夜の隅に寝転べば


当然のように暗いリビング。——誰もいないよ。それがわかっていながら、小さく「ただいま」と呟いた。自分の声でも、ないよりはあった方がマシだ。なんの音もないのはよっぽど寂しい。だからだ。声くらい上げる。
リビングの照明を点けて、シャワーだけでも浴びて……一息ついたら寝ようかなんて思っていた時だった。ソファの上に丸まっている人影を見て、三月はつい溜息を吐いた。
テーブルの上にはビールの缶がいくつか。それから冷蔵庫に入れておいたつまみの小皿。
三月は、ソファで丸まって寝ている男の肩を揺する。
「大和さん……やーまーとーさーん……」
何度か揺らして、眼鏡がずれた頃、のたりと目を開けた大和が、これまたゆっくりと三月を見上げた。
「……みつ、だ」
掠れた声に、肩の力が抜ける。
「ミツだじゃねーよ……」
「……なんじ、いま」
大和は、眼鏡を少し上げて、しきりに目を擦っている。
自分で見ろよ……なんて思いながら、三月はリビングの時計を見上げて、眉間に皺を寄せた。
「二時過ぎ。オレ、深夜の特番の仕事だから遅くなるって言ったろ?」
「あー……」
頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜている内に動きを止めた大和の手の上から、三月もぐしゃりと大和の髪を撫でる。
「ったく……一人で深酒すんなっつーの」
「……ミツぅ」
「はいはい……」
自分の頭を抱えていた手を、今度は三月に向かって伸ばしてきた。三月はとりあえず大和のその手をあやしながら、上着のシャツを脱ぐ。
「酔ってんなぁ、もう……オレ、シャワー浴びてくるから、大和さんも自分の部屋行きな」
「ミツはー……」
あやされている自覚があるのかないのかはわからないが、大和は目の前をふらふらしている三月の手を掴まえようと視線と指先を動かしている。
「だからシャワー浴びるんだっての……」
「俺もぉ」
ぱしりと手を掴まれた。寝惚けている相手に向かって「お、よくできました~」なんて呑気に思ったが、深い時間であることを咄嗟に思い出し、軽く大和の手を払う。
「ダメダメ。酔っ払いの世話する体力ねーって……大人しく寝てくれ」
折角掴まえた三月の手を逃がした上にそんな言葉を掛けられて、どうやら癇に障ったらしい。大和はそのままソファにうつ伏せて、身動きを止めた。
――あ、ダメだこりゃ。拗ねた。
三月はストンと肩を落とし、テーブルの上の小皿と空き缶を流しに出す。
「ちょっと残ってるし……」
大和が飲み漁っていた最後の一缶らしいそれに口を付けて、ぬるいビールを喉に流し込んだ。疲れているからだろうか、視界が僅かにくわんと揺らぐ。
「うめー……」
冷たくてもぬるくても、必ずと言って良いほど一口目は美味いもんだ。ビールってのは不思議な飲み物だ。
食器を洗っておかないと、朝面倒そうだけど……と思いながらも、手はそれ以上の仕事をしたがらなかった。
「もういっか、明日で……」
キッチンからソファを見たが、大和の体勢は変わらないままだ。
「大和さーん、いい加減怒るぞー」
「……怒っちゃやだ……」
「環みたいなことゆーなっつーの……朝まで置いといたらそれはそれで嫌なクセに……」
意識があるなら、寮の階段くらい上って欲しい。二階の廊下で倒れてる分には気にしない。一階の廊下だと、流石に邪魔だ。
(いや、二階でも気にするけど……邪魔だし……寝ぼけた環に踏まれそうだし)
想像して笑えた。ふはっと漏れた笑い声を噛み殺して、それからタンクトップを仰ぎながら脱衣所に向かう。
「オレが出るまでに部屋戻ってろよ。返事は?」
「ハイ……」
「おっし。おやすみ」
返事だけは素直でよろしい、と思う。
「……ミツ」
「なんだよ……」
前言撤回。
三月は振り返らないまま、オレだってねみーんだよと思いながらタンクトップの襟ぐりから頭を抜く。閉めているのにことことと動く脱衣所の戸にギョッとして、慌てて戸を開けた。
「風呂、はいりたい……」
