。慌てて直そうとする。すると、にゅっと伸びてきた手が、優しくも雑に大和の頭を撫でた。
「やーっと起きた」
大和の髪をくしゃくしゃとする手の動きは次第に落ち着き、そのまま慌てて眼鏡の位置を直そうとしていた大和の手を撫でる。
「……みつ……?」
慌てなくていいよ。そう言われているような気がした。大和が眼鏡の弦から手を離せば、三月の手もそっと大和の手から離れていった。
落ち着いて見てみれば、ここは三月の部屋だった。確か、三月の部屋で部屋飲みをしようという話になって、それから——それから、である。
珍しく寝落ちてしまったらしい。大和は少しだけ体を起こして、すぐ近くにいた三月を見上げた。
床に座っている三月のその膝を見て、大和はのそりと近付く。三月の膝に頭を下ろせば、先ほどまで撫でてくれていた手が、ばしりと大和の頭をはたいた。一撃だけだったから、そのまま退かずにいた。
「壮五は部屋戻ったぞ……大和さんも早く戻れよ。オレも眠いし……」
「お兄さんも眠い」
「部屋行け」
「ここがい〜な〜」
「あのなぁ……」
呆れたような声を上げる三月が、ぼそりと呟く。
「甘えん坊もたまにはいいけど、いつもいつもじゃなあ……」
んー、と間の抜けたふりをする。これだけ距離を詰めておきながら、それでも間合いを知らないみたいに誤魔化してみる。
同じことをしている。口先と触れ合いで相手の機嫌を操作して、そこに自分の居心地の良い場所を作って。そうしているはずなのに、微睡の中で見た過去の姿よりずっと心が凪いでいた。
「……なんかあった?」
「何が」
「大和さん。なんか隠してる?」
「別に。ちょっと」
誤魔化して均したテリトリーを少しだけ揺らしてみたくなって、大和はボソリと呟いた。
「前に年上のお姉さんと付き合ってた時の夢見てただけ」
三月の膝が僅かに揺れた。
「……ほーん」
どうして、この小さいのは、大和の周りに女の影がちらつくと複雑そうな顔をするんだろう。
最初の内は、そこそこ顔が良いと評される自分への、よくある嫉妬だと思っていた。ミツの魅力はたくさんある。悔しいことに、自分が把握しきれないくらい三月の魅力は山ほどある。放っとく方がおかしいし、実際にはモテると思う。
だから、次はアイドルとしてのメンツのため、メンバーの一人である大和の周りまで注意を払っているのだと思っていた。それは今も感じているし、直接は言わないが身の引き締まる思いがある。自分のスキャンダルでアイドリッシュセブンを揺らがすなんて、絶対にあってはならない。
けれど、今は、それともまた違う、別の理由があるような気がする。大和の思い込みかもしれない。願望かもしれない。
「……どうせ甘えてたんだろ。優しくされた?」
「んー、まぁね」
「大和さん甘えたがりだから、相性良かったろ」
「……どうだろ」
甘やかしたいという欲求を満たしてやっている。そんな風に思っていた自分が、本当に彼女らに甘やかされていたと言えるのだろうか。
「甘えたがりだからって、甘え上手とは限らないでしょ」
「どの口が言うんだよ……」
「俺からしたら、ミツが甘やかし上手なだけだって」
「そうかぁ?」
「うん」
三月の膝の上で目を閉じる。うっかり眠ってしまいそうな温もりにギリギリのブレーキを掛けて、それから薄く息を吐いた。
「今だって、俺のこと追い出さないし」
「正直、膝から今すぐ下りてほしいし、とっとと部屋戻って欲しいけどさ」
「ひっど……」
「大和さん、寂しそうだから許してやってんの」
のそりと顔を上げる。身体を起こして、三月の隣にゆっくり座った。三月が「お、起きた」と呟いた。
大和は、身体を傾けて三月の顔を覗き込む。
「何」
「お姉さんたちに未練とかないから……」
自分で想定していたよりもか細い声でそう言えば、三月は呆れたように「はぁ?」と漏らした。
「聞いてねーよ。ていうか、たちってなんだよ、たちって! いいよな、おモテになる奴は! 一体何人泣かせたんだよ!」
「ええ……お兄さんからフッたみたいに言わないでよ……」
「ほー? 実際には?」
眼鏡の弦を押し上げて、静かに息を吐く。
「まぁ、泣かせてはいないけど、自然消滅……みたいな。自然消滅にした、みたいな」
「うっわ最低」
最低という言葉に、わずかに心が痛む。声にこそ出なかったが、喉の奥で何かが潰れたような響きがした。他の誰に言われても然程気にしないが、三月に言われると堪える。
「何があったか知らないけど、ちゃんと別れようって話すのが筋じゃねーの……」
「ミツらしいねぇ」