「だっから、嫌だってば! 酔っ払い介抱しながらなんて無理だって!」
「嫌とかゆー……」
「言うよ。命に関わるからな」
どういう状態で酔いが回ってるかもわからないで、風呂になんて入れてやれないし。
何度も言うが、大の男の介抱をするには三月だって眠い。ついでに、一口流し込んだビールが胸の辺りを熱くさせている。疲れていると、どうしてもアルコールが回りやすい。つい「大和さんの残りなんて飲まなきゃ良かったかなぁ……」と、自分の唇を指で撫でた。
「ミツぅ……」
「もう、あんたそればっかだなぁ……」
戸から覗き込んでいた大和がそのままぐずぐずと座り込んで、三月の脚に抱き付いている。体幹には自信があるので、その程度でふらついたりはしない。ふらついてるのは大和の方だ。
三月は大袈裟なくらいに溜息を吐いて、蹲っている大和の頭を撫でた。
「ちょっと待ってろ。もうそこで横になっててもいいから。せめて顔くらい洗わせろって」
うん、と短く返事してから脱衣所の戸の隙間で横たわった大和をそのままに、三月はさっさと服を脱いで浴室に潜り込んだ。
他に誰もいないからって好き勝手に駄々こねやがって……なんてぼやきながら、つい口を尖らせる。振り返ると、大和が戸に挟まっているように見えて、少しだけ笑えた。

「おら、起きてっか、大和さん。終わったぞ。部屋行こうぜ」
「ミツ……」
浴室から出て歯を磨いて、ようやく戸の間に挟まっていた大和の顔を見る。目の前にしゃがみ込んで再び声を掛けると、大和ははたはたと短い瞬きを繰り返し、ゆっくり起き上がった。
「……悪い。なんか、暴れたかも……」
「そーだなぁ、暴れたと言っても過言じゃねーよなぁ。酔いは醒めたか?」
「あー……多少」
ぽりぽりと頬を掻いた大和が、軽く自分の頭を振る。どうやら既に少し痛むらしい。短く唸って眉間に皺を寄せた。いつから飲んでやがったんだか……と睨んでみると、大和は申し訳なさそうに笑った。
「あははは……」
「風呂についてこようとしたの覚えてる?」
「……えー、全然だわ」
白々しい態度に、三月は思わず大和の額をとんとつついた。
「……って言っても、ミツは誤魔化せないか……」
「よくわかってんじゃん。記憶飛ばすには早いぜ、おっさん」
床に接していた髪にクセがついて、変な形に跳ねている。それをぺたぺたと撫でてやりながら、三月は「風呂、どーする?」と一応聞いておく。
「え、入ってくれんの? 一緒に?」
「やだよ。なんで一緒になんだよ……オレもう眠いもん」
「あー……お兄さんも眠い……」
「それはあんたの自業自得だろ……」
「だな……」
ふああと欠伸をした大和の頭を撫でていると、普段は鋭い目つきがとろんと据わる。こりゃあ本当に眠いんだと思い、三月はゆっくりと立ち上がった。
手を伸ばす。
「ほら、行くぞ、部屋」
「い、いいって……立てるよ」
「お、なんだなんだ? 今度は意地っ張りのターンかぁ?」
「うるせぇな……」
「まぁ、どっちでもいいけどさ」
引っ込めた手を、おずおずと握られた。三月は「素直じゃねーなぁ」と口の中で呟きながら、見上げてくる大和の表情がまだ醒めきっていないそれに見えて口を噤んだ。
「……言い忘れてたと、思うんだけど。多分……」
「う、うん。何?」
少しとろんとした目が、三月を見上げながら言う。
「おかえり、ミツ」
胸の奥がきゅうっとした。
――ああそう、まぁ、オレだって寂しかったよ。誰にも言われないのはさ。
きゅうっと締め付けられた後に一気に気が緩んで、そのついでに、目の前にこんなにも緩みきった大和がいたらもう、堪えられなかった。
三月はへにゃへにゃとその場にへたり込んで、大和の膝の上に頭を伏せる。
恥ずかしさを誤魔化すためでもいい。大和も、言ってなかったことを寂しく思ったのでもいい。この際、それは些細で野暮なことに違いなかった。
三月は眠くて動きの鈍い表情筋を持ち上げて、ニカリと笑う。
「ただいま、大和さん」
ああもう、こんな戸の隙間で、大人二人何をやっているんだか。そう思うと、無性に笑えて仕方なかった。