だってさ、ミツ。あいつら、結局俺の顔目当てで、それで俺の中身も知った気になってさ。そんなのってないだろ。よりにもよって、俺が好きじゃなかった外見と外面で。
「涙目で見るなよ……オレがいじめたみたいじゃん……」
「お兄さんにも事情があったんだよ……」
「でも、それを話そうとしないの、あんたの悪い癖だろ」
「ソウダネ……」
これは、甘やかしタイム終了の、お説教タイム突入かもしれない。そうなると、流石に嫌になることもあって、ミツに昔の女の話なんてしなきゃよかった、なんて思う。
「……まぁ、でも、あんたには深いこと聞きにくいよな。オレだって聞けなかったもん」
「ミツ……」
今はほとんど抜けてしまったトゲが、ちくりと痛んだ気がした。三月が少し俯いて、切なそうに笑うからだ。
「でも、オレは物分かり良いふりしたくなかった。他の奴とおんなじって、大和さんには思われたくなかったし……」
三月は、ふいと大和を見上げる。痛んだトゲをそのままに、大和はぽかんと口を開ける。
「だから、甘やかし上手なんかじゃないよ。オレが、あんたのそういうとこ知りたいだけ」
小さな刺抜きのように、三月の声が大和の胸からトゲを抜いていく。うっかりすると心を全部持っていかれそうになる。そういう優しいあったかい表情をしている三月に、大和は、はっと息を吐いた。
「そんなことねーよ……」
吐き出したものは、素直に言ってくれる分、少しだけでも、僅かばかりでも、自分の持っている素直な言葉を掛けようとする覚悟だった。
「甘やかしてよ。俺、ミツに甘やかされるの好きなんだ」
「おっさんは、甘やかしてくれたら誰でもいいだろ?」
「そんなことない」
素顔を知っていて、それでも大和のことを大切にしてくれる。
「そんなことないよ」
そんな三月だから、自分の形がわからなくなるほど甘えてしまう。
「ミツだからいいんだよ」
素直にそう言えば、対する三月は溜息混じりに肩を落とした。
「自分の彼女の話した後に、そういうこと言うかぁ?」
「元カノの話じゃん……今はないって。昔のことだし……大体、どいつもこいつも俺の外見ばっか見てさ」
「あー、おっさん、それダメだもんな。でも、オレだって大和さんの外見ばっかりかもよ?」
何の気なしに言う三月の瞳を、真正面から見据える。
「ミツなら、それでもいいよ」
「なんだそりゃ」
「お前さんに好かれるなら、それが俺のどこだっていいよ。だって、俺が」
急に、ぺちりと額を叩かれた。気付けば、かなり前のめりに三月に迫っていたからだ。
「……ちょっと、タンマな。おっさん」
背中をベッドの側面に当て、それ以上の逃げ場を失っていた三月が、ぱちぱちと瞬きをする。瞬きの音が聞こえそうなほど近い。
「あんた、外見そこそこ良いから、あんまり近いとドキッとするだろ」
「……しろよ」
「した。だから、ちょっとたんま……」
顔を背ける三月に溜息を吐きたくなったが、今はうまくない。ぐいと喉の奥に呼気を押し込んで、大和はそのまま動きを止めた。
「……だって、俺がさ。心の底から甘えたくて、そこを甘やかしてくれるじゃん。好きなんだよ、ミツ」
「……オレに甘やかされるのが、だろ?」
「……ミツが好き」
「それ、言っちゃうのかよ」
「言っちゃったねー」
「あーあ……」
ベッドに頭だけを乗せて身体をのけぞらせる三月が、困ったように眉を顰めた。
まるで冗談みたいな、だらしのないシチュエーションだ。でも、芝居よりもよっぽど現実味がある。
「好きとか言うクセに、昔の女の話するんだもんなぁ。サイアクだよ、あんた……」
「ミツにヤキモチ妬いて欲しいっていうお兄さんなりの甘え方ですよ」
「悪趣味……」
相手の口が悪いところも、十分リアリティがあった。
「妬いた?」
「妬かねーよ……だって」
それまで余裕のなさそうだった三月が、ぐっと口角を上げた。途端に現れた愛らしい勝ち気な顔に、ついドキッとする。
「多分、オレの方が大和さんのことを甘やかせてるハズだもんな」
その通りです。ホントその通り。まったくもってその通り。
三月の目の前で固まっていると、先に空気に耐えられなくなった三月が大和の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「ミツぅ……雑なんだよー……」
「うるせぇな! オレがいいんだろ!」
そうなんだけどぉと呟きかけて、けれど、髪を撫でられるのが気持ち良くて、大和はそのまま三月の首に鼻先をすり寄せた。
「……部屋戻んなくてもいい?」
「それはダメ」
ぴしゃりと言われて、三月の肩の上に項垂れる。——一周回って惚れちゃいそう。
甘くて厳しいボディブローが、アルコールに浸った脳にひどく効いた。